ギィ、と踏みだした足の先で音が鳴ったから、は、あァなんだ、俺はまだ生きのびちまってるんだ、と思い知る羽目になった。
 そうして、軽いぜつぼう、を、抱えて二歩目の現実を踏み鳴らすと、蝋燭の密やかな照明、そして邪神の祭壇のような石像に背を向けた白銀の男が、「か、」と彼の名を呼んだ。は唇を吊りあげ、顔面を覆う包帯の下で、傷の上に張りつつある新しい皮膚が引き攣る。三歩目の現実は、「佐吉ィ」という罅の入った声に紛れた。舌を覆う粘膜がない。喉がからからに乾いていた。
 佐吉と呼ばれた銀色の男、三成は、墓場から這いずり出てきた骸骨のようなそいつを、色素の薄い三白眼に淡々と映した。吉継はの進路を避けるように輿を動かすと、「貴様まだ生きておったのか、悪運の強い」と呆れたような声を出した。肺の破れそうな笑い声を発して、は枯れ枝のような背を揺らす。

 「なァ、佐吉ィ。てめぇ紀之介ばっかに任せてんじゃねぇよ。てめぇが復讐を選ぶんなら、俺も一枚噛むぜェ」

 緩んだ包帯の隙間から、長い睫毛に縁取られたの目が、蝋燭の光をちらちらと揺らめかして三成を、一心不乱に見つめている。吸血鬼のような犬歯と同じ硬質の輝きを持った瞳に写る三成は、光源を背にして光の縁取りがなされているようだった。その姿は、彼らの旧主の墓標を背負い、まるで代行者。暗く沈む端整な面立ちの三成は、瞳ばかりが美しく鮮やか。は縋る人のように言い募る。彼の足跡を拾って歩きたい。

 「俺には、てめぇや紀之介みてぇな武力はねぇけどよ。独眼竜に軍を起こせって言われたんなら、俺の力は要るだろう?」
 「貴様の兵站能力は認めている。秀吉様への忠誠心もな」

 はにんまりと笑みを濃くする。褒められた子供と同じ顔だ、ひたすら喜色を浮かべるその表情には何の含みもなく、それが逆に薄ら寒さを際立てた。
 蚊帳の外にある吉継は、心中、それは違う、と三成の言葉に注釈を付ける。
 幼時より成長を分かち合い、共に秀吉に仕えた三人だが、彼らの関係は対等なものでも同志でもない。三成が旧主を崇拝し、死者を過去へ押し遣ろうとする歴史に逆らう傍らで、吉継は忠義も何もなく誰彼となく呪いを吐く。そしてまた、この、屍を引きずっているような痩せぎすの兵站将校は、三成の言う忠誠やら悲憤やらというものを欠片も持ち合わせてはいなかった。秀吉が生きていた頃から。

 『君が秀吉に心酔していなくても問題は無いよ。三成君がいるからね』

 早世した美貌の軍師がかつてそう言っていた。彼の視線の先には秀吉がおり、三成がおり、三成の背後にはがいたので、うまい構図だ、と可笑しくなった。今、秀吉も半兵衛も彼らを取り残して去り、三成の前にあった巨体は物言わぬ石彫りとなったが、三成とはまだそこにいる。変わらぬ連中よ、と声には出さず呟く。

 「貴様、体は動くのだろうな」
 「独眼竜にやられた傷か? あァ、もう、倒れやしねーよ」

 ほらこうして立ってるだろ、と、顔色が良かったことなどない男は頓着もしない。むしろ、三成の瞳こそ蛇のように鋭く細められる。
 だが三成が、秀吉に殉じると決めているこの男が、の分まで背負ってくれるとは誰も思わない。その様子を吉継はつまらぬ芝居でも見るような目で、は三成の瞳の贋作のような目で見つめている。

 「……いいだろう」

 三成の言葉に、はニィ、と歯を剥き出しにして、頬のピンク色した皮膚が裂け、治りかけの切り傷から薄く血が滲んだ。の喜びからあっさりと意識を離した三成は、彼の体内に凝る行き場の無い悲憤に全身を染め上げて、甲冑に包まれた手足を颯爽と動かした。銀色が光のもとを離れ、夜闇の中に隠れていく。

 「作戦の詳細は聞かんのか?」

 吉継との間をすり抜けていこうとする彼を呼びとめたが、返って来たのは「全て貴様らに任せる」という信頼だった。相わかった、と虚空に返答する吉継の横で、が餓死者のような体を震わせて笑っている。兵糧をはじめとする軍需物資の扱いに非常な才能を持つ男は、振り返らないまま言った。

 「ありがとよ佐吉ィ。責任もって、兵どもの餌は面倒みてやる。てめぇ、俺の飯、残すんじゃねぇぞ」
 「飯など見たくもない。だが、秀吉様の屈辱を晴らし、秀吉様を忘却せんとするこの世にその罪業を思い知らせるためなら、草の根とて喰らってやる」
 「んなもん、俺が喰わせると思ってんのか」
 「思わん。貴様は、半兵衛様が賞賛するほどの兵站将校だ。その才能を以て私を援け、反逆者どもに償いの哭声を上げさせろ!」

 煮え滾る憎悪を抑えがたく発散して、三成は足音荒く社を出ていく。吉継とは、彼らの旧主を彫刻された岩が、蝋燭の揺らぎに影の形を変えるのを、一方は無言で、一方はくつくつと笑いを噛み殺しながら見ている。死者を偲ぶ感情など彼らの裡にないことを、彼ら二人は知っている。三成ばかりが知らない。
 吉継は、絶対的な力を持ちながら遂に破れ去って、なお、銀色の男の尊崇と、屍のような男二人の無関心を変わらず供え続けられる旧主の似姿を見るともなしに眺めながら、喘鳴にも似た笑声を止められないでいる男に問いかける。

 「お前は良いのか、…。あ奴は、例え生き残ったとしても、遠からず屍を晒そうぞ」

 秀吉への信仰とでも言うべき忠義を貫き、復讐を遂げたところで三成は殉教の道をいくだろう。彼は自身で、復讐の果てにある虚無を見、受け入れていた。殉教者を吉継は止めようとも思わなかったが、ずっと、彼らが幼い頃から、秀吉が生きていた頃から、秀吉ではなく三成を崇拝しているは、滅びゆこうとする彼の神を止める気配もない。
 もっともがそのような戯言を口走れば、吉継が妨げる前に三成自身によって誅殺されるだろうが。
 は、幼い子供が未知の言語を聞いたように面食らって、それからげらげらと笑い出した。なあ紀之介おまえばかだろう、俺が止めるわけねぇじゃん、不吉な男は眦に涙を浮かべてまで三成の末路を歓迎する。殉教者の信者は夢見るように陶酔。

 「俺はなァ、嬉しくって嬉しくってどうにかなっちまいそうなんだ。佐吉のあの目を見たか、紀之介? 俺の夢は続いてるんだ、秀吉サマが死んじまっても、佐吉はあの目をやめようとしないだろ? ああきれいだなあきれいだなあ。佐吉があの目をしててくれるんなら、俺ァなんだってするぜ。佐吉が死んじまっても構うもんか」

 もちろん、滅多なことでは死なせないように兵糧も武具も整えるが。
 矛盾に満ちた三成の盾は、同じ破滅のにおいを漂わせる三成の矛に、満面の笑みで同意を求める。

 「俺ァ佐吉の、破滅的なうつくしさが大好きなんだ。あいつ、冬の夜明けみてぇに、死のにおいがしてきれいだろ?」



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