わけいる山は冬の荒涼とした気配を裸木の木肌に残しながらも、そろそろと訪れた芽吹きの風にざわめきを押し隠せないでいた。 厳寒を耐え凌いだ枝々に新しい緑の萌芽が宿り、気の早い桃の愛らしい芳香が雪解け水の唄に乗って流れてくる。桜の季節にはまだ早くとも、山姫は既に氷重の襲色目に飽いたと見えて、葛籠を開けては来たるべき綺羅の季節の衣を羽織り、化粧箱から花かんざしを取り出し並べているらしい。 見上げた空は膨らみ色づいた蕾に縁どられ、透徹と深い藍の眼差しを和らげているようだった。吐きだした吐息は最早白く凝ることもなく、風に吹かれて消えてゆく。冬の名残をまとっていても、風の踊り子は既にその舞を甘いものへと変えている。 北国の遅い春がついに来たか、と、太郎は囀る小鳥たちとは裏腹にどこか物憂げな溜息を吐いた。 道祖神の傍らで、蓬が気持ちよさそうに木漏れ日を浴びている。去年の褪せた緑に囲まれて一際鮮やかな新芽の色は春の喜びに沸く山の煌めきのようだった。太郎は地を踏みしめていた足を止め、手綱を引いて脚を痛めた馬を制した。申し訳程度の荷の中に米がある、蓬飯にして食うのも悪くない。 芽吹いたばかりのものを選んで麻袋に放り込む。指に、爽やかな生命の匂いが香った。太郎はその香りを肺一杯に吸い込むと、太く息を吐きだした。体内を洗われたような心地がする。 ふと、朗らかな笑い声が鼓膜をくすぐった。 「しつれい」 鋭く振りかえった先に、太郎は細い女の影を見た。 灰色がかった桑に寄り添うように立つ女の姿かたちは端整だった。滑らかな頬はすっきりと整いながらもまろやかな曲線を描き、長い睫毛が飾る瞳には涼やかさがあった。繊細な造りの鼻筋や三日月の形に弧を描く唇は、太郎の知るどんな女よりも美しい。だのに、その紛れもない女の美を誉め称えるには抵抗があった。眩しいほどに白い着物に散る緑の黒髪は絹糸にも似ていたというのに、あるいは彼女の持つ潔癖な雰囲気が、それを女の美というなまめいた枠に収めることを許さなかったのかもしれない。どこか菩薩の美のような、不可侵めいた何かを彼女は持っていた。 「はるを、さがしにまいられましたか」 微笑を含んだ問いかけに、太郎は苦笑を含んで頷いた。この女は桑の木の化身か、などと突飛な考えが頭をよぎる。 人にしては清すぎる佳人はするりと桑の木から離れ、小さな歩幅で距離を詰めた。長い黒髪が揺れ、一筋一筋が光を受けてきらきらと透き通る。 「北国の春は、もっと遅いかと思ったが」 「ここはみなみむきなので、はるがはやいのです」 あちらをごらんなさいと指し示された方を見やれば、ところどころに雪を冠した木立はまだ冬の様相を色濃く残している。 「あとすうじつで、あれらのゆきもきえましょう」 「忙しくなるな」 「よろこばしいことです」 思わず呟いた太郎に、穏やかな声が重なる。太郎はその内容に一瞬面食らい、すぐに己の発言が良い意味に誤解されたことを悟った。普通ならば、春が来れば出兵とは考えまい。 春の忙しさは、田を耕し、水を張る、生産の喜びと一体である。断じて血刀や硝煙のような、ものものしく武張った喧騒ではない。 それなのに太郎が連想するのは、悲しいかな、後者の忙しさなのだった。 (親父殿は、今年こそ村上を攻め取ろうとするだろう) 血生臭い閉塞を覚えて、太郎の口が重くなる。この精霊めいた女に、戦の瘴気を吐きかけたくはなかった。 太郎は気分を一新させて問いかける。 「其方、海へ至る道を知らぬか」 「うみ?」 「ああ、海を見たいのだ」 ただそれだけのために、太郎は甲斐を抜けだし、敵国へと駒を進めてきたのだ。 山国の甲斐には海が無い。甲斐は躑躅ヶ崎に生まれ育った太郎は、物語の中でしか海を知らない。女はしばし声を出さず、じっと太郎を見つめた。冴えた瞳が、森に隠された淵のように黒々と蒼い。まるで見透かされるような眼差しに太郎は居心地の悪さを覚えた。 「このみちをそのままおゆきなさい。そうすれば、さとにでますから、そこでひとにたずねるとよろしいでしょう」 「やはり、まだ遠いか」 「おそらく」 「む? そなた、土地の者であろう」 「はい。ですがわたくしは、ほとけにつかえるみ。ものごころついたころから、このやまよりでておりません」 「そうであったか」 それならば、彼女の超然とした雰囲気も納得がいく。太郎は、ふと、山姫の美貌の中に小さな寂しさを見つけた気がした。 「俺の名は太郎と申す。其方の名は?」 長い黒髪を見るところ、まだ入道はしていないようである。 「……てる、ともうします」 「てる、か」 女は少しの躊躇の後に、ぽつりと名乗った。まるでそう呼ばれることに慣れていないかのように、僅かなぎこちなさがある。あるいは彼女は、入道を控え、既に俗名で呼ばれてはいないのかもしれない。仏門に入るは尊いことだが、あたら美しい盛りにもったいないことだと思いつつ繰り返すと、女はその頬に小さな興奮を走らせた。やはり彼女は、周囲からその名で呼ばれてはいないのだろう。小さな秘密を手に入れた子供のような興奮が、静謐な彼女の容貌に不思議な愛らしさを与えている。 「てる。道を教えてくれて助かった。礼を言う」 「あまりおちからにはなれませんでしたが」 「いや。思いがけず、心和んだ」 「はあ…?」 小首を傾げるてるに和んだ笑みを零して、太郎は草を食んでいた馬の手綱を引いた。「では」と、背を向けて歩き出す。 吸い込む若草の匂いの中に、一筋、雪解け水のような清い匂いが香る。てるの匂いか、それはいかにも似合いの香と思われた。 |
ことのはじめ ふ |