来た道を辿ると、潮の香りが段々と薄まり山草の匂いに主役を譲っていくのがわかる。
 同じ越後でも、てるに出会った山は海から遥か遠く、越えた山影に遮られて遠目に海を望むことすら叶わない。桑の木立を通り、太郎は見覚えのある場所に出た。てるを見つけたところである。
 「てる、てる。おらんか、てる」
 歩みを止めて呼ばわると、己の声が木霊となって返ってくる。太郎の声は中々に太いので、桑の間を縫って広く斜面を駆ける。
 幾度かの呼びかけのあとで、がさり、と、若草を踏む音がした。
 「てる―――」
 笑顔を含んで、草臥れた草鞋の足を動かした太郎の鼻先を、鋭い音と共に鋼鉄が掠めた。ぎらりと凶悪にまたたいた刀身に、口角を上げたままの己の虚像が一瞬映りこむ。鍛えられた速度で刃先を返し、袈裟がけに斬り上げようとした凶刃を、太郎はこちらも驚くべき速度で引き抜いた己が刀でかろうじて弾いた。
 ぎぃぃん、静かな山に不釣り合いな金属音が響く。
 炸裂した殺気に怯えたか、百舌鳥が飛び立つ羽音がした。驚いた馬が高くいななく。
 「何者―――」
 距離をとり、鞘を払って刀を構える。太郎の刀は、彼の恵まれた体格にふさわしい剛剣である。彼の優れた膂力に並の刀では耐えきれないため、まるで鎌倉時代のような太刀を愛用している。しかしそれすら彼はよく折ってしまうので、あるいは戦斧のような重量武器の方が適しているのではないかと考え、国元の鍛冶に作らせている最中だ。
 慮外者は鋭い視線で太郎を見据え、慎重に切っ先を下げる。甲斐では見ぬ構えである。越後独特の構えか。太郎の思考がそこに及んだと同じことを相手も考えていたらしい。
 「甲斐の侍か。越後に分け入って、生きて帰れると思うたか」
 太郎は己の浅慮を悔いた。敵地越後の山中で大声をあげてしまうとは。てるとの出会いに、あるいは海との邂逅に浮かれていたのかもしれない。太郎は、本来ならばやすやすと甲斐を離れられる身分ではない。それを顧みず、果たした願いに昂揚していたのか。
 舌打ちを押し隠して、太郎は越後侍を挑発した。死ぬわけにはいかぬ。新手を呼ばれては面倒なので、この男を生かして返すわけにもいかぬ。
 「越後の侍は手ごわいと聞いておったが、其方ならばどうということもなさそうだ」
 「何をっ」
 「不意討などで、俺を斬れるものか!」
 挑発に激した侍が地を蹴り、冴えた突きを繰り出した。しかし、太郎からすればその動きは僅かに鈍い。切っ先が身に触れる寸前、太郎は半歩身をかわし、無防備な男の胴に己が刀を叩きつけた!
