信虎の居室を辞した晴信は、数歩も歩かぬうちに次郎と行き合った。
 晴信の心情を案じたのだろう。次郎は、兄が父に疎まれていること、そして自分が愛されていることを自覚している。次郎はそれに驕ることはない。むしろ、彼は晴信に心服していた。だからこそ、父の意に反して兄弟骨肉の争いが起こることもない。
 しかし、そんなできた弟の心配に感謝できるほど、晴信は練れた人間ではない。
 先陣は次郎よ。信虎の言が耳元に木霊する。この時代、武功の価値はそれこそ命よりも重い。次郎に非などなく、むしろ信虎の思うままとわかりつつも、何も知らぬ次郎に分け隔てなく接するにはまだ晴信は青かった。
 「兄上、大丈夫ですか」
 「なに、心配はいらぬ。ただの挨拶よ」
 (それにしては)
 晴信の顔は強張っている。
 父上は何故、こうまでも優秀な兄上を遠ざけるのか。兄への敬慕が腹の底まで染み付いているこの貴公子には、父兄の持つ炎のような競争心が足りない。自らを以て晴信の補佐たるべしと心に決めている次郎の血には、他を圧倒し征服せんとする虎の気概は継がれなかったようである。あるいは、信虎はこの素質故に、自身に似た若虎の晴信よりも次郎を愛したのかもしれぬ。
 「しかし、やはり出兵は確実だったわ」
 「まことですか! ……父上は勇猛なお方ですけど……せめて、作付までは」
 田植えをせねば、米は実らぬ。甲斐は春の訪れが遅い。だからこそ、八十八夜の頃には人手がなんとしてもいるのである。しかし信虎の出兵が重なるのもまたこの時期だった。近年の信虎は、雪が融けると待ちかねたように兵を出す。
 「次は信濃らしい」
 信濃には信濃平と呼ばれる広大な平野がある。更には金山、鉱山、善光寺。善光寺は交通の要所で、東は木曽路、南へ行けば東海道、北は信州へ街道がぞろりと伸びている。当然経済の発展した土地で、座の挙げる利益は無視できない。ちなみに座とは、商工業組合のようなものだ。その座を統括する善光寺は、奈良朝の欽明天皇すら起源に連ねる第一級の寺社である。本尊は百済渡りの善光寺式阿弥陀三尊。広大な荘園を所有して、その権威と影響力は計り知れない。今となっては形骸化したとはいえ一応の権威を持って関東一円に根付く関東管領上杉氏も、この秘仏を得ればその権威を圧倒することができよう。
 このように信濃は、経済的にも政治的にも抜きん出ていた。
 痩せた耕地と国人領主の割拠する甲斐でくすぶる武田としては、喉から手が出るほど欲しい。
 豊かな土地であるだけに、信濃衆の抵抗は頑強だろう。いくら武田が甲斐とて、そうやすやすと平らげることはかなうまい。であれば、恐らくじわじわと、信濃の切り取りを試みることになる。……だが、それでは国力の疲弊が過ぎる。
 (父上の戦略は散漫だ)
 一貫した筋道というものがない。
 まるで獲物を食い散らすがごとく、信虎は手当たり次第に戦をしかけている。
 今川と手を結んだ代わり、関係の悪化した北条という火種もある。信濃と小田原、二カ所に兵を割く力など甲斐には無い。
 「信濃…やはりですか。関東は北条ががっちり支配しておりますし、駿河遠江は今川のもの。越後は支配が緩みたりとはいえ険峻な山脈がありますし、手を伸ばすなら西の信濃しかない。……兄上?」
 呻いた次郎は、ふと兄が思案の眉を開いて己を凝視しているのに気がついた。
 いかめしい顔に、今気付いたと言わんばかりの唖然とした驚きがある。
 しかし次郎には、何が兄を驚かせたのかわからなかった。信濃が次の戦地であることは、晴信自身が述べたのだ。
 「それよ」
 「は?」
 濃い眉の下で、理知的な眼光が瞬く。晴信は苦々しく頬を歪めると、歩みを速めて自室に向かった。燭台に灯を点し、筆箱を開ける。墨をする脳裏では様々の事柄が忙しく行きかっている。
 所在なげに座った次郎の鼻を墨の匂いが満たす頃、晴信はふと口を開いた。
 「次郎、俺は、悪逆無道な男と謗られような」
 そう言った晴信は視線を硯から床の間に転じた。そこには、晴信の愛刀が飾られている。
 燭台の灯を受けて、無垢な下げ緒が温かな色に染まっていた。





 農閑期は雪で閉ざされてしまうので、
 出兵は穀物の蓄えが底をついた夏に行うことが多かったそうです
 って藤.木久志先生が言ってたような気がする

   とお