「ゆきむるぅあ!」
 「おやかたさむぁ!」

 ずがん。

 物凄い衝撃を伴って、暑苦しい挨拶が始まる。
 巻き舌で呼び合いながら繰り出された拳は格闘アニメで奥義扱いされていそうな勢いだ。

 「サ、サスケサスケ! 止めなくていいのかアレ?!」
 「あー……いいのよアレが挨拶だから」

 気にしない方がいいよと、佐助は紙のように白くなったに投げやりに答えた。
 その一瞬の後に、信玄に足を掴まれジャイアントスイングを食らっていた幸村が吹っ飛んでくる。
 人間が風切音をまとって宙を舞う光景に、は「Mamma mia……!」と戦慄した。










 1 / 2 のクラウン! Tredici : 正しい挨拶の仕方









 いい汗を流して幸村の成長を確かめた信玄は、腹に響く大音声で彼を誉めた。
 障子をぶち破って庭木に突っ込んだ幸村が負けじと感極まって叫ぶ。大変うるさい。
 それを眺める忍は遠い目をしていた。
 ―――武田主従の日常である。

 信玄は、黄昏れる忍の隣で硬直している少年に向きなおった。
 今回諸侯を招集した一因でもある、しかしその重大な事実を恐らく知らないであろう少年は、見つめられていることに気付いて「ぴょ?!」と奇声をあげた。

 「お主がか」
 「P,piacere(初めまして)ッ! お見知りおきいただいて光栄ですっ」

 余程緊張しているのか、彼は盛大にどもった。
 それも無理はない。
 気づいているかどうかは知らないが、彼は今崖っぷちに立っている。

 (しかし、まるで忍には見えんなぁ)

 大柄な信玄には余計に、が少女めいて見える。
 びくびくしている小柄な体は、とても佐助と同質の強さを宿しているようには見えない。

 (いやしかし、忍は化けるもの。油断してはならん)

 どこぞの狸か狐に相対するようなことを考えて信玄が密かに気合を入れなおすと、それを悟ったかのようにの眉が垂れた。
 当然信玄は驚いたが、それも道理だ。
 なんと、は唐突に土下座したのだ。
 これには佐助も目を瞠ったし、頭に葉っぱを付けて縁側にのぼった幸村もぎょっとしてに駆け寄った。

 「殿、一体どうしたのでござるか?!」
 「Mi scusi mille……(本当にごめんなさい)!! 挨拶が大事だってことは身に沁みてるんです、クラウンは客商売だから。でも、でも、俺にはそんなステキにムテキな筋肉に勝負を挑む度胸はないんです……!!」

 は本気で怯えていた。
 だって人間を一人吹っ飛ばす拳だ。北斗●拳だ。
 どうやってあの乱打を生き残れというのだ。
 人生にはまだまだ未練がある。我が人生、一片の悔いなしなんて口が裂けても言えない。

 (親父にだって殴られたことないのに……!)

 の父は六歳のときに死んでいる。
 あの拳を受けたらきっと再開できるだろう。冗談ではない。

 武田主従の挨拶が一般例だと誤解したは思いつく限りの謝罪を述べた。
 それを幸村が必死でやめさせようとしているが、逆効果にしかなっていない。

 (いたたまれない)

 佐助は腹のあたりを押さえた。
 彼の胃は、神経性胃炎に侵されつつある。










 どうにか落ち着いたは、見れば見るほど血腥さからは遠かった。
 彼ははきはきとした口調で信玄の質問に答える。

 「ほう、ではお主は海を渡ったのか」
 「Si! 十二歳からこっち、ずぅっと向こうのサーカスにいたんです。巡業で色んなところに行きましたよ、アメリカ、ロシア、中国……ヨーロッパの主要国も大体周ったかなぁ」
 「殿はそこで芸の腕を磨かれたのです。凄いのですぞ、えーと、ぱん、ぱん、ぱんつまんという無言劇など特に見物でござる!」
 「こらまて何だその変態的な名前! パントマイムだってば!」

 目を輝かせて説明する幸村と、それに突っ込みを入れるのじゃれあいは子犬のそれのようで心を和ませた。
 我知らず唇があがる。それは父親の笑みと称されているのであるが、より的確に表すならジジ馬鹿の顔である。
 人が老いるのは悲しいほどに早い。

 (では奥州との関係性は、予想より低いか…?)

