くい、と袖を引かれて、カルルクはその歩みを止めた。振り返ると、痩せたロバを連れた子供が「あの、エイホンさんとこの、跡取りさんですよ、ね?」と彼を見上げて、緊張のせいか少し硬い声を出した。 そうだけど、とカルルクは少しかがんで、子供と目を合わせてやる。子供は短い腕を伸ばして、町の外を指さした。 「町の外、で、待ってる人がいます」 「……? 誰だろう、名前は?」 「聞いて、ないです…。馬に乗って、変な格好した人」 カルルクは首を傾げた。彼にはまだ、家を抜かした、個人の知り合いというものが少ない。せいぜい友人たちくらいだが、それならば子供に使いを頼むことも、町の外にいることもない。 心当たりはなかったが、とりあえず子供に礼を言い、カルルクは示された方向に歩いていく。郊外に向かうにつれ、町の営みの匂いは薄まって、草と荒野の香りが彼の髪を揺らしていった。空の色が柔らかい。上空の風の流れも緩いのか、雲がゆるやかに流れていく。 町はずれまで来ると、カルルクは辺りを見回した。広がる野草の逞しい緑色と、赤茶けた大地と、背の低い灌木。あ、とカルルクは、灌木の下に動く影を見つけた。声を聞きつけたか姿を認めたか、そいつは木蔭から出て、カルルクに軽く挨拶を送った。ここらで見慣れぬ胴着を着こみ、白布を頭に巻いた、若木のようなその男。カルルクは表情が強張るのを感じた。 「あなたは…!」 声が尖るのはやむを得ない。カルルクはもう一度、素早く周囲を見回した。風に揺らされる草と、灌木の向こうに繋がれているらしい馬の影以外に動くものはない。それでも、カルルクは警戒を緩めなかった。今、彼の目の前で、彼に向って歩み続けている男は、妻のアミルを奪い去ろうと押し寄せたハルガル一族の一員だ。全身の毛を逆立てるようなカルルクに、青年はまあ妥当な反応だよな、と諦め気味にぼやいた。カルルクから数歩離れたところで足を止める。 「久しぶり、アミルの旦那」 「何の用です」 カルルクの応対はけんもほろろだ。 青年は苦笑いすると、大丈夫、今日は俺一人、と手を広げて見せた。 「丁度こっちに来る用事があったから、ついでに話がしたくなったんだ」 「アミルのことでしたら、僕は返すつもりはありません」 「うん、その方がいいと俺も思う」 先手を打つカルルクに、青年はあっさり頷いた。少し前に取り戻しに来た相手の口から出た言葉とは思われず、カルルクは虚を突かれて肩を引いた。青年は気の抜けた隙間に潜り込むように、華やかな顔立ちを機嫌の良い猫のように変えて笑った。 「俺、ジョルク。アミルの――まあ、従弟だ」 「はあ。夫のカルルクです」 釣られて名乗ったカルルクが態勢を整える前に、「アミルは元気にしてるか?」「え、ああはい、元気ですよ」「そうか、良かった。相変わらずザクロ好きなのか?」「ええ、たまに採ってきます。この前も一緒に食べました」「仲良いじゃねえの。アミルの弓はもう見たか?」カルルクは完全にペースを乱され、気がつけば争いごとなどなかったような長閑な会話が繋がっている。あれ、この人本当にハルガルの人なんだろうかと、カルルクのハルガル家イメージが若干齟齬をきたし始める。ここにバルキルシュあたりがいたら、孫のお人好し具合に呆れているか、ジョルクをたらしと断じただろう。ついでに彼女も、ジョルクは本当にハルガル一族なんだろうかと疑ったに違いない。何せ、年嵩連中始め武骨な輩ばかりを見てきた中で、商人のごとくぺらぺら喋るジョルクは血縁の存在を疑わざるを得なかった。ついでに顔立ちの系統も違うのでこれはもう養子か何かかもしれない。実際のところ、ジョルクは間違いなくハルガルの産湯に浸かった男だが。付け加えれば一族曰く、何がどうしてこうなった。DNAの謎である。 ジョルクのペースに巻き込まれたカルルクは、いつの間にやら笑顔や身ぶりも交えつつ、妻との日常を語るまでになっていた。語ってみれば意外とエピソードには切れ目がない。そこはジョルクの聞き方が上手いせいもあるのだが、カルルクがアミルを見続けている証左でもあった。年上の妻の、意外に可愛らしい面だとか、しっかりしている面だとか、数え上げれば実はかなり立体的な像として、アミルはカルルクの中に像を結んでいた。だからこそ、話はいくらでも出てくるのだ。それは彼らが、日常を慈しんでいるということだった。 立ったままでは収まりが悪く、二人して座り込んだ灌木の木蔭で、ひとしきり話を終えたカルルクは自分ばかりが話していたことに気付く。しかしジョルクに水を向けたところで、ジョルクはむしろ、アミルの様子をこそ聞きたがっているようだった。 