幽閉、という言葉は口を重くさせた。
 黙っていても信玄から達しがあるだろう。その時、その細く頼りない肩は震えるだろうか。背中は強張るだろうか。

 (拙者、が、いなければ、殿は泣けるだろうか)

 誰を慮ることもなく、ただわが身に降りかかった不幸を嘆けるだろうか。
 それとも誰か―――例えば佐助が、幸村より何倍もうまく彼を慰めるだろうか。
 その時は笑うだろうか。

 笑えばいい。幸村に笑うのと同じように。
 誰かの前で泣いたりなんて、しないでほしい。
 縋って泣くならば、顔を埋めて泣くならば、それは自分であってほしい。

 (どうかしている!)

 幸村は強く己を打った。
 今自分は何を考えた。
 には、今まさに理不尽な暗闇が襲いかかろうとしているのに、するに事欠いて自分はそれを、

 (友人になんということを!)

 幸村は呟いた。友人。輝く太陽の下で舌に乗せた言葉。
 に友達と呼ばれた時、幸村はとても嬉しかったのだ。
 それなのに、今口にすると喉にものがつかえたように息苦しい。
 大きな錐が心臓を突いているようでさえある。

 生まれてからこっち風邪すら引いたことのない健康優良児は戸惑った。
 武将には健康管理も大切である。

 しかし、今は自分の健康など注意している時ではない。
 隣室で和やかに佐助と酒を酌み交わす(注:未成年)にはひどい未来が待ち受けているのだ。しかもあろうことか、幸村は友人に不埒なことを考えてしまった。

 (いつから、拙者はこんな人間になってしまったのだ)

 幸村は項垂れた。
 評定から戻ってきてから、彼の憂愁は晴れない。
 部屋に入ったときも佐助も驚いて何事か尋ねたが、幸村は黙って首を振った。
 彼らはそれで口を噤み、そっとしておいてくれている。
 幸村は彼らの優しさに感謝した。とてもではないが思考が整理できないのだ。
 しかし、鋭い二人は言われずとも全てを察している。
 幸村が頭と膝を抱えている隣の部屋では、こんな会話が行われていた。

 「いつ頃かなぁ。俺が閉じ込められちゃうの」
 「さあねぇ。近いうちに沙汰があるんじゃない? ……っとと、旦那もういいよ。こぼれちゃう」
 「ん。どこでもいいけど、湿気でカビが生えないところがいいな。青カビは食べられないからさぁ」
 「カビ食べる気でいるわけ? あ、空になっちゃった。次いく?」
 「Naturalmente(当然)。さすがにカビは食べないよ! キノコも危ないからアウト。さすがに死にたくないし」
 「それにしちゃ冷静だね。これはいい酒だよ、味わってね」
 「Grazie。だってさー、あのユキムラ見るに、死刑とか拷問ではないでしょ?」
 「そうだろうけど。今そうだからって、いつ変わるかわかんないよ」
 「その時は、逃げるさ」
 「逃がすもんかね」
 「逃げるもーん」
 (水被って女になってでも)

 よく似た思考回路を持っているので、気を遣う必要はない。
 全て了解しているわけではないが、お互いとりあえずの害はないと見切っているのだ。
 佐助は秘蔵の酒をなみなみと注いだ杯を干す。
 酒には強いので一向に酔いは回らない。それはも同様らしく、酒臭い息を吐きながらも普段と全く変わらない。

 (いっそ、酔えちゃえばいいのに)

 頭に霞がかかって、嫌なことは全部忘れられたら。
 そうしたら、平然としているこの少年もわが身の不幸を嘆くだろうか。
 が嘆く図というのをあまり想像できなくて、佐助は忍び笑った。

 「何?」
 「なんでもないよ」
 「ふーん」

 そう言って杯を傾ける。
 は誤魔化されても追求しようとしない。
 誤魔化されているのを承知で話を続けるところがある。
 さりげなく探っているのかと思えば、全くそんなことはない。
 そういうところは、本当に忍らしくないと思う。

 「の旦那さ、もうちょっと何とかしようと思わないの?」
 「何を?」
 「この状況、とか」

 は目をぱちぱちさせる。

 「どうしようもないじゃん」
 「ま、そうだけどさ」

 が置かれた状況は、彼がどうこうしたところでどうにかなることはない。
 むしろ悪くなる公算の方が高いのだ。
 弁明は時として疑いを強くする。
 スパイが身の潔白を叫んでも、解放されることはない。
 なぜなら、誰もスパイを信じようとしないから。