 信玄は隅に控える佐助に一瞥を送った。
 優秀な忍は肩をすくめる。
 それを見て、漫才に発展している青年たちの会話を止めさせることにした。

 「まだまだ珍しい話を聞いてみたいが、上田城からここまでは遠い。疲れているだろう、部屋を用意させてあるから、一息つくと良い」
 「お館様…! 拙者、これしきのこと!」
 「俺だってまだまだいけますよー。興行じゃ芋虫になるまでこき使われる下っ端だもん、体力はあります」
 「旦那たち、わがまま言わないの! 大将はまだ仕事があるんだよ。お菓子食べていいから部屋に行きなさい」
 「なに?! まことか佐助!」
 「きゃお! Grazie!」

 一瞬で目を輝かせた子供たちは辞去の挨拶もそこそこに走り出ていった。
 軽く手を振って見送った佐助の手並みは鮮やかすぎるほどだ。
 そこには凄腕の青年忍ではなく、二児の母がいた。
 体よくこれからの話題の当事者を追いだした彼は、くるりと信玄に向きなおる。

 「さて、じゃあ俺様からも報告しますか」
 「うむ」
 「が雇われた忍ではないのは確実でしょう。ただ、」
 「ただ?」
 「堅気の人間ではありませんね」

 佐助は、彼が見たもの、分析したことを語った。
 腕を組んだ信玄は時々唸りながらそれを聞く。彼の眉間がよるにつれ、佐助はの一時的な不自由を確信した。
 それこそが彼の狙っていたことだ。
 を幸村から遠ざけ、しかし彼に危害を加えないこと。
 もしが害されるようなことがあれば、幸村が傷つくからだ。

 (ごめんね、旦那)

 後悔のない反省をひとりごちる。
 佐助はこの頃の幸村の変化に気づいていた。
 元々がわかりやすい御仁だ。彼があの道化師を意識しているのはすぐにわかった。

 (あのこはだめだよ)

 彼の瞳は闇色だ。
 本人さえ気付いていないであろう、の空虚な凄惨さは、幸村という若木には毒だ。
 あの忍に似た道化師は、いつか幸村を真綿で絞め殺す。
 彼がそう意図しなくとも。

 しかし、佐助に負けず劣らずは聡いらしい。
 幸村が抱いていた感情の色をいち早く察した彼は、魔法をかけるようにその色を錯覚させた。
 幸村は自分で色の名前に気づく前に、別の名前を与えられてしまい、それを信じてしまったのだ。

 「佐助」
 「はっ」
 「あれは、憐れな子だな」
 「は…?」

 思いがけない言葉を受けて、佐助は信玄を仰ぎ見た。
 虎と称される豪傑は、若者たちが去った方向に視線を投げている。

 「あの子供は灯りの少ない道を歩んだに違いないのに、ああも明るく笑っておった。それが悪いことだとは言わん。が、わしには、忍でさえないあの者が舐める辛酸を思うと、憐れに思えてならんのだ」

 彼は軟禁されなければならない。
 その時も、ああやって彼は笑うだろう。
 その強さを持つに至った経緯が哀れだった。
 語られた過去は綴る声の明るさに誤魔化されているが、決してその声音通りのものではない。
 信玄は少年にしては華やかな顔を思い出す。
 溌剌と微笑んだ目の奥に悲しみが澱んでいなかったことが、何よりも憐れだと思った。










 大口を開けて食らいついた団子は気に入りの茶屋のもので、幸村は盛大に顔を綻ばせた。
 どうやらぎっくり腰を患っていた店主は現役復帰したらしい。
 祝いに行こうと決めた彼の向かいで、が幸せそうに咀嚼している。膨らんだ頬がリスのようだ。

 「うまいであろう!」
 「めちゃうまい!」
 「ここは拙者の気に入りなのでござる。そうだ、殿、今度一緒に行きませぬか。白玉ぜんざいを食べましょうぞ」
 「おお! 賛成賛成、大賛成!」

 おおげさに喜んだが腕を広げ、ばふっと音をたてて幸村に抱きつく。

 「ユキムラだいすき――! Ti amo(あいしてる)!」
 「ぷひゃおぅ?! な、なななななな、何ををを……?!!」

 幸村は一瞬で全身を赤く染めた。
 けたけた笑うの吐息が耳にかかる。細っこい両腕がむき出しの肌に触れ、着物の冷たい感触がいやに意識される。

 (だ、だ、抱き、抱きついて……?!)

