そろそろ初老に差しかかろうかという巡礼者が己を探していると院主から言付かり、てるは警戒心を胸にその男と対面した。
 巡礼者は皺の目立ち始めた顔を床に擦りつけんばかりに平伏し、小柄な身を更に縮こまらせている。
 「そのようにかしこまらずともよろしい。らくになさい」
 「け、けんども…! 院主様ァ自らが取り次いでくださった上、ぶ、ぶ、武家のおひぃさまと」
 「たしかにわたくしはぶけのでですが、ひめなどとたいそうなものではありません。わたくしはほとけにつかえるみ。さあ、かおをあげなさい」
 「へ、へぇ…」
 ひたすら畏まっていた男は、恐る恐るといった態で顔を上げた。垢じみた容貌は、何がしかの祈願をもった、富農の隠居といったところか。この戦世に巡礼まで為すとは、よほどの願いなのだろう。そうでなくば。
 「わたくしにようがあるとか」
 てるの目の奥で、氷色の光が瞬く。てるの存在を知る者は限られており、その中で接触を試みる者となればすぐに幾人かの名が挙がる。そしてその用向きも、簡単に見当がつくのだ。
 「へっ、へぇ、へぇ! おひぃさま。や、やつがれは、これを渡すよう言いつかった次第でありましてっ!」
 男はおどおどと、麻布に包まれた何かを懐から取り出した。丁重に捧げられたそれを受け取る。軽い。布を通して堅い感触がするので恐らく木箱に入っている。文だろうか。しかしそれにしては随分小さい。
 粗末な麻布を捲ると、滑らかな光沢が現れた。漆器。赤い表面はつるりと美しく、訝しげなてるの顔を緩やかな凸面に映した。こんな高価な品物を汚れた麻布に隠すとは、一体何の意図がある。不信を覚えるのも無理は無かった。てるは慎重に蓋を開ける。中には、漆の箱に入れるには不似合いな、生成り色の木綿の袋。
 口紐を摘むと、袋の中身がしゃらりと音を立てた。貴金属の音ではない。石の音にしては軽い。どこか擦れるような音の見当はつかなかった。口紐を解いてみる。袋の中にあったのは。
 「これは…?」
 平貝、巻貝、石灰質の美しい白、あるいは黒や青灰の美しい色目を見せて、小さな貝殻の数々が漆の箱に小さな磯を作り上げる。どれも指で摘まめるほど小さく愛らしい。贈り主の見当もつかぬまま、てるは瞳をそっと和ませた。
 「旦那様から、お言付けでごぜぃます」
 平伏した男は窺うようにてるを見上げ、箱の底にあった文を見るよう促した。
 少し粗い紙質の和紙を広げると、たっぷりと墨を含んだ男文字が丁寧な礼を綴っている。
 てる殿へと書き出された文には、先日助けてくれたことへの礼と、惨いものを見せた詫びが綴られていた。読み進めると、当初の目的であった海をその目に収めたらしく、興奮気味の賛辞が述べられ、貴女にもと貝殻のことに触れられていた。どうやら、土産のつもりらしい。
 てるはもう一度貝殻を眺めると、その唇を綻ばせた。
 (わたくしときたら、すこし、かびんになっていたようですね)
 届けられた貝殻は、てるに嗅いだことのない潮風を一陣届けた。胸を吹きぬけたその一吹きは、てるの胸を塞いでいたことどもをするりと退かす。
 目を上げたてるは穏やかな声音で男に礼を述べた。畏まる男に尋ねる。
 「たろうどのは、ぶじかえれたようですね」
 「へ、へぇっ!」
 「そくさいですか」
 「へぇっ、素晴らしい旅であったと、大満足のご様子で!」
 「なによりです」
 てるの脳裏に、朗らかに笑った太郎が顔を出す。てるは甲斐の土地を知らぬが、そろそろ春が訪れている頃合だろう。緩み始めた山野の空気を肺一杯に吸う太郎を想像した。太郎は屈強な男であり、漆箱や小者を使うことを考えると、位の高い武士であろう。甲斐と言えばまず第一に上がるのは武田家ではあるが、その他にもいくつかの雄族名族が割拠、あるいは同盟やら服属やらのかたちで集っている。いずこの家中であろうかとふと思った。武田ではあるまい。山を幾つ隔てていようと、近しい強国の噂は聞こえてくる。現当主信虎の蛮行というに相応しい粛清の嵐を鑑みるに、太郎のような男が、武田に忠義を誓うとは思えない。例え代々武田に仕える一族であろうとも、彼は己の正義の衝動に正直な人間と見えたから、主を見限り出奔を果たすであろう。単身、敵国に観光に来るような男である。その胆力の凄まじさ、無事帰還する智謀は推して測るべし。
 ふと、爽快な羨望を覚える。
 「そなた、すこしじかんをいただいてもよろしいですか」
 「はっ…?」
 「たいしたじかんではありません。へんじをかくだけです」
 男ががくがくと頷いたので、てるは侍女に茶の用意を申し伝えると、贈られた箱に文と貝殻を丁寧に収めて自室へと引き上げた。
 何を書こうか、と思考がはしゃぐ。
 寺に入って早幾年月、春秋は静寂と共に過ぎて行った。最近は心を沈ませることも多い日々だっただけに、てるは初めてと言っても過言ではない出来事に胸を弾ませていた。