 「俺はクラウンだからね」

 は薄く笑みを含んで言った。

 「水の流れるままに、漂うだけさ」

 彼は杯を見下ろした。
 ふくいくと柔らかな香りを醸して、濁り酒に月がぼんやりと沈んでいる。
 その月を、クラウンの喉が飲み干した。











 1 / 2 のクラウン! Quindici : 愚か者の愛 T









 波乱の胎動を覆っていた夜が明けると、軍議が連日開かれるようになった。
 昂りは熱さを増していき、細かな作戦が立てられる。
 信玄の纏う空気は日を追うにつれ剛勇なものになっていった。諸侯もそれにつられるように勇猛な気を発している。
 しかし、普段なら最も早く燃え上がっているはずの幸村が、今回ばかりは水をかけられた炭のようにじりじりと火付きが悪い。
 その原因は信玄も佐助も、幸村自身もよくわかっていた。



 に正式な沙汰が下った。
 信玄に呼び出された彼は、蒼白な幸村に笑いかけて部屋を出て行き、そして何事もなかったような顔をして戻ってきた。
 息せきこんで幸村は戻ってきた彼の肩を握った。
 突然骨っぽい肩を抱いた幸村には驚いたが、すぐに得心したようににっと笑った。
 本陣が攻められたと聞いた時でも見せたことのない顔をしていた幸村は、その笑顔に唇をわななかせて言葉を探したが、結局何も見つからずに殿、とまるで喘ぐように零した。

 「なんて顔してんの。世界の終りでもあるまいし」
 「その……お館様は、なんと」
 「これから戦だから、しばらく目立たない安全なところで大人しくしてろって」

 は意図的に耳障りのよい言葉を使ったが、それは、

 「ゆうへい、と、いうことでござるか」
 「Si。平たく言えばそうだろうね」
 「殿!」

 全く応えた様子も見せないに、幸村は声を荒げた。
 びくり、手を置いた肩が震える。
 しかしの浮かべた表情は何故怒られているのかわからない子供のようなそれで、ますます幸村を憤らせる。
 何に腹を立てているのかは、自分でもよくわからなかったが。

 胸にわだかまる靄を無理矢理言葉にするとそれはを責める槍になった。

 「笑ってはなりませぬ! これがどういうことか分かっているのでござるか?! 殿は幽閉されるのです、そんな笑顔は引っ込めてくだされ!」
 「そんなこと言われたって、」
 「お館様はっ。お館様は素晴らしい人なのです。それなのに幽閉なんて、っ。殿、殿も、どうして何も言われないのです、どうして無実だと訴えないのです! それとも本当に忍だとでも?!」

 違うこんなことを言いたいんじゃない。
 それなのに口は勝手に動いて、を、あろうことか信玄をなじってしまう。

 「お館様は、っ、ひどい…」
 「Stai zitto!(黙れ!)」
 「っ」

 急に異国語で叫ばれて、幸村は口を噤んだ。

 「それは言っちゃ駄目だ、ユキムラ」
 「ぁ……」
 「オヤカタサマはさ、俺にすまんって言ったよ。お前にもすまんって言ったよ。ねえ、すまんってMi scusiだよね。ごめんなさいって意味だよね。間違ってる?」
 「…ぅ、でも……」
 「オヤカタサマはユキムラをあいしてるよ」

 お父さんってあんな感じかな。

 「ユキムラもオヤカタサマをあいしてるよね」
 「は、ぃ……」
 「だったらそんなこと言っちゃ駄目だ。俺の言ってることわかる?」
 「でも、っ」

 だって認めてしまったら、幽閉する信玄を認めてしまったら、幸村はを守るための手を下ろさなくてはならない。
 ―――認めざるをえないのに。
 幸村に決定を覆す力はない。それを認めたくなくて唇を噛んだ。
 信玄を非難したところで何も変わらないのだ。
 苛立ちの捌け口に、二人に怒りを向ける自分はどうしようもなく無力で、あさましい。