 混乱のドツボに叩き落とされた幸村は彫像のように硬直した。
 思考はまとまらないどころか感じる重さや感触に意識の全てが向いている。
 彼が自分の気持ちを誤解したところで、体は正直なのだった。

 一方のは、唐突に硬直した幸村に首をかしげた。
 彼の常識の中では、ハグなど日常茶飯事だ。
 嬉しい時、楽しい時、彼は遠慮なく人に抱きつく。
 上田城にいた時もおいしい料理を食べては感激して抱きつき、かわいい女の子と歓談しては抱きついた。
 一歩間違えれば痴漢である。
 西洋文化と日本文化は、時として信玄の腹筋よりも硬い壁に阻まれている。
 (幸いなことに、その容姿と子供のような言動のおかげで痴漢扱いされることはなかった)(しかし副産物として厨房や女中部屋を中心に「君を愛で隊」が発足し、彼女らは日々物陰から彼を愛でまくってはお菓子を与えている)

 「どしたの、ユキムラ」

 頬を引っ張ってみたり鼻フックをかましてみたりしたが、若さ爆発で思考停止した幸村は全く返事をしない。ただのしかばねのようだ。
 悪乗りしたが額に筋肉と落書きしてさえ彼は動かなかった。

 「おお、似合う」
 「似合うじゃないでしょ、何やってんの旦那」
 「いや懐かしのアニメ再放送を」
 「………とりあえず、の旦那がくっつくのをやめたら動き出すと思うよ」
 「そう?」

 いつの間にかやってきた佐助に言われるまま茹だった体を離すと、たっぷり五分の沈黙のあと幸村は仰向けに倒れた。
 顔が紫色になっている。息を止めていたらしい。
 海女もびっくりな肺活量を発揮した幸村は、幸福な窒息死の魔手を逃れて叫んだ。

 「破廉恥でござるぞ、殿!!」
 「何がさ?!」

 大変心外である。
 しっかり着物を着た自分を破廉恥というなら、幸村はどうなるのだ。猥褻物か、モザイクをかけてピーピーとしか喋れなくなるのではないかというのがの主張だ。

 「い、いいいいきなり抱きつくなど……ふ、不埒な!!」
 「ただのハグじゃん、親しけりゃ誰でもやるよ」
 「いややらないって」

 繰り返すがは帰国子女である。
 盛大にどもる幸村とは感覚が違う。
 眉を寄せた彼は冷静な突っ込みを入れた佐助に向かって手を広げた。

 「どりゃー」
 「わぉ?!」

 倒れこむように抱きつく。
 あー畜生幸村といい佐助といい羨ましい筋肉してるなぁ。
 佐助は小揺るぎもせずを受け止めた。

 「男同士で抱き合ったって、何にも嬉しくないもんだねぇ」
 「ちぇーいやかましいわ、俺だって抱きつくなら女の子がいい! ほらユキムラ、ハレンチなんかじゃないだろ?」

 それは一体どういう理屈だと佐助は呆れたが、目の前で抱擁シーンを見せられた幸村は違う感想を持ったらしい。

 「ふっ…不潔でござる! 佐助の(自主規制)――!!」
 「だ、旦那ァ?!」

 とんでもないことを叫んで泣き出してしまった。
 乙女泣きをするガタイのいい男に二人は途方に暮れる。

 (どうしてくれるのさ、旦那が泣いちゃったじゃん!)
 (いやまさか泣くとは思わなくて……ただ、ハグってそんな重い意味を持ってないって言おうと思ったんだけど)
 (しかも(自主規制)なんて言葉教えたのあんただよね。何てこと教え込んでるの。しかも俺様だけなんて…原因はあんただろうに)
 (ぬぬぅ)
 (責任もって泣きやませてよ)

 は深刻そうに眉を寄せた。
 彼が女性を口説く場面に、幸村は何度も出くわしている。
 そのたびに彼は破廉恥破廉恥と叫んだが、どことなく羨ましそうな目をしていたのだ。
 それは女性に抱きつくではなく、抱きつかれた女性たちに向かうもので。
 気のせいかと首を傾げることすらない本当に本当に微かな羨望。
 恐らく当人は気づいていない。
 けれど、当然その意味がわからないではない。
 伊達に愛の国で鍛えられていないのだ。
 だから、自分にとって望ましくないそれを当たり前の挨拶だと教えることでその視線を封じようとしたのである。

