ひっくひっくとしゃくりあげる子供をあやし、坊は困り果てたように眉根を下げた。
 目に映るのはいっそ見事に荒れた棲み処の惨状。いつのまにか弥三郎が持ち込んでいた着物やままごと道具が散乱し、壁には包丁が突き刺さっている。
 一体何が起こったのか、それ以上に凶器を持ちだすとは何事か、言いたいことは山ほどあったが今はそれも後回しだ。

 「松寿丸」

 びくっと震えた小さな背中はそれでも頑なに振りむこうとはしなくて、右足に弥三郎をしがみつかせたまま坊は溜息をついた。





 魅魍魎と直りの




 山に棲む妖怪同士の用事から帰ってきたら、顔面に包丁が飛んできた。
 反射で避けなかったら死んでいた。いや天狗だからそう簡単には死なないけれども、逃げ遅れた髪の数本を道連れに、壁にビィンと刺さった刃物は恐怖を覚えるのには十分だった。
 ギ、ギ、ギと振り向いた先には固まった子供が二人いて、そのうち自分に近い方が右足へと突進し、投げた体勢で固まっていた方は泣きだしそうに顔を歪めてそっぽを向いた。
 あいつが、あいつがと泣くばかりの弥三郎を抱きあげて、坊は体育座りの松寿丸の隣に胡坐をかく。感知した体温に松寿丸は一度震えて、それでも逃げ出そうとはしなかった。褒めるべきか叱るべきか、とりあえず空いている方の手を小さな頭に載せると、嫌嫌をするように頭を振った。

 「松寿丸」
 「……われのせいではない」

 咎める口調で名前を呼べば、くぐもった抗議が返ってくる。

 「何が原因かは知らないけど、包丁を投げるのはやりすぎだ。おれじゃなかったら死んでたかもしれんぞ」
 「はころしても死なぬのか」
 「ぶ、物騒なこと言うな!」

 まさか実験する気ではあるまいな。松寿丸と知り合って幾日も経たないが、既に人を人とも思わぬ知的好奇心の強さは体を張って学習済みだ。坊は人ではなくて天狗だけども。
 慄いた坊とは対照に、腕の中にいた弥三郎が素早く動いた。

 ぽかっ!

 「坊にさわるな!」
 「弥三郎?!」
 「坊は僕のだ、お前なんかどっかいっちゃえ!」

 涙をぼろぼろ零しながら、弥三郎は敵を睨みつける。殴られた松寿丸は泣く寸前だった瞳を大きく見開いて、その視線を受け止めた。
 弥三郎がまた拳を固めたので、坊は慌てて彼を押さえる。

 「やめい、弥三郎! 人を殴っちゃいけません!」
 「でも、こいつ坊をころすって言った!」
 「そんなの嘘だ、おれは人間のガキにどうこうされるほど弱くない!」

 散々いいように遊ばれていた本人が言うには説得力に欠けていたが、大人に怒られて弥三郎は怯んだ。
 坊は彼を宥めるように一撫ですると、殴られたままの体勢で唖然としている松寿丸を振り向く。しかし、坊が何か声をかける前に、松寿丸は子供らしからぬククク笑いと共に立ち上がった。

 「われを、なぐるか」
 「何度だってなぐってやる! あっちいけ!」
 「やめいと言うのがわからんか、弥三郎、松寿丸! これ以上喧嘩するならもうお前らなんか知らんぞ!」
 「のぞむところよ」

 松寿丸は精一杯強がった声を出し、フンと踵を返して出入り口の引き戸を開ける。
 あ、と坊は顔を青くした。
 普段彼らは結界から出入りしているが、坊の棲み処は危険極まりない立地である。下は渓谷、上は絶壁。子供一人で帰れるような道ではない。
 案の定、松寿丸は引き戸の向こう側に恐怖したようだった。しかし松寿丸は意地っ張り、もはや引くに引けず最初の一歩を踏み出して、

 「松寿ま…ッ!」

 ぶわりと強い風が吹き、バランスを崩した松寿丸が道から消えた。跡を追うように悲鳴が上がり、青くなった弥三郎を抱いたまま坊はすぐさま棲み処を飛びだした。
 広げた翼に風が巻く。

 「弥三郎、しっかりつかまってろ!」

 飛行は苦手だ、けれど間に合わなければ松寿丸は死んでしまう。
 懐から羽団扇を取り出した坊は、それを自分の背後に向けてひと扇ぎした。

 「坊ッ!」
 「喋るな、舌噛むぞ!」

 途端押し出されるように速度が増し、倍加した風圧に弥三郎が悲鳴をあげる。
 ぐんぐん周りの景色が流れ、無力に落下する松寿丸に指先が触れた。
 けれど、掴む前に松寿丸を追いぬいた。

 「うっそぉ?!」

 振り返ると、崖から生えた木に松寿丸の着物が引っ掛かっていた。気絶しているのかかくんと揺れた松寿丸の頭の向こうで、折れそうなほど細い枝がしなる。

 「坊、前!」
 「え、ぅわああああ?!」

 弥三郎の声に前を見れば、凶悪に激しい渓流が渦を巻いていた。このまま突っ込めば確実に川を渡れるだろう。川の名前は言うまでもなく三途の川だ。
 坊は必死で翼をばたつかせ、目前で渦を回避した。川の涼しさによるものではない鳥肌が立つ。

 「助かっ」
 「うわああああ、坊ぉ!」
 「ぃ、ぎゃああああ!」

 助かってなんかいなかった。目前に迫った茂みに弥三郎を抱きこんで、奇跡の滑空スピードのまま蔦茂る藪の中へと突っ込んだ。
 ばきばきばき、派手な音を立てて茂みはスピードを吸収する。やっと止まったのでそろそろと坊の懐から顔を出した弥三郎は、逆さ吊りになった現状に度肝を抜かれた。
 どこをどうやって絡んだものか、蔦は坊の手となく足となく翼となく絡みつき、長い髪は破れた蜘蛛の巣の如し。小さく呻いた顔は擦り傷だらけで、弥三郎は大きな衝撃を受けた。

