饅頭でも頬張っているかのような、ふくふくとした頬を大粒小粒の涙が伝う。
 腹に鼻面をぐりぐり押し付けられながら、坊は天を仰いだ。どこからか忍の絶叫が聞こえてきた。





 魅魍魎とき虫の子供




 ひどいひどいと子供は泣いた。
 着替え中に鳩尾へと突撃を受け、じたばた振り回された短い手足に漬けたばかりの梅干し壺を蹴倒された坊もひどいひどいと泣きたくなった。
 折角丹精込めて漬けたのに。精進料理にはうるさいどこかの夏野菜のために、墜落覚悟で探しまわった岩塩なのに。全ての苦労が水の泡になったのを嘆きながらも、泣きじゃくる子供に当たるわけにはいかないと必死で涙を押し込める。

 「何ぞあったのか、弁丸」
 「しゃ、しゃす、しゃすけがひどいのでござりゅぅ…!」

 ぼろぼろでろでろ涙と鼻水まみれになりながら、弁丸は拙い言葉で佐助はひどいと繰り返す。弁丸付きの下忍を思い出して坊は心中またかと溜息をついた。
 佐助と言う名の半人前の忍は、主たる弁丸の教育係も兼ねている。坊の目から見れば忍としてそれはどうかと思うくらいべろべろに甘やかしているのだが、直情径行思い込んだら一本勝負の弁丸とは時たまド派手な喧嘩が起こる。
 多くは弁丸の思い込みとかわいいわがままが原因だが(こう思う時点で坊も弁丸に甘々である)、最近の弁丸は知恵をつけ、己の味方を求めて坊のところへ転がり込んでくるようになった。おかげで佐助の鬱憤は全て坊に向く。この間なんか最悪だった。もののはずみで「しゃすけなんか、だいっきらいでござりゅ!」と叫び、おまけに「坊どのの方がすきでござりゅ!」などと宣言してしまったがために、坊は佐助の怨念を一身に受けるはめになってしまった。反省した弁丸が謝ってくれなかったら、今頃川を渡って家族に再会していたかもしれない。ちなみに坊の家族は人間、坊も元人間。かれこれ500年以上前の話である。
 しかしながら、坊とていつも弁丸の味方をしているわけではない。
 三つ子の魂百まで、躾という字は身を美しくすると書くものだ。弁丸に非があれば佐助と共にちゃんと諭すし、賢いとはいえまだ幼い佐助が言い過ぎれば公平に叱りもする。
 だがしかし、多少弁丸を庇ってしまうのは仕方がない。なにしろ、

 「ぼ、坊どののところにはもう行くななどとっ、ゆうのでござりゅうぅ……!」

 これだ。
 結界で移動距離を短縮しているとはいえやはり坊の棲み処は深山渓谷断崖絶壁、その上結界とて深い森の奥にある。
 身を守るすべのない弁丸が気軽に出入りするのは、いくら甘く見ても不穏当というものだろう。
 佐助がそう言った理由がわかる坊は何とも言えない気持ちになった。
 確かに弁丸が一人でここに来るのは危ない、しかしこんなかわいいことを言ってくれる子供を拒絶するのは気が引ける。

 「べ、べんまりゅは、坊どのに会えないのは、いやでござりゅ…っ!」
 「弁丸……」
 「で、でもっ」

 弁丸はぐずずっと鼻をすすり、大きな目を潤ませて坊を見上げた。
 泣きやむか? そう思った矢先、弁丸は顔一杯で本格的な泣き顔を作った。

 「しゃすけが痛い痛いすりゅのも、いやでござりゅううわあああああん!!」
 「え?! ちょ、ちょっと待て弁丸、佐助どっか怪我したのか?!」
 「うわあああん、しゃしゅけぇえええっ」

 びぃびぃ泣きだした弁丸を腹にくっつけたまま、坊は河童の膏薬やら自作の血止め薬やらを引っ張り出した。ええっと確かこっちにも薬があった、違う痔の薬じゃなくてこの軟膏、

