晴信と次郎の母である大井夫人は、甲斐国の有力国人領主、大井信達の娘である。
 甲斐に限らず、諸国には武田氏のような有力大名が勢力を張っていこそすれ、その実態は有力国人領主の寄せ集めであることが多々あった。信虎は家督を継ぐや、甲斐における武田氏の絶対優位を確立するため、独立の機運を見せる国人領主たちの征服・統一に腐心した。その服属した国人領主たちの中に、大井信達の名がある。
 信達は駿河の今川と組んで信虎に抗したが、合戦を重ねるうち、ついに信虎が信達を下した。
 信虎優位で結ばれた和睦の後、人質として大井夫人は武田家に輿入れた。
 気高く、美しかった彼女は信虎の寵を受け、晴信を始めとする子らをもうけ、名実ともに信虎の第一夫人である。

 その大井夫人の御前で、信虎追放のための謀議が開かれていた。

 雁首を並べるのは、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌等々、武田家重臣たちである。無論のこと、彼らも国人領主である。
 数々の戦を経てきた勇猛で老獪な目がぞろりと晴信たちを射る。晴信は受け流したが、後に続く次郎は一瞬息を詰めた。
 「若君、よくお越しくだされた」
 板垣が頭を下げ、他の面々がそれに続く。
 ――山を一つ、越した。
 晴信は、海千山千の猛将たちの承認を得たのである。次代として盛りたてるに問題はあるまいと。
 着座した晴信に、上段の母から声がかかる。穏やかだが、芯の強い声だ。
 「先頃、館をあけておりましたね」
 「は。挨拶が遅れて、申し訳ございませぬ」
 「よい。何を見ました」
 まさか、次郎に語ったようにほいほいと真実を言えるはずがない。
 はらはらと背中を見つめる次郎の視線と、試すような重臣たちの視線とを受け、晴信は飄々と答えた。
 「天地と、その間境を」
 「……若君、御北様は、」
 「甘利、構わぬ。それでは晴信、其方はその間境をどう見ました」
 ぴん、と弦のように空気が張っている。大井夫人は、甲斐について問いかけているのだ。
 信虎支配下の甲斐をどう見るか。
 晴信は、老いてなお美しい母の顔を見た。言葉にされずとも、彼女が夫を厭うていることは、子ならずとも感じ取れた。輿入れから幾十年添った夫婦であるというのに、彼女の言葉には夫への謀議に躊躇いなどありはせぬ。
 信虎と大井夫人は、子もあれば年も経た夫婦であったが、不思議と形式的な夫婦であった。
 「――雪が深こうございます。雪解水は、田畑を潤すのみに留まってはくれますまい。昨年からの常ならぬ冷え込みもございます故、……今年の春も、騒がしくなりましょう」
 その答えに、やはりか、と重臣たちから嘆息が漏れた。
 多すぎる降雪は水害を呼び、多年に及ぶ冷害は飢饉をもたらす。
 山間に張り付くようにして耕作を行う甲斐は決して豊かな国とはいえず、農民たちは食い扶持を確保できなくなることも多々あった。これに徴税が加われば尚更である。
 国内に山積した鬱憤を晴らし、また食糧を奪取する目的もあって、信虎が多用したのは戦争であった。無論、口減らしも兼ねている。
 迷惑なのは襲われる国境の村々、そして動員される国人領主たちだった。勝てば領地が分配されるとはいえ、徴税もままならない中負担せねばならない戦費は彼らの経済を悪化させ、信虎との力関係に変化が生じる。有体に言えば、武田家が強大化する。
 中央集権化を進める信虎としてはそれこそが狙いなのであろうが、反発を買うのは必至であった。
 「若君は、どのような春を望まれる」
 飯富が膝を進めた。若いが、幾度となく信虎に抗した猛将である。
 少々猪突猛進気味な気配のある彼の直入な問いに、晴信は苦笑いして答えた。
 「春は、寝床からあけぼのを拝むが極上であろう。心が騒ぐのは桜だけで良い」
