青い花が咲いている。 灰色をした岩の隙間にはネコジャラシの枯れたようなのが立ちつくし、その隙間にその名も知らぬ小さな花は、すうすうと茎を伸ばしている。強烈な太陽の支配する夏が終わりに近づいて、根こそぎ水分を奪われた草は随分色を失ってしまっていたから、空よりも尚濃い、紫にさえ近い花弁は小さいながら随分目立った。ジョルクは、その花の色が強く目端に焼き付いたのを感じたけれど、花の名前も知らぬ彼はそれを愛でつつも、あの辺、後で刈り取っちまおう、と仕事の算段をつけることに頭を使った。冬が来て、草という草が雪の下に覆われてしまう前に、十分な干し草を蓄えなければならない。刈り取った草を山と積んだ荷車を牽く馬が、主人が足を止めたのを幸い足元の草を食み始めたのを、手綱を引いて歩を促す。 見上げた冬営地は荒涼とした山腹にあり、黄色い土の色を昼の光に晒している。今は申し訳程度の草が所々に見えていたが、干し草となる草の刈り場には貧しすぎる。そのため、荷車と犂を持って周辺の土地から草を集めなければならなかった。まだ暑さの残る昼間から行うには中々の重労働で、この草を干場に届けたら、暑さが和らぐまで少し休もうと思ってジョルクは唇を舐めた。水が飲みたい。持って出た水筒は既に空だ。 冗談みたいに涼しそうな青空を恨めしく見上げながら、冬営地に辿り着く。あの水色が全部降ってきたらいいのになあと思いながら干場に草を広げていると、草まみれになったアゼルとバイマトがカラの荷車を引いてきた。乾燥の終わった草を積み込んでいく。これから保管庫に仕舞いに行くのだろう。 「ジョルク、手が空いたなら手伝え」 「冗談、水くらい飲ませてくれよ。喉がからからだ」 「バイマト、いい」 アゼルが草を持ちあげながらバイマトを制した。珍しいこともあるもんだとジョルクは従兄を窺う。何も要求せずに黙々と仕事をする背中に、やっぱ手伝った方がいいだろうかと後ろめたさがこみ上げてくる、が、あのさ、と言いかけた機先を畳みかけられた。 「こちらはすぐに終わる」 何かを察したようにバイマトがアゼルに目配せをし、ついでジョルクに顎をしゃくった。アゼルは視線を逸らして、それ以上何を言うことも無い。手伝うタイミングを逸したジョルクは、少し、その言い方が引っかかった。こちら「は」? 変な言い方をする奴だと思いながら馬を荷車から解放してやり、道具を適当に片付けると、ジョルクはすっきりしない思いを抱えたまま保管庫を離れ、冬営地の外れへと足を向けた。心なしか暑さが増した気がする。 冬営地に人影は未だ少ない。ジョルク達、ハルガル一族は、夏の間は放牧をして羊を肥やす。冬営地はその名の通り冬越えをするための土地なので、仮住まいの壁などは夏の間に荒れたり、漆喰が崩れたりしている。そのため、夏が終わる頃になると、少人数が一族のもとを離れて先に冬営地に入り、住居を修復したり干し草を蓄えて家族と家畜を迎える準備をする。家族は家畜を連れてゆっくりと移動し、秋が深まる頃冬営地に辿り着く。 先遣隊の役目を割り当てられるのは、大抵体力の有り余る若者だ。家の補修にしろ干し草作りにしろ体力が要るし、若い男の集団なら盗賊などに襲われる危険も少ない。ジョルクは数年前からこの先遣隊に参加しており、当然手際よく作業をこなしていた。アゼル達とてそうだったが、中にはそうではない者もいる。 道端に生っていたザクロを二つもいだジョルクは、その一つにかぶりつきながら、冬営地の端の家を回った。 「、休憩しようぜ」 「っぎゃあ!? いつからいたのあんた!」 首を絞められたキジのような声を出したは、手にしていた泥を取り落とした。壁の修復をしていたらしい。冬営地の端に位置する家の住居は、風や日差しに晒されやすく朽ちるのが早い。その上、今漆喰の剥げ落ちた箇所は、障害を負った父に代わり彼女が男の仕事をこなすようになって初めて直した場所だ。覚束ない、力の無い手が塗った壁は、他の家よりもずっと脆かった。 あとちょっとだから待ってて、と断って壁に泥をなすりつけるは、かつてとは段違いに手慣れている。しかし、背の低い彼女は高所の修復に手間取っているようだったし、何より全ての作業を一人で行っているので、どうしても他より遅れてしまっている。他の家族は、既に干し草を集め始めている。 大父が死んで以来、ハルガル一族は足手まといの家に対して冷淡だった。上の者がそうだから、自然、手伝いは減る。ジョルクはそれを腹立たしく思い、幼馴染のためもあって始終家の手伝いを申し出ているが、それが逆に、年長者達の目を盗んでを手伝おうとする若者達への牽制になってしまっていた。