冬を抜けたばかりの越後の海は、海雪をその深部に抱えたかのように黒々と冷たさを予感させる。しかし波頭には排他的な黒さは無く、むしろ、訪れた春を寿ぐように淡い白さが目に愛おしい。
 一仕事終えたのか、網を干す漁夫たちを眺めながら、太郎は松の葉の散る浜に腰を下ろした。潮の匂いが頬を打つ。草鞋の間に紛れ込む砂の細かさは、太郎が経験したことのない感触だった。
 (これが、海)
 どおお、と、潮騒が巨きい。彼方の水平線は空と海とを青く分かち、その彩りの差が訳も分からず胸に迫る。
 四方を山で囲まれた甲斐では、知ることのない広がりだった。
 「なんと広い」
 呟いた口に塩辛い水滴が触れた。頬に流れた幾筋かの涙を、海風がひょうひょうと冷やしていく。太郎はそれを拭いもせず、青と青の光景を目に焼き付ける。突き抜けるような空の青、深く沈むような海の青。同じ日ノ本にあって、太郎の故郷とは全く違う。しかしそれは、山国甲斐に幻滅するという意味では決してない。太郎は四季折々の装いを変える山と、絹糸のような河川の輝きと、山々から吹く風に揺れる田畑の美しさを愛している。日ノ本という国の広さ、豊かさの幅広さを実感して、その胸を熱くしたのだった。
 この時の感動は、後の彼に大きな影響を与えることとなる。



 涙が筋を残して消えてしまうまで、太郎はそこから動かないでいた。やがて日が傾き、空と海が茜色に染まる。
 水平線に日が沈む光景は、山寺の鐘の向こうに日が隠れるのとはまた違い、太郎は海が煮立ってしまうのではないかと子供のような心配をした。
 夕暮れを見届けて、太郎は里に宿を求めた。



 翌日。早暁に目覚めた太郎は生まれたばかりの青空を背負い、海へと向かった。砂浜を踏み、波打ち際で草鞋を脱いだ。海水が指先を洗う。その貫くような冷たさは水垢離を連想させ、一瞬のうちにてるの面影を呼び起こした。
 (そういえば、てるは海を見たことがないのだったか)
 てるは物心ついたころから寺で育ったと語った。微かな思い出に、あるいは遠景に海を見たことがあるかもしれないが、現在の彼女は潮の匂いから遥か遠ざかっている。
 帰り道にでも何か土産を渡せぬものかと、太郎は辺りを見回した。
 ふと、波に洗われてきらきらと白く光るものを見つける。
 ざぶざぶとそちらに向かい、拾い上げたそれは、綺麗な平貝の貝殻だった。内側の真白い面は、朝日を集めて幼児の歯のように美しく光る。雪とは、また異なる白さである。
 見渡せば、貝殻はそこかしこにあった。平貝、巻貝。ちょろちょろと動き回る小さな巻貝は何であろう、貝はあんなにも細やかに動くのだろうか。そんなことを考えながら、太郎は形の整った貝を選び、海水ですすいで麻袋に詰めた。小さな麻袋を揺らすと、しゃらしゃらと貝の擦れる音がする。
 濡れた手を袴で拭って、太郎は海岸をあとにした。