両方の鼻腔にちり紙を詰めた幸村は壮絶に悩んでいた。
 原因は、大量の鼻血を吹く原因となった友人の言である。

 『挨拶は親愛の情を表すんだ』

 真理である。
 しかし、それが故に悩ましい。

 (するべきか、せざるべきか)

 風呂上がりのように肌を真っ赤っかに紅潮させ、幸村は唇を噛んで微動だにしない。
 眉間に刻み込まれた皺は深山の渓谷のようだ。
 苦渋の決断を迫られた幼顔は、長年彼に仕える忍にこれでもかというほど嫌な予感を抱かせた。

 「あ、あの、旦那……?」

 佐助は遠慮がちに声をかける。
 おかしい、自分は妙なことは言っていない。
 先ほどの会話を思い出す。
 評定(といってもこれは実質軍議になるだろう)に呼ばれた幸村は、「では行ってまいる」と言い腰を上げた。
 忍である佐助に評定へ出席する権利はないので、風呂に行ってしまったと共に部屋で居残りだ。
 久々にくつろげるなぁと思いながら軽く手を振って挨拶すると、途端に幸村が固まった。
 そして冒頭へ戻る。

 「旦那、早く行かないと遅れちゃうよ?」
 「ぬぅ! ええいままよ!」
 「だん、……?!」

 仁王のように苦悶した幸村がぐわしっと佐助の肩を掴む。

 「佐助、そこへ直れ」
 「いやっ、ちょっ俺様何にも悪いことしてないよ一体どうしたの?!」
 「あ、あいあいあいあいあい挨拶をする、だけ、だ!」
 「………!! あれかあぁああ! あの道化かああ!!」

 自分に言い聞かせるようにどもった言葉で宣言して、幸村は顔を近づけた。
 目がマジだ。
 佐助は頬に寄せられる唇を必死で押し留め、脳内で思いつく限りの罵詈雑言をここにはいない少年にぶつけた。

 (旦那本当に信じちゃったんだ?!)

 頭が痛い。
 純粋にもほどがある。佐助は幸村の将来が本気で心配になった。
 きっと彼は若くしてオレオレ詐欺に引っ掛かる。妻さえいないのに。

 激しい頭痛をこらえて、佐助はまくし立てた。

 「旦那、早まっちゃ駄目だよやめなさい!」
 「し、しかし、これは親愛を示す挨拶だと!!」
 「それはの旦那の国だけだ! ここは日ノ本なんだから普通の挨拶でいいの! 旦那がそんな真似する必要はありません!」
 「む、そ、そうか?」
 「そう! の旦那はしても、旦那はしなくていいの。しちゃだめ、しないで! わかった?!」
 「う、うむ。承知した」
 「ありがとう!」

 顔を羞恥に染めた幸村は撤退した。
 彼自身も相当恥ずかしかったらしく、どこかほっとした風情だ。
 佐助はほっとしたどころか脱力した。心臓が限界に近い全力疾走をしていたのだ。

 (確実に寿命が縮んだ)

 舌先三寸で寿命を縮めた道化師が戻ってきたらどうしてくれよう。
 佐助は黒い策を練る。

 ―――幸村が丸め込まれたことは、彼の恋情を隠蔽しようとする佐助とにとっては好ましいことではある。
 ではあるが、幸村をちゃんと育てたい佐助にとっては、同時に胃が引き絞られる事態でもあった。
 これを矯正するのが自分以外にないことに愕然とする。
 しかし諦めるわけにはいかない。
 万一、このとんでもない習慣が彼に根付いてしまったら大問題だ。
 間違いなく事態は破天荒な方向へ突き進んでしまう。

 (旦那の貞操の危機だ!)

