真田幸村は死んだのだ。


 しかし彼らはそこに幸村がいるという。
 小十郎には、彼らの見る世界が見えない。

 三人で談笑する二人を見るたびに、誰もいない空白に目を凝らしても、そこに人影などありはしない。

 同じものを見たいわけではない。
 小十郎が願うのは、彼らの見ている世界が見えなくなることだ。
 しかしそれは、夕日の残照を捕まえるより困難かと思われた。


 夏が老い、秋がその赤い衣を広げるほどに、彼らは幻想へと耽溺していった。

 露を載せた草の向こうで何があったのか、小十郎は知らぬ。
 けれども草葉の闇から伸びた手が、彼らを絡め取ったのは事実であろう。
 薄く笑みを携えて夜から還った二人のうそ寒さを小十郎は忘れない。
 近頃では、末端の兵たちも二人を怪しむようになっている。彼らのまとう雰囲気に、何か異様なものを感じ取っているのだ。

 政宗は相変わらず政務を執る。幸村の幻影はその間は現れないらしい。
 しかしひとたびそれが終わろうものなら、部屋であろうが廊下であろうが、政宗は宙空に微笑みかけて虚空と言葉を取り交わす。
 彼の焦点は、揺らぐこともなく一所に据えられていた。
 佐助に至ってはもっと酷い。彼は四六時中、境の向こうを見つめていた。



 小十郎は、庭で六爪を振るう政宗を見ながら拳を握る。
 爪が皮膚に食い込むが、痛みよりも無力感の方が彼を苛んだ。視線の先で、政宗は楽しそうに刀を扱う。

 「Ha,そんなんじゃオレは倒せねぇぞ!?」
 「腕が落ちたか?」

 「どうした、真田幸村ァ!!」

 彼の視線の先には誰もいない。
 犬歯を剥きだしにして笑う政宗は、ありもしない槍を防ぎ、弾いて、誰もいない空間を斬りあげる。

 出来の悪い悲劇だ。
 政宗はその一人芝居を夢中で演じている。



 一息吐いたのか、一人で談笑しながら縁側に座った政宗の前に進み出る。
 おうどうした、などと以前と何も変わらない口調で尋ねる主君に御免と断って、彼の傍らに常にあった六爪を取り上げた。
 がちゃりと重い凶器の感触。そのまま去ろうとした小十郎を、政宗が乱暴な力加減で引き留める。

 「何のつもりだ、小十郎」
 オレは六爪をお前に許した覚えはねぇ。

 低く這う怒声に小十郎は淡々と答えた。

 「棄てるのです」

 政宗の眉が跳ねあがる。
 膨れ上がった怒気が拳となって飛ぶ前に、小十郎は声を荒げた。

 「政宗様、真田幸村は死んだのです!」

 六爪が激しい音を立てて地に落ちた。頬にめりこんだ拳は骨に響き、小十郎は思わず尻もちをつく。
 全身から殺気を発散させた怒れる竜が、小十郎を見下ろしていた。
 そのあまりにも冷たく猛々しい独眼に背筋が粟立つ。

 「Say it again」
 真田幸村はここにいる。
 片翼の鳥は片割れの帰還を信じている。

 溢れる鼻血を気にも留めず、小十郎は問いかけた。
 「真田は腕をあげましたか」
 「何を」
 「今日の斬り合いで一度でも、貴方を追い詰めましたか」



 「貴方が見ている真田は、貴方の記憶の中の真田から、少しでも変わりましたか」


 小十郎は万感を込めて尋ねた。政宗様、どうか戻ってきてください。
 真田幸村は、死んだのです。
 貴方は記憶の中の真田幸村をなぞっているにすぎない。

 「貴方の六爪は、過去の中で閃くものではありません」
 そんなものならば必要ない。
 「未来を拓くものなのです」
 過ぎ去った回廊から戻ってきてください。停滞を脱し、未来へと時間を重ねてください。


 「政宗様、真田幸村は死んだのです」


 貴方がどれだけ希おうとも、最早かの人は彼岸にあってこの世にはなし。
 幽界を見つめたところで、得られるのは虚ろな幻だけだ。

 小十郎の魂からの叫びに、政宗はたじろいだようだった。
 あと少し、小十郎は言葉を重ねようとしたが、不意に二の腕に燃えるような痛みを感じて振り返る。



 真田幸村、だった。



 闇の中の陰よりもなお陰鬱な眼差しに憎悪を燃やし、蒼褪めた唇がひび割れたように開く。
 ちらちらと濡れた舌は、それでも赤かった。

 「旦那は、生きてる」

 だって俺様が生きている。菓子をねだるあの声を聞いた。
 小十郎の腕に爪を立て、骨の浮いた白い指を紅に染めながら、「真田幸村」は反駁した。
 栗毛、顔の造作、何もかもが生前の幸村だ。
 いっそ、妄執すら感じるほどに。

 「猿飛、か……?」
 「右目の旦那、許さないよ」




 「拙者は、生きている」