 「な〜にしてるのかなァ、の旦那
 「ぴぃっ?!」

 首筋に冷たいクナイの感触。下忍とは思えないどす黒い殺気に、背中の翼が毛羽立った。
 振り返るまでも無い、弁丸あるところに佐助あり。泣く子に呼ばれて飛んでくるのは母親ではなく忍である。

 「さっさと弁丸様から離れて」
 「さ、佐助、お前怪我は……?」
 「早くする
 「ハイ」

 腹にしがみつく小さな手をそっとはずすと、ちゃんと着れずにはだけていた着物を涙でぐっしょり濡らして、ついでに鼻水をてろーんと伸ばして、泣き虫弁丸が佐助の腕に引き渡された。
 洗いたての着物の惨状に、坊は着物をつまんで絶句する。

 「弁丸様、ここは危ないから一人で来ちゃ駄目って言ったでしょ」
 「うむぅうう…! で、でも、べんまりゅは坊に会いたいのだ」
 「それなら、せめて俺様を連れて行きなさい」
 「だって」

 だってしゃすけは痛い痛いしてたのだ、とまたもや弁丸が泣く体勢に入る。あれだけ泣いても子供は元気だ。
 佐助は困ったように、それでもどこか嬉しそうに笑って、「ああそれね、」と自身の脇腹をぽんと叩いた。どうやらそこが負傷ヵ所らしい。

 「もう治ったから、安心しなさい」
 「ほ、ほんとうか…?」
 「本当本当。弁丸様があっちこっち動き回るもんだから、俺様心配でのんきに怪我してらんないの」

 嘘をつけ、と坊は弁丸に聞こえないように呟いた。さっきから漂う、ほんの僅かな血の匂い、常より白い佐助の顔。涙で潤み、鼻を詰まらせた弁丸は気付いてないだろうが、佐助の怪我が治りきっていないことなどすぐわかる。
 佐助の素振りと言動から、坊は彼が怪我をした状況を悟った。恐らく、坊の棲み処を目指して森を突っ走っていった弁丸を狙っていた相手とでも一戦やらかしたのだろう。そうでなければ佐助がいきなり訪問禁止を申し述べるはずがない。無害と判定されて後は、庭で遊ばせとくより安心だと零していたくらいなのだから。………他意はないと信じたい。

 「じゃあ、じゃあっ! これからも、坊とあそんでよいのだな!」
 「うん、俺様と一緒ならね。俺様が忙しい時はの旦那に預けるけど、送り迎えは俺様がするから」
 「え、おい何勝手に決めてんだ佐助」
 「わあ! かたじけないしゃすけ!」
 「良かったねー弁丸様」
 「あのおれの話聞いて、ねえ聞いて」
 「あ、そうそうの旦那」

 弁丸の頭を一撫でし、その手に玩具を握らせてから佐助は坊に向きなおる。整った顔に浮かんだにこやかな微笑。そのくせ目が笑っていない。坊は思わず一歩後退した。
 佐助はあくまで穏やかな声音で、しかし怖気を覚えさせるには十分な迫力でもって問うた。

 「そーんな格好で…弁丸様に、一体何をしてたのかなァ?
 「こ、これは……!」

 着替え中だっただけなんですってば、という言い訳は親ばかの耳には届かない。

 「丁度よかった、俺様クナイの練習したくてさぁ」
 「お、おれは何もしてない!」
 「弁丸様、夕飯は焼き鳥だよ!」
 「洒落にならんからやめろぉぉおおお!!」

 ひゅん、と頬を掠めたクナイに戦慄し、坊は澄んだ空へと飛び出した。ああ、空が青い。
 瞬時に重力に捕まった飛行下手な鳥を憐れむように、カラスがどこかで一声鳴いた。


 それでも帰り際には血止めの薬をあげる坊
 何だかんだで佐助も大事
 080901 J