 「ユキムラはオヤカタサマの槍でしょ。刃先はオヤカタサマに向けちゃいけない。俺を友達と思うなら、そんなことしないでくれ」
 「殿…」

 俺は槍のお前と友達でいたいんだよ。
 諭すように言われて、幸村は強く目を閉じた。
 ああ、彼は笑っている。
 優しく、柔らかく、自分の不安なんて押し込めて。

 違う。そんな顔をしてほしいんじゃない。
 泣いて、嘆いて、どうしたらいいと頭を抱えて、不安を零してほしいのだ。
 それが雫として溢れるならこの手で拭おう。
 それが言葉として溢れるならこの胸に収めよう。
 それが拳として溢れるならこの身を差し出そう。
 
 お願いだから笑わないで。
 そんな、誰にでも向ける笑顔を向けないで。


 特別なのだと、思わせてほしいのに。


 (最悪だ)

 この危地にあって、彼の嘆きを期待している。
 そんな幸村に友達を名乗る資格など、ない。

 (ともだち…)

 呟きは胸に落ちた。

 (拙者は、殿の友達に、なりたいのだろうか)

 友達と繰り返すたび、心臓に小さな穴が開いたように冷たい隙間風を感じる。
 あんなに嬉しかった二文字が、突き崩せない壁のように思えるときがままあった。

 それは例えば、が佐助と話をしている時であったり、世話をしにきた女中にちょっかいを出している時であったり、―――今のように、笑いかけられているときであったり。

 「、殿」

 声は上擦っていた。
 薄く眼を開く。ああ、やはりは笑っている。
 その笑顔はしあわせと笑ったあの時のものだ。

 今彼が笑いかけているのは自分だけ、そのことは幸村を高揚させた。
 けれどそれ以上に、悲嘆の欠片すらない微笑みは悲しくて苛立たしくて。


 お前に頼るつもりはないと、突きつけられた気がした。


 「何故、そのように笑うのです」

 細い肩だ。細い手だ。細い体だ。
 のどこを見たって、強靭と表わされるものなどどこにもない。
 肩に置いた手をずらす。着物に皺が寄っている。その下で、今彼の肌には赤く手形が残っているかもしれない。

 「どうして泣かぬのです」

 微笑みが遠い。
 の心が見えない。
 幸村の伸ばした手を、見えない柵でもって防いでしまっている。

 幸村の胸に覚えのある感覚が波紋を起こした。
 それは、がしあわせだと笑った時に感じた感覚だ。

 (遠い)

 これは遠さの感覚だった。
 谷の向こうにある花、空に浮かぶ月のように、美しいけれど届かないものたち。
 それらを掴もうと手を伸ばす者の心に宿る、虚しくも切ない思い。
 そんなもの、わかりたくはなかった。

 「泣いてくだされ」

 泣いてほしい。
 声を殺して、声を上げて、身を抱えるようにして、張り裂けそうなほど。

 「泣かないよ」
 「殿」
 「俺はクラウンだもん」

 笑ってるのがクラウン。クラウンは、泣かない。

 「泣く必要なんてないもの。俺はしあわせ者だから」
 「幸せだなどと…っ」
 「言ったはずだよ、ユキムラ。俺のしあわせをお前が決めるなと」
 「……っ!」

 の夜をはめ込んだような瞳は潤うことはなかった。
 長い睫毛をしばたかせて、ほのぼのと笑う。

 「俺は嬉しいよ。お前は一所懸命俺を庇ってくれたんだろ」
 「、ど、の……」
 「愁眉を開いて、笑ってくれたらもっと嬉しいんだけど」

 さすがに笑えというのは酷かな。

 彼は、幸村の予想と寸分違わぬ笑顔で、寸分違わぬ言葉を紡いだ。

 (何故、)

 痛々しいほどに優しい。
 は幸村を見上げて、困ったように笑う。
 何も考えていなかったのに腕があがった。
 鍛えられた両腕は目の前の細身を抱き、幸村の意図に気づいたが抵抗するより早く閉じ込める。
 壊れ物を扱うように、そろそろと手が彼の背中に触れた。

 彼を抱くのは二度目だった。
 その細い体が強張るのを感じたのも。

 「殿」

 頼りない肩に顔を埋め囁く。
 吐息がかかったのか、はびくりと震えた。

 「拙者は、おかしいのかもしれません……」


 友達はきっと、こんな気持ちを抱いたりしない。
 甘い幸福感と苦々しい自棄が、胸を焼いた。


幸村が思うように中学生になってくれません
こうなったら政宗で鬱憤を晴らしてやろうか
080203 J

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