申し訳ないとは思うのだが、他の男どもの手なんぞ借りなくていいと思っている自分もいる。我ながら自分勝手さには呆れたものだ。 結局高所の漆喰の修復を手伝い、桶に残った水で手をすすいだジョルクはを日陰に誘った。ザクロを摘まみながらはついてくる。家壁に背を預けた二人は、喉の渇きを癒そうとザクロにかぶりついた。 「うまい? ザクロ」 「うん。……アミルさん元気かなあ」 「どこから拾ってきた、その話題」 「だってザクロよ」 「ああ、じゃあ仕方ねぇなあ」 従妹のアミルが嫁いだのは、つい先日のことだ。 は、アミルの結婚を殊更喜んだ。少々天然なところのあるアミルは、周囲の空気などどこ吹く風で親切だったし、も随分懐いていた。 いつも、唇を引き結んで苦労に耐えるは、アミルを姉のように思っていたのかもしれない。アミルといた時、彼女は精神的に、少しだけ甘えることができていた。 「寂しい?」 「ちょっと。でも、アミルさんには幸せになってほしい」 はそう言って、アミルが嫁に行った町を見晴るかそうとするように空を仰ぐ。視線の先には、煤けた茶色の稜線と、ぽっかりと浮かんだ雲ばかりがある。 ジョルクは感想を飲み込むようにザクロを齧った。この苦労性の幼馴染が、随分前に結婚を諦めてしまったことを、ジョルクはなんとなく感じ取っていた。ザクロの酸味が舌を強く刺激する。幼い日の口約束は、彼女の中では既に思い出とされたのだろうか。これからの人生を、は思い出をよすがに生きていくつもりらしい。 嬉しそうにザクロを齧るの睫毛がつやつやと長いことが、ジョルクの感情をかき乱した。果汁を喜ぶ小さな口が、決して弱音を吐かないことが、ジョルクは少し恨めしい。少しずつ奪われていった未来や、日々逼迫していく暮らしが彼女を追い詰めていないはずはないのに、は絶対にジョルクに助けを乞わない。乞うてもどうにもならないことを、迷惑も省みずジョルクが行動しようとすることを、は知っているのだ。そしてジョルクは、がそう考えていることを知っている。 健気な娘だった。意気地の無い男だった。 「お前偉いなあ」 「何よ、急に」 「俺、お前の弱音とか聞いたことねえし」 窮乏し、男の仕事をせざるを得なくなって、は娘でいる時間を失った。 それが彼女を苦しめないはずはないのに、彼女はよく笑う。本当に嬉しそうに、この晴天を映しとったような、明朗な笑顔をあけっぴろげに浮かべる。 「……辛い時が、ないわけじゃないよ」 は、少し居心地悪そうに吐露すると、でもねえ、と音階を上げた。 「泣いたって余計悲しくなるだけだし。それにあんたが色々気を使ってくれるから、辛いばっかりじゃない」 こうやってザクロも貰えるし、とは最後の一塊にかぶりついた。溢れた果汁が唇の端から滴る。慌ててその薄紅色の汁を拭おうとしたの顎を、ジョルクの指が掬いとった。 そのまま、口付けるつもりだったのかもしれない。 けれどそれをするのに、自分はあまりにも矮小だった。 男に混じって先遣隊に入らなければならないに、自分はどんな助けになれているだろう。小さな仕事を手伝ったところで、この娘の苦労をただ眺めているだけじゃないか。ジョルクが壁を塗ったって結局彼女の立場は何も変わらないのだ、何しろ自分は彼女を娶らない! 年長者の決定に逆らえないでいるジョルクを、は一言も責めないでいる。そんな情けない男が付けこんでいいはずがなかった。 ザクロの滴が指を伝って、のスカートに落ちた。ジョルクは今更、の口許を拭った。 「……壁、終わったろ。もうちょっと涼しくなったら、草刈りに行こうぜ」 「……ジョルク、」 がアーモンド形の目を見開いて、じぃっとジョルクを覗きこんだ。呆気にとられたような、表情を削ぎ落した顔立ちは、どことなくアミルを思わせて、そういや遠い血縁なんだよなあと思い至った。の荒れた手がそっとジョルクの頬に伸びる。 「あんた泣きそう。どうしてそんな顔するの」 「お前はわかんなくていいよ」 「わっ」 見るな、とでも言うように抱き寄せた体は、すっぽりと腕の中に収まった。吸いこんだ汗と髪の匂いが肺に満ちる。 ふと、閉じた瞼の裏に、先程見かけた青い花の残影が蘇った。唐突に理解する、あの花があんなにもジョルクの意識を引いたのは、健気に空に向かって咲くあの立ち姿が、に良く似ていたからだ。枯れ草の中で、すっくと、花を咲かせていた。 なあ、どうやったら俺は、お前の美しさに追いつけるんだろうか。 上を向いて、空を仰いで |
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