 むさ苦しい危機だ。
 第一、男にそんな心配を払わなければならないのが異常だとこの忍は気付いていない。
 佐助は何よりもまず、常識を培わなければならないのかもしれなかった。











 1 / 2 のクラウン! Quattordici : lucky boy









 上座に座った信玄は、集まった諸侯を見渡して評定の開始を告げた。
 今回の緊急招集の示すことは、既に全員が察している。
 それが証拠に、彼らの目には滾るような熱が宿っていた。
 場の空気がたった一つの言葉を待ち望んでいる。
 信玄は重々しくその言葉を紡いだ。

 「戦だ」

 おお、と押さえられた興奮が弾けた。

 「皆も知っておろう。先日、上田城近くの村が何者かに焼き打ちされ、その手は上田城にも及んだという。幸村」
 「はっ」
 「仔細を報告せよ」

 幸村は一礼して被害状況を告げた。
 滅びた村の数、城下町に乱入されたときの状況と軍備、そしておそらく伊達の手勢であるということ。

 「お館様より預かった村を守れず、面目次第もござりませぬ」

 若い武将の顔が苦しげに歪んだ。
 彼は心底、掌から滑り落してしまった命を嘆いている。
 幸村のこういうまっすぐなところが、信玄はたまらなく好きだった。

 「仕方あるまい。今回のは奇襲じゃ。―――卑怯な挑戦よ」

 甲斐の虎の双眸に剣呑な光が宿る。
 全身から発散される強烈な威圧感に、幸村は身を固くさせた。

 「独眼竜は若いが傑物と聞いていたが、こんな手段を取る悪童とは思わなんだ。わしの民を脅かすとは、いい度胸じゃ」

 勇猛かつ凶暴な虎の牙が剥かれる。
 畏怖は諸侯を昂ぶらせた。

 「戦仕度をせよ。奥州の小童に灸を据えてくれる」
 「ははっ」





 先陣などの大方を決め終えると評定は終了した。
 興奮を抱いた諸侯が慌ただしく散っていく中、幸村は主君の野太い声に引き留められる。
 大好きな信玄の誘いを断るはずもなく、幸村は尻尾をぶんぶん振って彼の正面に座った。
 顔を輝かせた青年武将を見る信玄の目は父親のようだ。
 しかし、その表情の中にわずかな陰りがある。
 幸村がそれを見逃すはずもなく、彼は訝しげに首を傾げた。

 「何でございましょう」
 「うむ、―――のことだ」
 「………!」
 「あれは、異国語を話すが」

 異国語といえば、奥州とは切っても切れない。
 独眼竜は流暢な異国語を話すことで有名だ。

 「殿は奥州とは関係ございませぬ! 忍ではないと、佐助も…」
 「だが、ただの芸人でもあるまい」
 「……ッ! 芸人です、殿はいつも見事な曲芸を見せてくださる」
 「あの子供は、人を斬れるそうではないか」

 事実だ。
 幸村はそのことを僅かに伝え聞いていた。
 あの暑い日、彼は返り血を浴びて修羅の庭にいた。

 「それはっ、致し方のないことでっ」

 が忍のはずがない。
 血塗れの細い体に息を呑んだ幸村に、彼は困ったような笑顔で言ったのだ。
 笑ってと、しあわせだからと。
 抱きしめた体温の、なんと優しく悲しかったことか。

 責められないことが断罪だった。
 あの返り血は浴びるはずのなかったもの。
 それを強制してしまったのは幸村だ。生き延びたを責めるのはお門違いだろうと思う。

 「殿が伊達の忍なら、あの兵たちを斬るはずがございませぬ」

 いいや、もし忍ならば斬るだろう。
 疑いを持たれないために。

 (佐助)

 彼は、忍の彼は何と言っただろう。
 を忍と断じただろうか。そんなはずはない、彼が自分に言ったのだ。は忍ではないと。

 「殿の卓越した身体能力は長年にわたる芸事の修練によるもの。あの優しい殿が忍など、ありえませぬ!」

 しあわせだと笑った顔を覚えている。この頭を撫でた母のような手も。
 幸村は必死にを庇った。
 青空の下で見た晴れやかな笑顔を守りたかった。
 血に染まって、それでも優しい彼を今度こそ守りたかった。