 「ならば」
 「しかし。無用の騒擾は、更なる嵐を呼ぶやも知れぬことを忘れるな」
 晴信は、言葉から比喩を乱暴に取り払った。
 重臣たちは信虎への謀反として、晴信を担ぎ出そうとしているのだ。信虎の集権化政策についていけなくなったか。彼らが合力して廃嫡の危地にある晴信を当主の座につければ、晴信には信虎のように彼らを押さえつけ、統制することは出来まいと踏んだのだろう。
 さりとて無能な君主を戴けば亡国の憂き目に遭う。彼らが晴信を厳しく測ったのは、つまり彼らを生かす君主か、殺す君主かを見極めようとしたのだろう。
 彼らを殺す君主であれば。――ことは話が早い。晴信は元より父に疎まれている。適当な罪状をでっちあげれば、晴信の口は信虎によって封じられる。
 しかし晴信とて、殺される気もなければ傀儡に甘んじる気も毛頭ない。信虎の苛烈さに思うところがありはしても、弱肉強食の乱世で国を纏めるには、いずれにせよ集権化を行う必要があるのだ。そのためには、重臣たちに甘い顔ばかりするわけにはいかなかった。
 また実の父親を討つのかという葛藤も、彼の言葉を強くさせた。
 「今、甲斐は喘いでいる。しかしそれは隣国も同じよ。駿河の今川、相模の北条、これらは甲斐につけ込む隙があれば、即座に兵を動かそうな」
 特に北条だ。
 先年、武田は今川家の跡目争いである花倉の乱に介入し、義元を支援してその兄を討たせた。
 それによって今川と武田の縁は深くなったが、これに武田と抗争していた北条が激怒。一時は戦争状態にまで陥った。
 現在は和睦が結ばれているが、それもいつまで保つか。冷害は相模でも酷いと聞くから、飢饉を乗り切るため、また名跡を継いだばかりの氏政の下に国を団結させるため、甲斐が混乱したらばこれ幸いと攻め入ってくるに違いない。
 血気に逸るのは得策ではないのだ。
 座に、重い沈黙が横たわる。それを破ったのは、大井夫人の一声だった。
 「後門の虎、前門の狼か。……よろしい、今日はこれまでにいたしましょう。私も疲れました」
 「御北様…」
 「板垣、甘利、飯富、其方たちは時をおいて帰りなさい。共に帰っては、お館様に疑われる。其方らが内藤や馬場のように殺されては敵わぬ。それから原虎胤に気取られぬように。あれはお館様に心酔しておるゆえ」
 「仕方がございますまい。原は、お館様に登用されたのです」
 「甘利殿、情け深いのは其方の美点だが、ことこのことに関しては情けは命取りですぞ」
 「誰に言うておる。板垣殿にも、その言葉そのままお返しいたす」
 老臣たちは、流石の肝の太さである。息も詰まる鍔迫り合いのような謀議の後だというのに、彼らはもう歯を見せている。
 緊張の糸が切れたのか次郎が大きな溜息を吐くのを聞きながら、晴信は未だ、足を崩そうとはしなかった。経験の少ない次郎にはまだ気付くことができないのだろう。重臣たちの目にはまだ抜き身の刀のように鋭い光が宿り、さりげなく彼を観察している。そしてその光は晴信も持っているもので、あろうことか、大井夫人にも宿っていた。
 「晴信」
 「はい」
 賢婦は母として息子に言った。
 しかし彼女はまた、策士でもあった。
 「其方は、お館様に帰館の挨拶をしにいきなさい。まだしておらぬのでしょう」
 「………かしこまりました」
 「っ、母上!」
 「よい、次郎。本当はすぐにでも行かねばならなかったのだ」
 弟をおしとどめ、晴信は席を立った。心配げな次郎がついてくる。
 母と重臣たちの視線を背に感じながら、晴信は海を思い出そうとした。
 しかし瞼に描いたのは広大な水平線などではなく、清廉なてるの微笑みであった。





年齢とか所在地とかには目を瞑ってくださると嬉しいです…
※一番酷い捏造→この時代は北条氏綱(氏政のじーちゃん)大活躍中ワーイ/(^q^)\