書き物をしていた晴信は、ふと己の名を呟く声を聞いたような気がして障子を開けた。 赤銅色に染まった夕暮れの庭に、越後へ遣った忍が頭を垂れている。 「帰ったか。てるは、どうしておった」 「は。お元気なご様子で、若の贈物をことのほか喜んでおられました。返書がございます」 忍はふところから淡色の布で包まれた箱を出す。春を感じさせる色合いだが、柄はない。晴信はふと、娘らしい装いもせぬてるの謹厳な格好を思い出した。 てるは仏門に入ったものであり、また装うといったことに興味を持っているようでもないが、着飾ればさぞ。 詳しくもない女物の着物を頭の中でてるに宛がいながら、晴信は寄木細工の箱を開けた。中に文と、染めの施されていない下緒があった。 下緒を手に取る。絹を織ったものらしく滑らかな手触りだった。 文を開くと、流麗な文字が並ぶ。無事の帰宅を喜び、海のかけらたちの礼を述べ、こんなもので申し訳ないがと返礼の下緒について触れられていた。 ―――玉繭を紡いだものですので、絹よりは丈夫ですが、ところどころに節がございます。 「ほう、これは、てるが手ずから紡いだのか」 「そう仰っておられました。あの寺の周辺は桑が多いので、施行の一つとしてと」 忍はそこで言葉を切った。歯にものが挟まったような顔をしている。 「恐れながら、申し上げます。かの女人は、ただの出家ではございませぬ。山には越後侍の目が光り、寺で刀の下緒をお作りになられるとは……」 仏道には、殺生戒という戒律がある。 絹を作るには蚕を似て、繭から糸を解さねばならないが、それはいうまでもなく殺生を伴う。その上人を殺める道具のための下緒を織るなど、断じてただの尼僧がすることではない。 てるの警戒ようといい、何かきなくさいものがあると忍は思う。 しかし、晴信はそのようなこと元より承知だ。何しろ、てるを探して越後侍と斬り合いまで演じたのだ。殺人を目前にして動じないてるも、その目で見ている。 晴信は落ちついた声音で問うた。 「侍は、何処の手勢であった」 「越後は守護代、長尾家の手のものかと」 「長尾晴景か…」 なるほど、てるは長尾家の縁者であったか。 それならば、あの厚い警護も納得がいく。長尾晴景は病弱な君主で、近頃は越後守護上杉家と奥州の伊達家との間に持ち上がった養子騒動を収めるだけの能力はなく、国が荒れている。 彼に縁づくものとしてのてるを、長尾家の侍が警護するのは自然な流れで想像できた。 (晴景では、身の代は長く維持できまい。……てるに、何事もなければ良いが…) 戦世である。家が没落してしまえば、出家といえど白刃の波から無縁というわけにはいかぬ。 晴信は、桑の影から覗いたてるのほっそりとした美しさを思う。百合のように汚れないてるを襲うかもしれぬ濁流を思うと、胸の内が激しくざわめいた。下緒を握る手に力がこもる。 しかし晴信にできることがあるかといえば、否であった。 甲斐と越後は遠い。その間には村上氏、諏訪氏を始め多くの有力国人がおり、彼らの頭上を越えて越後の動乱に介入するだけの力は甲斐にはなく、また実利もない。それ以前に、甲斐の行く末の決定権を持つのは、晴信ではなく父信虎だ。信濃に野心を見せる彼が、越後の娘をただ保護するためだけに力を割くことは到底あるまい。 そう、保護である。 晴信のてるへの感情は色を伴ったものではなく、いうなれば敬慕とか、尊い仏像に抱くものに近い。 愛だの恋だのといった生々しいものではない。どういうわけか、てるには、その身辺を清浄で穏やかなものとしていて欲しいと、そう思わせるものがあった。 と、その時である。 忍がかすかに身じろぎした。何事かと眉をあげた晴信の耳が、好ましい足音を拾う。次郎か。 去るか否かを問いかける忍の視線に、晴信は軽く首を振る。やましい用件ではないのだ、次郎相手に無用な疑惑を煽ることもあるまい。 「兄上、兄上。母上がお呼びです」 「母上が? わかった、すぐにゆこう」 次郎にそう応え、晴信は後々返事を書く旨を告げて忍を返した。文を畳んで箱に納め、書院造の棚に収める。 さてこれはどうしようかと下緒に視線を落とすと、「兄上も隅におけませんなあ」とにやけた声がかけられた。案の定、次郎がにやにやと下緒を見つめている。晴信もにやりと笑って見せた。が、さりげない動作で次郎の目から下緒を隠す。そのような目の対象として見られることに、微かな忌避を覚えたのだ。 「羨ましいか」 「悔しいですな。大好きな兄上を取られてしまった」 「はは。しかし、これを織った人は、そのようなものではないのだ」 晴信は己の大刀を取りあげると、手早く下緒を解き、てるの下緒を結んだ。黒塗りの鞘に純白の下緒は少し浮くようであったが、作った人の面影か何やら荘厳なものを感じて、晴信は思わず常よりも丁寧な所作で刀を収めた。この刀を無用の殺生のために振るうことは許さぬ、と、そんな戒めが生まれたようだった。 神棚に対したような晴信の振る舞いに次郎は驚いていた。刀を見つめ、晴信は低く呟く。 「人の心根は、触れたものにも移るものらしい。次郎、覚えておけ。こんな世の中でも、人の背を正すほど尊いものもあるのだと」 |
いつ なな |