 守りたい笑顔を思うたび胸の奥が震える。
 その甘やかな波紋は強い決意に変わった。
 友達だから庇うのは当たり前だ、言い訳が頭を掠めたが、それはすぐに押し流される。

 (殿を守りたい)

 友達とか、そんな理由は無くても。
 ただ、あの笑顔を。


 「あの少年を疑わずにしておくことはできん」
 「お館様…! しかし…!」

 最悪の事態が浮かんで、幸村は血の気が引いた。

 「だが、証拠もない」
 「……っ! ではっ」
 「しかし、自由にしておくわけにはいくまい」

 信玄の言葉は岩のように固く重い。
 尊敬する主君の判断が、今は鉛のように冷たく思える。

 「戦が終わるまで、を幽閉する。―――幸村、すまんな」
 「お館様……!!」

 最後に添えられた謝罪に信玄の本心が滲んでいた。
 信玄とて、あんな年端もいかぬ憐れな子供を幽閉などしたくない。
 しかし彼は甲斐の主だ。
 この戦国乱世、疑わしきには相応に報いなければならない。
 非情でなければ治められない。
 それは悲哀と言うにふさわしかった。










 (くそっ……!)

 やり場のない怒りを乗せた拳を冷えた床に叩きつけた。
 既に信玄はいない。部屋に残っているのは幸村だけだ。

 「拙者には、守りたいものさえ守れんのか……!」

 の立場は限りなく悪い。
 幽閉は最大限の譲歩だろう。本来ならば首を打たれても仕方がないのだ。
 しかしそれでも、何の咎もないに苦しみを強いてしまうことは確かだ。

 何が虎の若子だ。
 幸村には、たった一人の道化師にかけられた嫌疑すら晴らせない。

 その嫌疑すら、幸村さえを引き留めなければかけられるはずがなかった。
 彼は旅芸人なのだ。無理を言って城に留めたが、そうしなければ彼は自由だった。
 今頃観衆に笑いかけながら、芸を披露していただろうに。
 どこかに閉じ込められることもなく、気の向くままに青空の下を歩いていけるだろうに。

 (逃がして、)

 それはだめだ。
 逃げれば逆に首を絞めることになるだろう。
 ぴりぴりしている今の甲斐では、どこかで捕らえられたらその場で殺されるかもしれない。

 (ああ、)

 こんな状況に追い詰めるつもりなんて、なかったのに。
 笑って、笑って、しあわせでいてほしいのに。
 何度か腕の中に感じた体温。しあわせだと頭を撫でた手。友達だと笑った唇。
 血にまみれてさえ彼は自分を案じてくれたのに。

 「何も出来ぬ」

 友達。
 そう友達なのに、幸村には彼を逃がしてやることすらできない。
 彼が異国語を話すことも、彼が刀を振るったことも、彼の罪ではないのに。

 (殿、)

 苦い気持ちで思えば心が震えた。
 幸村の記憶にあるのは、笑顔か呆れ顔しかない。彼は大体が笑顔だ。感情は豊かなようだが負の表情はほとんどない。
 それを彼は好ましく思っていたが、今はそれが悲しい。
 こんなときでさえ、は笑ってしまうからだ。
 頭の中で彼はしかたがないなという風に笑った。綴る言葉さえ聞こえてくる。

 『ユキムラは庇ってくれたんだろ。俺はそれが嬉しいよ』

 彼はそう言って笑うだろう。暗い未来に対する不安を押し込めて。

 (泣いてくだされ)

 せめて不安な顔をしてほしい。笑顔は美しくて辛いから。
 行きたくないと、怖いと泣いてほしい。
 そうしたら、その透明な雫に自分の全てを捧げてもいい。
 その温かい雫を拭って、その細い手に勝利と自由を手渡すために戦場を駆けよう。
 白皙が、花のように綻びることができるように。


前半と後半空気が違う
もっと幸村を中学生にしたいな
080202 J

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