アミルをカルルクのもとに留めておいた方がいいと言ったくらいだし、この人は、僕たちの味方で、アミルの幸せを願っているのかもしれない。そう考えたカルルクは、「あなたは、他のハルガルの方とは違うみたいだ」と零してしまった。 「うん、そうかもしれねえな。でも俺はアミルの家族じゃないし、叔父貴に何か言うことはできないぜ」 「……アミルの父上は、何故彼女を連れ戻そうとするんです」 「他に娶わせたい相手がいるんだよ」 その決定に彼は納得していないらしく、吐き捨てるように答えを与えた。苦々しいものを噛むように口角が下がっている。しかしカルルクは、それ以上に、爆発するような苛立ちを覚えた。何だそれ。 「何だ、それ。そんなの…アミルは、もう僕の妻だ」 「ああ、その通りだ」 「アミルのお兄さん、こないだ一緒にいた人ですよね。あの人は、何も言わないんですか」 「親の決定、つーわけだ。アゼルの立場もあるだろうけど、ああ、クソッ! おい、カルルク、お前ぜってぇアミルを守れよ!」 ジョルクも同じ側であるはずなのに、彼は心底苦々しく思っているようで、苛々と手元の草をむしり、言い聞かせるようにカルルクに吠えた。あまりの勢いだったので、カルルクは思わず首肯する。責める対象を失ったことになるのだが、却って意外な思いに囚われていた。まさか妻を攫いに来た連中の一人から、こんな言葉を聞こうとは。 ぶちぶちと草をむしったジョルクは、ああそうだ、これを聞きに来たんだと独語した。この人本当にハルガルか、という思いは最早確信となっている。 ぎっとカルルクを見据えたジョルクは、年下に向けるとは思われない、まさに同格の人間に対して向ける真剣な眼で詰め寄った。 「カルルク、一つ教えてくれ。アミルは、実家と対立して、もうお前が頼りだろ。それでもあいつ、落ち込んだりしてないか?」 拍子抜けした。何を聞かれるのかと思ったら。 この人本当にアミルが大事なんだなあと思いながらカルルクは答える。 「ええ。あの、気になるなら会っていかれますか?」 「いや、それはいい。町に入ったら殺されそうだ」 「そんなことはないと」 思うけど、という言葉を飲みこんだ。殺す殺さないはともかくとして、あまり居心地のいい歓待はされないだろう。 ならあいつも大丈夫かなあ、とか難しい顔でぶつぶつ言っているジョルクに、カルルクは小さく頬を弛めた。 「ありがとうございます、ジョルクさん」 「は…、え?」 「アミルを心配してくださったのでしょう?」 「ああ……ああ、まあ、それもあるけど」 「……も?」 「…………笑うなよ、」 ジョルクがあまりに真剣な顔をするもので、というか妙にぶっきらぼうな顔をして無駄に威圧感を撒き散らすので、カルルクは思わず頷いた。威圧してるけどこの人なんか幼いな、と同時に思う。妻帯者の余裕というやつだ。 「嫁にしたい女がいるんだよ」 不機嫌を取り繕った表情で、青年は、既に結婚した少年に己の恋を告白した。でもまあ色々揉めそうだから、女にとってそういう揉め事が堪えないか知りたくてだな、などとむにゃむにゃむにゃ。 段々不明瞭になっていくジョルクに、ぱちくりと瞬きを繰り返したカルルクは、ああなるほどそういうことかあとようやく事情を飲みこんだ。つまりジョルクは、結婚にあたり揉め事が起こりそうなので、それが彼の妻となる娘を落ち込ませないか心配だったのだろう。それで、揉め事のあったアミルが落ち込んでいないか聞きに来た。(それにしても、ジョルクみたいな歳の人間がまだ結婚していないとは驚きだ。そして、どうやら恋愛結婚をしようとしていることに、カルルクはもっと驚いた) カルルクはくすぐったくなるような感覚を胸に覚えた。ジョルクは、まだ十二歳のカルルクを一人前の男と見込み、彼がアミルの夫として妻を守れていることを尊重して相談に来たのだ。穏やかながらカルルクにも自尊心はあり、それが満たされるのを感じた。 「ジョルクさん」 「あ?」 「ジョルクさんが好きな人も、アミルと同じように元気でいてくれるって保障することはできませんけど、」 「だよな…」 「でも、多分、ジョルクさんなら、その人を元気にすることもできるんじゃないでしょうか」 先を促すような視線を向けてくるジョルクに、カルルクは思わず小さな笑いを零してしまう。この人、本当にハルガルの人たちらしくない。アミルの血縁と言えば納得だが。同じことを指していても、その質は随分と異なるようだ。 カルルクは年上の後輩にエールを送った。 「ジョルクさん、頑張ってください。応援してます」 私は彼の苦悩を愛した |
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