頬に当たる風は、まだ時折鋭い冷たさを孕むことがあるけれど、降り注ぐ陽光は少しずつとはいえ温みを増している今日この頃。
 暦の上では立春も過ぎたそうで、うぐいす餅はいらんかねと和菓子屋でバイトをしているがクラスメイトに煽り文句を囁いて歩いていたのも記憶に新しい。桜餅はまだないのかと聞いたら、流石に時期が早いだろうと返された。あるけどね、と付け足された言葉に苦笑いが止まらない。
 我がクラスの誇る鉄腕アルバイター、と自称するは夏目の奇妙珍妙入り乱れた友人の中で、群を抜いて不思議な少女だ。妖でもなければ夏目のように妙な能力を持っているわけでもない、ただのヒトにも関わらず、そう感じてしまうのは一体どういう作用だろうか。人徳だろう、とニャンコ先生は断じたが、変人と認識されてしまう人徳って何だろう。

 さてそんなだが、彼女は今、校庭の芝生に大の字で寝そべっている。健やかに上下する僅かな胸に、夏目は思わず遠くを見遣ってしまう。昼寝か、昼寝なのか。確かに今は昼休みも半ばで、彼女のそばには男子高校生には理解できないサイズの弁当箱があるから大体の事情は察するけども、それにしたって大の字か。今日は微風も吹かない日本晴れで良かったと思う。なにせ彼女は女子高生、制服改造に興味の無いとはいえ、彼女の制服はズボンではなくスカートなので。

 「……寝てるのか?」

 実を言うと今、夏目にはの顔が見えない。彼女は、全く持って霊感の類が無いようで、ニャンコ先生すら見えないという夏目の極端をいく人間なのだが、どういうわけか妖をくっつけていることが多かった。特に吹けば飛ぶような下級の妖。今だって、恐らく彼女の隣にある花壇から寄って来たのだろう、花の香りを纏わせた大量の木霊にたかられて、そのせいで夏目には顔が見えないのだ。よくこの状態で寝られるものだと夏目は思う。彼なら確実に窒息だ。ちなみに夏目がこの木霊の吹きだまりをクラスメイトと判別できたのは、弁当箱を包む燕のハンカチに見覚えがあったからだ。西村がこの場にいたらお前細かいとこ見てんなあと呆れること確実である。
 夏目が声をかけると一拍おいて、木霊の下から「……ふひぇ?」と寝ぼけた声が上がった。脱力していた手足がもぞりと動き、墓穴から這い出すゾンビのごとき動作でが起き上がる。体中にくっついていた木霊がばらばらと落ちて、きゃあきゃあ彼女の周りを走り回った。

 「……寝てた?」
 「ああ」
 「っ時間!」
 「大丈夫、まだ昼休みだよ」

 寝ぼけ眼のが面白くて、夏目はくすくす笑ってしまった。それを見たはぶすくれて、エッチなことしてないでしょうね狼くん、ととんでもない問いかけをする。

 「そ、そんなことするわけないだろ! 大体おれにはの姿見えな…」

 はっとして夏目は口をつぐむ。あの、そのと必死に言葉を探す夏目の顔色は、反駁したときと理由が違ってしまっている。
 聞けば違和感を覚えずにはいられないだろう後半部を、しかしは意識にも留めていないようで、髪やら制服やらについた芝生を落として弁当箱を拾った。

 「んなことわかってるよ、夏目は間違いなく草食だもん」
 「……草食?」
 「肉食の夏目は想像つかない」
 「いや、おれだって肉は食べるぞ」
 「そのままの夏目が素敵だって話だよ」

 はにやにやと含み笑いしながら、がんばりたまえ青少年、と夏目の肩をばんばん叩いた。焦りが急速に遠のいていくのを感じながら、って時々中年おやじみたいだなあと失礼なことを夏目は思った。彼女と話していると、夏目は頻繁に煙に巻かれてしまう。
 ふと、夏目の鼻を甘い香りが掠めた。ひっこめられようとしていたの手を、半ば無意識に追いすがる。掌に収めた細い手首から、また少し甘い香りがした。

 クラスの女子たちと違い、は化粧品にはほとんど興味が無いらしい。ヘアスタイルや香水もさっぱりわからないと胸を張り、女子グループに女としてそれはどうなんだと改造計画を持ちかけられていたのを知っている。しかし夏目は、彼女が独特の香りを持っていることにもまた気付いている。夏目が気付いているのだから聡い女子たちが気付かないはずもなく、彼女らに詰め寄られたはあっさりこう推測した。

 線香じゃないかな。

 、女子高生。家は墓地の隣。
 阿鼻叫喚の坩堝と化した教室で、引き攣る男子の視線に気付いたは更にこうのたまった。線香持ち歩いてるわけじゃない、単なる移り香だから普段は気付かないはずだ。とても免罪符になるとは思えなかったが、実際隣の席でも後の席でも気付かなかったので、とりあえずは不問にされた。ちなみに女子はともかく夏目がそれに気付いたのは、いつぞや遅刻しそうになったとき、原付を駆るの後に乗せてもらったことがあるからだ。強くない香りは午後には霧散していることが多い。

 ともかくそんな午後のから、どういうわけか甘い匂いがしている。それは強いものではなくて、例えば秋口のキンモクセイのように一瞬意識を掠めて通り過ぎてしまうような香りだったのだけど、夏目ははてと首を傾げた。は更に角度を付けて首を傾げた。

 「何の香りだろう」
 「何のつもりだろう」

 は慌てず騒がず手首を取り返すと、顔色も変えずそろそろ戻ろうと夏目を促した。
 夏目も時計を見て、そうだなと一緒に踵を返す。

 「おっと、忘れるとこだった」

 かくんとロボットのように動作を止めて、は自分の寝ていた場所を振り返った。園芸部が管理している花壇では、チューリップの芽の横、丁度のいたすぐ隣に、水仙が高雅な姿を伸ばしている。そのすっきりとした葉に木霊が添って立ち、夏目とを見送っていた。

 「最高のベッドをありがとう! いい匂いだった!」

 まるで彼らが見えているかのように、はひらひらと手を振った。応じるように木霊が手を振り返してきゃあきゃあ笑う。夏目は驚いてを見下ろした。少し低い位置にあるの頭は、未練も何も無く実にあっさり校舎を向く。

 「……何か、見えたのか?」
 「は?」

 夏目の問いかけに心底から首を傾げたは、思い当たることがあったのか「ああ、」と視線を宙に浮かせた。も見えるのか、と夏目の期待は否が応にも高まる。しかしは、その心を知ってか知らずか「なーんにも」と否定を寄こした。

 「お世話になったらお礼、きれいなものを見たら褒める。花を長持ちさせるコツよ」

 切り花だって、話しかけてると長持ちするよ、と豆知識を披露しただが、夏目はその答えに勢いをなくさざるをえない。自嘲する。そりゃそうだ、そうほいほい見える人がいるものか。夏目は知っていたはずだ。は見えない。それが、諦めに似た寂しさを伴って夏目の心に爪を立てる。
 夏目は、おばあが生けた万両に毎日挨拶しているというの話に合わせるように、淡い微笑を形作った。それは少し寂しさが滲んでいたかもしれない。夏目の心を知らないから、水仙の移り香が散った。





 





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 110207 J