 「坊、坊!」
 「ぅ…やさ、ぶろ…? お前、怪我ないか…?」
 「坊ぅ…!」

 微笑んだ坊に涙が溢れる。ごめんなさい、喧嘩なんかしてごめんなさい。
 泣きだした弥三郎の頭を撫でてやった坊だが、身動きのとれない現状に乾いた笑いしか出てこない。
 随分派手に突っ込んだらしく、通ったあとがぽっかり穴になっていた。その向こう側に宙ぶらりんの松寿丸が見えている。見れば見るほど彼の命綱たる枝は細く、その下では水が顎を開けている。
 何かの拍子に枝が折れたらおしまいだ。坊はぞっとして、体中に巻きついた蔦を引き千切りにかかる。
 しかしいくら両手が自由で天狗が怪力といっても、蔦は体中に絡んでいるのだ。翼の先の方など届かない。
 無理矢理引き千切ろうと体を動かせば、翼に絡んだ蔦が食い込む。

 「ぐっ…あぐぅ……ッ!」
 「………ッ!」

 必死にもがく坊に、弥三郎は息を呑んだ。振り返った先、崖の途中にはまだ松寿丸が引っ掛かっている。
 坊は彼を助けようとしているのだ。

 「……僕がいく」
 「弥三郎…?!」

 制止も聞かず、弥三郎は蔦の穴を這い出した。目下には子供など簡単に飲みこむだろう急流が迸っている。
 怖くて怖くて仕方無かったが、震える手足を叱咤して弥三郎は最初の一歩を踏み出した。

 (僕の、せいだ)

 今日は何をして遊ぼうと訪れた坊の棲み処に先にいた子供。真新しい木彫りの椀で昼ごはんを食べていた。
 聞けばまだ坊と出会って間もないらしいのに、彼はしっかりと坊に歓迎されていた。
 それに弥三郎は嫉妬したのだ。僕だけの、兄のように思っていた存在を横取りされたと、その嫉妬心で第一ラウンドは始まった。
 僅かな足場を辿り、崖にへばりつくようにして松寿丸ににじり寄る。手を伸ばしてもまだ届かない。ふと瞼が震え、松寿丸が目を覚ます。

 「………ッ!」
 「あばれちゃだめ!」

 自分の状況を認識するや暴れそうになった松寿丸に、弥三郎の鋭い制止がかかる。震えながら見ると、綺麗な着物を汚して崖にへばりつく弥三郎が目に入る。
 助けに来たのだろうか。白く頼りない手を必死に伸ばし、足元を探りながら弥三郎は「動かないで」と呟いた。

 「動いちゃだめ。枝がおれちゃう」
 「………きさま、なぜそこにいる」
 「僕だけじゃない。坊もいる」

 弥三郎も怖いのだろう、手足が震えているのが見えた。
 絶対に下を見ないようにしながら、弥三郎は手を伸ばす。

 「ごめんなさい」
 「………」
 「でも、お前もあやまってよ。僕だけがわるいんじゃないからね」
 「フン。そのようなこと、われは知らぬ」
 「坊が」

 ぶるぶる震えながら、弥三郎は言った。

 「坊が、僕たちをたすけようとしてた。けがして、すごく痛そうだし、飛ぶのもすごく下手なのに、僕たちをたすけようとしてくれてる」

 指先が触れた。枝が不吉な音を立てる。
 小さな手を握り合った。両方震えていて、恐怖を振り払うかのように強く強く握りしめる。

 「いっしょにあやまろう」
 「…………」

 こくりと頷いた松寿丸の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
 それと同時に枝がボキリと折れ、悲鳴さえ上げられずに幼子二人は空中へと投げ出される。手を握り合ったまま。
 どうどうと流れる水音が聴覚全部を奪うほどに大きくなって、水飛沫が霧雨のようになって、


 一瞬後、それらは全て遠のいた。


 「このっ……馬鹿ども……!」

 死んだと思った。全部全部終わると思った。体全部が早鐘のように鳴っている、子供二人は自分たちを抱える体温に上を見上げる。
 ボロボロになった天狗が、空を背景にして彼らをしっかり抱きとめていた。

 「無茶をするな…! あとちょっと遅かったら、お前ら死んで」
 「う、わああああああん!」
 「ああああああああん!」

 涙腺が一気に決壊した。
 あちこちが破れ、汚れた着物に顔を寄せてわんわん泣き出す子供に坊は怒る気も失せて、まあ叱ることはあとで叱ればいいかと適当な着陸地点を探す。
 右手に弥三郎左手に松寿丸の坊は、その瞬間油断をしてしまった。

 だって彼は、飛ぶのが苦手な烏天狗なのだ。
 上昇下降方向転換、ぶっちゃけ全部苦手だったのだ。

 「っぎゃあああああああ!!」

 先ほどまでは言うなら火事場の馬鹿力という奴だったのだろう、コントロール不能に陥った飛行船号は風に舞う木の葉の如く翻弄される。
 必死に子供たちを庇いつつ、スライディング着地を決めたのは固い固い岩の上で、

 「ぎぇっ!」

 止まったのは、脳天を石にぶつけたからだった。
 虫の息の坊の腹の上で子供たちは仲直りをしていたのだが、それは家族と感動の対面をしていた坊の預かり知るところではなかった。


 以後連係プレーで面倒事を起こす子供たち
 頭痛の種が増えた!
 080901 J