 「ユキムラ、元気だせよ」
 「うっ、ふへっく、ふへつでござりゅ……ひっぐ」

 拗ねた顔は年齢以上に幼かった。

 「ほれ、キスしてやるから」
 「き…? ?! ?! ?!?!?!?!?!?!
 「の旦那……?!!」

 柔らかい熱が右頬に触れた。
 それは一瞬で、花びらのように軽かった。
 しかし衝撃は信玄の拳よりも脳天を揺さぶった。
 再び硬直した幸村を佐助が唖然と見ている。

 「よし、泣きやんだな」
 「そっ…そういう問題か!! うわああ旦那あぁあ?!」

 幸村は声もない。
 びしりと音を立てそうなほど、見事な彫像になっていた。涙腺は石化したらしく新しい涙もでない。
 代わりに、タコのよりも赤く染まっていた。耳の奥で鼓動が早鐘のように鳴っている。ついに脳みそまで筋肉の塊になったらしい。

 「な、何やってんのさの旦那!」

 左隣で幸村を揺さぶっていた佐助が、死後硬直後の死体のように反応のない主人を抱えて吠えた。
 は満足げに胸を反らして言う。

 「泣きやんだだろ!」
 「そういう問題じゃない!」

 佐助は歯ぎしりした。彼の思考は理解できると思ったのに。

 (あんたは、旦那を牽制してたんじゃなかったのか!)

 本当にさりげなく、は幸村の恋情に目隠しをして、方向を転換していたのだ。
 その手腕に感心していたのに、これでは一体何がしたいのかわからない。
 もしや、ただ幸村をからかっているだけか。
 だとしたら魔性の女、いや違った魔性の男である。なんだかとてもヒモっぽい表現だ。

 「何で。キスくらい誰でもするだろ」
 「するか!」
 「マジ? 挨拶だぜ、こんなもん」

 にとっては確かにそうなのである。
 彼はオネーサマの手を取っては口付けるし、本当にさりげなく頬に唇を寄せる。
 出かける際頬ずりをされた時佐助は真剣に悩んだが、からすればただの挨拶なのである。
 しかしそれも、幸村相手には自粛していたはずだ。過呼吸を起こしてぶっ倒れるから。

 (あ、……ひょっとして、だからか)

 不意に、佐助はの意図を察した。
 純朴な幸村が芽生えた嫉妬に気づいて、彼の持つ感情の本当の名前を察することがないように、嫉妬の種になりそうなものを全て「友人関係の中で当たり前に行われること」に変えてしまおうとしている。
 女たらしをやめる気のない彼は、防護柵を取り払うことで厄介な獣を目覚めさせまいとしているのだ。

 (しっかし、これ間違いなく事後処理が大変だ)

 は正しい友人関係を捻じ曲げて教え込んでいるのだ。
 それを訂正する役目は佐助に丸投げしている。佐助は眩暈を覚えた。やっぱりは有害だ。
 もう少しマシな手を何故打ってくれないのかと遠い目をした佐助の髪を、伸びてきた手が鷲掴みにした。

 「ぎゃ?!」
 「ほーれ、これがイタリア式挨拶じゃ!」

 盛大な誤解を生みかねない掛声と共に、は勢いよく、しかし丁寧な仕草で佐助を彼の主人の左頬に押し付けた。
 唇に餅のような感触が触れる。佐助は血の気が引く音を聞いた。幸村の口から魂が半分出ている。
 拘束するための力を入れていない手を簡単に振り払って、佐助は叫んだ。

 「俺様ノンケなんですけどおおおぉ?!」
 「俺だって女の子が好きだああ!」

 いや、確かに小さい頃はそういう訓練もしたが。
 もう武骨な手に触られる必要もない強さを手に入れた今、わざわざ男に手を出すつもりはない。

 「だからっ! キスもハグもそんな騒ぎ立てるほどのもんじゃないんだってば」

 とんでもない事態を引き起こした張本人は一気に疲労を覚えた佐助と対峙して、幸村と佐助にことのまとめをまくしたてる。
 しかし幸村は聞いちゃいなかった。
 魂が出かかっているのだから当然だろう。
 佐助は男泣きに泣いた。俺様の大事な旦那が。
 ―――彼はそれが、限りなく濃い愛情に映ることに気づいているだろうか。

 一向に反応のない幸村に業を煮やしたは彼をがくがくと揺さぶった。
 筋肉と書かれた顔ががっくんがっくん揺れる。骨折の心配をした方がいいかもしれない。

 「ユキムラー? Sentite bene(よく聞けよ)−?」

 両頬に男から接吻を受けた幸村の魂はしばらく戻ってきそうもない。
 まっしろに燃え尽きた彼はしばらくのされるがままで、天国だか地獄だかよくわからない世界に旅立っていった。


常識は場所によって違う(笑)
イタリアの皆様すみません
080202 J

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