 ごきゅ、と刀が骨に埋まる音。侍は短く悲鳴を上げ、濃い血臭を撒いて倒れ伏した。生温かな返り血が顎から、指から、地面に滴る。侍の体を半分まで断った刀を引き抜き、血振るいをして鞘に納める。着物に斑を描いた血は振るえない。
 「南無」
 事切れた侍に手を合わせ、太郎は眉を少し下げた。こうしてはおれない。いつ新手が出てくるとも知れないのだ、一刻も早く山を抜け、甲斐へと戻らなければならない。この侍を野ざらしにして。このままでは彼は人知れず獣に喰われよう。侍たるものは、いつそのような骸と化すかわからぬ。太郎も同じ宿命に生きている。しかし人として、刃を合わせたものとして、それはひどく哀れであった。
 太郎は瞑目の後思い切り、目尻を鋭くして足を早めた。右手は、刀に乗せたままである。連れていた馬は、斬り合いに怯えて逃げ去っていた。
 いつでも抜刀できる状態で進むうち、にわかに周囲の空気に殺伐としたものが入り混じるようになった。気付かれたか。百舌鳥がけたたましく飛び立つ。越後の侍たちが太郎を探しているのだろう。
 (来るなら、来い)
 熱い昂揚が身の裡に湧く。冷静な思考をかき消すことはなくとも、太郎の裡には豪傑と呼ぶに相応しい闘志の塊がある。一対多数という不利な状況においても、太郎は臆す心を感じなかった。
 「たろうどの」
 その時である。太郎の勇壮な心持とは一線を画す涼やかな声が、するりと太郎の耳殻に飛び込む。ほとんど空気を揺らしていないような、細く滑らかな声であった。
 思わず振り向いた太郎の目に、木立の間に引かれた一本線のような白装束が映る。てるであった。
 厳しい表情のてるは、細い手を差し出して言った。
 「こちらへ」
 ついてこい、ということだろうか。
 しかし何故てるが太郎を助ける。てるの誠実な人柄は強く伝わってくるものの、彼らは一度言葉を交わしただけの間柄である。返り血を浴び、侍に追われる男を、何の義理があって助ける。
 てるは、太郎の血を浴びた姿に、眉の一つも動かさない。娘ならば、仏門にあるものでさえ悲鳴をあげるだろうに。
 疑惑は尽きなかったが、太郎は唾を一つ呑みこむと差し出された手をとった。ままよ。てるが素早く身を翻す。あまりにも大きさの違う柔らかな掌は、太郎の体温より低くさらりと乾いている。
 「おはやく」
 山を熟知しているのだろう、迷いのない足取りでてるは進んだ。殺気が段々と遠くなる。肩が揺れるたびに乱れるてるの黒髪に、こんな時だというのに太郎は見惚れた。
 やがて頭上の木々が完全に静けさを取り戻すに及び、太郎は囲みを抜けたことを知る。真実、てるは太郎を助けたらしい。
 「お主のおかげで助かった」
 「まだ、えちごをぬけてはいませんよ」
 「そこまで見抜いておったか」
 太郎はあっさり異郷人であることを認める。てるには、嘘など通用しないだろうと悟っていた。
 てるは軽く微笑むと、水の匂いが濃い方を指し示す。
 「このさきに、ちいさなさわがあります。みをきよめていきなさい」
 「何から何まで、かたじけない」
 てるの心遣いに、太郎は武家として礼を述べた。てるは違和感なくそれを受けとめる。やはり、武家の娘か。太郎はてるの出自に確信を持つ。あるいはあの侍たちに関りを持つ者かもしれない。それならば尚更、助けてくれた理由がわからぬ。助けてくれた事実は、厳然とあるにも関らず。
 「あの侍たちは、なんであったのだろう」
 「てらに、ようじがあったようです」
 その寺とは、てるが身を置く寺に違いあるまい。
 太郎は顔を上げると、まっすぐにてるを見た。てるの、黒曜石のような瞳が瞬く。
 「何故、俺を助けた」
 「―――あなたさまを、しなせたくはなかったのです」
 己の名を呼んだせいで追い詰められた太郎を見るに忍びなかったと、てるは少しばかり歯切れ悪く話す。本人でも要領を得ぬのか、あるいは話せぬわけがあるのか―――太郎は一瞬そう考えたが、(やめた)と、追求を諦めた。助けてくれた恩人にすることではない。
 太郎は教えられた沢に足を向け、断られることを見越して尋ねた。
 「そなた、俺の嫁に来ぬか」
 「わたくしは、ほとけにつかえるみです」
 「で、あろうな」
 忘れてくれ、と太郎は朗らかに笑うと、軽く会釈をして背を向けた。
 てるには、男女の仲などといった世俗的なものよりも、静寂の美こそ相応しい。
 甲斐国守護武田信虎が嫡子武田太郎晴信の妻女など、てるの美しさを汚すものでしかないだろう。