帰還した躑躅ヶ崎は、幾日も留守にしたわけではないというのに、急に思い立った出立前とは全く別の館であるかのように太郎の目には映った。
 堅固な守り、屈強な家臣たち、虎と恐れられる彼の父…しかし、嗚呼、いかにも小さい。
 瞼の裏に海を忍ばせた太郎――晴信にとって、必死でこの地にしがみつくようなその姿は滑稽で、ふと苦々しいものが口腔を満たす。こんなちっぽけなもののために血を流している。親子が相争い、拭いがたい不信を抱いている。
 (日ノ本は、もっとずっと広いというのに)
 その思いがある。大局を成すには地に足をつけずばと思うものの、信虎との確執に明け暮れる自分がいかにも小事に囚われているようで、焦燥に似た口惜しさを味わう。
 この度の出奔は、信虎との確執に嫌気がさしたためと、見たことのない海を訪れることによって己の父に対するわだかまりが解ければという、縋るにも似た思いによってであった。
 それが海の残影は、晴信の期待を裏切り水平線のようにかすかに丸い苦悩をもたらしている。
 ふと、晴信は懐に手を遣った。かさり、と、指が無造作にたたまれた紙に触れる。
 掌に引き出してみれば、潮の香りが鼻を掠めたように思った。
 「渡しそびれたか」
 てるのために拾った形の良い貝殻たち。武骨な晴信の指でつまめば、一層小さなものと映る。
 不思議な娘だった。越後は敵国である、深入りすべきでないとわかりつつも、二度も晴信を助けた彼女に興味が募る。
 晴信を死なせたくなかったと彼女は言った。色恋沙汰の艶めいた響きを伴わない言葉は、晴信の中で淡く反響した。
 晴信は机に向かい、筆をとる。短い文であったのですぐに書き終わり、晴信は忍の者を呼んで包を二つ渡した。一つは文、一つは貝殻である。
 「越後のてるという女人に渡してくれ。山中の寺にいる」
 「御意のままに」
 忍が消えてから、晴信は太く息を吐いた。
 山国の冬はしめやかに融ける。甲斐でさえフキノトウを見たのだから、越後は最早粛然として春であろう。同じ雪国であっても、越後と甲斐では春の足並みが違うようだ。あるいは、海風の為す作用かもしれない。越後の風は寺社のそれのように水気を含んで冷たかったが、甲斐の風は底冷えする寒風だ。
 晴信が遠く越後に思いを馳せていると、廊下を渡る明るい足音が響いてきた。すぐに、「兄上、兄上」と呼びかけが届く。
 「遠慮せず入れ、次郎」
 「では遠慮なく」
 ぬけぬけと障子の桟を越え、次郎は朗らかに笑った。笑うと笑窪のできるこの青年は、晴信よりも幾分穏やかな容貌をしている。父に似た晴信と違い、次郎は彼らの母たる大井夫人に似たようである。
 「それで、何の用向きか」
 「土産話を聞きに参りました」
 次郎は悪戯っぽく言う。
 家中には、此度の越後行は「雪で迷った」と誤魔化しておいたのだが、次郎にはあっさりと見抜かれている。晴信もそれを不快に思うでもなく、「よし、わかった」とこれまたあっさり口を割った。彼らの兄弟仲は良い。父・信虎が晴信の廃嫡を画策し、次郎を嗣子に据えようと目論む中、その気安さは大きな誤算であり、晴信にとっては九死に一生を得るほどの僥倖であった。
 「越後にて、海を見たのだ」
 「やはり! して、どのような様子でありました」
 「巨きい。これに尽きる」
 晴信は遠く、潮騒に耳を澄ませた。
 「頬をなぶる風も、耳に寄せる音も、鼻を通る空気も、全てが甲斐とは別物だった。いや、あれは、陸のそれとは根本から違うのだ。陸において人は産まれ、栄え、根付く。そこに縁が生まれ、因業が生じる。それ故の悲喜が陸を陸たらしめ、愛しいものとも枷とも変えているのだ。海は豊かではあるが、人が根付くことはない。海はただ広く、空との境は、いくら目を凝らせど縁も因業も見出せない。それが故に巨きく、また恐ろしく、惹きつけられてやまないのだ。海には枷が無い。その巨きさは人の悲喜を呑みこむが、因業に縛られた俺のような人間には、いくら焦がれてもたりぬ存在だ」
 海は人を呼ぶ。来いよう、来いようと、彼らを生まれた村の外へと旅立たせる。解放を暗示する潮騒は、彼らに光を与えつつも産土神の手を撥ね退けさせるのだ。
 海が与えるのは安らぎだけではない。激しさを与え、現状への焦燥を与える。その巨躯は、あまりにも目映すぎるのだ。
 焦がれるような晴信の話を、次郎はじっと聞いている。黒々と丸い瞳は、兄の言葉を通してその眼間に海の影を捕えようとしていた。次郎も海を見たことが無い。しかし熱っぽく語られる晴信の言葉は、次郎の目前に山の稜線とは異なる境界を垣間見させた。晴信は、海に魅了されている。晴信は海を畏怖すれど、焦がれるのを抑えることなどできまい。兄にとって、陸は因業の場であったか。当然である。甲斐は晴信にとって因業の象徴であり、枷そのものである。
 甲斐国主である父信虎は、今川との代理戦争で得た大井夫人に嫡子晴信と次郎を含む、何人もの子を産ませた。しかし信虎と晴信の仲は険悪で、信虎は晴信を廃し次郎にこそ家督を継がせようとしている。晴信は実の父との抗争を宿命付けられた。信虎を斃したとて、晴信は甲斐を背負ってゆかねばならない。信虎がねじ伏せ、あるいは粛清し続けてきた有力国人たちによる連合体こそが甲斐である。隙あらば反旗を翻す彼らと、蚕食を狙う隣国との争いの中で、晴信の春秋は暮れていくことだろう。
 その晴信が、熱をこめて海を語る。次郎はにわかに不安を覚えた。兄は、もしかしたら、この甲斐という国を。晴信が己の運命を倦んだとてなんの不思議もないため、次郎の詰問は切羽詰まった。
 「兄上は、海に呼ばれましたか」
 「いいや」
 応えは即答だった。存外、穏やかな声である。
 晴信は膝を立て、障子を大きく開け放った。微かに、梅の香りがする。庭の向こうに綻び始めた山の借景を従えて、晴信は高らかに謳った。
 「俺の産土は甲斐だ」







   いつ