藍色の空に、灰色をした雲が流れている。月は、真円を描くには月齢が一つ二つ足りず、半分だけ皮を剥いたアンズのように少し歪な形をしていた。夏草と夜のにおいが充満している。耳が痛くなるような、無性に誰かを抱きしめたくなるような切なさが、静寂の中に染み込んでいた。 ジョルクが操る馬は、なだらかな斜面をほとんど音もさせずに進んでいく。夜目の利く彼に、暗闇は言うほどの敵ではない。鼻に届く風に獣のにおいが混ざるようになると、ジョルクは馬を下りて、より慎重に足音を殺した。彼の目には、草原の一部に影絵のように浮き上がる羊の群れが映っている。時折、動きに合わせて遠慮がちなほど微かな鈴の音がする。夜間放牧に出た群れだ。あれらはジョルクの一族が所有する羊ではあるが、彼らには犬のように主人を判別することができない。臆病な生き物は、例えば馬の接近といった些細な刺激で混乱に陥ってしまう。牧夫は休息に充てるはずの夜を労働として過ごすのに、混乱した羊群を収めるなどという追加労働をさせるのは忍びなかった。ただでさえ、ジョルクが目指す群れを統率するのは、たかだか十三歳の小娘なのだ。それもつい最近まで、放牧など父の手伝い程度したことがなかったはずの。 狐よりも忍びやかに歩み寄ったジョルクに、それでも羊たちが草を食むのを止め顔を上げる。静かな侵入者を見つめる顔達は、月明かり程度でははっきりと見ることは叶わなかったが、警戒心は見てとれた。馬にハミを噛ませていて良かったと彼は思った。小さないななきでさえ、羊たちはちりぢりになるかもしれない。 「……誰だ!」 空気の変化を感じたのか、鏃のような誰何が飛んできた。羊の刺激にならないぎりぎりの声量。影になって、こちらの顔はわからないらしい。強張った声には緊張と警戒が滲み、弓弦の引かれる微かな音が彼女の恐怖を代弁しているようだった。怪我のため、自由を失った父に代わり、本来なら男の仕事である放牧までこなさなくてはならなくなった。まだ男仕事に慣れない彼女は、唇を引き結んで、平気と強がっているけれど、例えば夜間放牧のように天幕を遠く離れる時などは弓と刀を手放そうとしなかった。遊牧民の娘は、貞潔であれと育てられる。異性との接触さえ厳しく制限され、守られていた娘が、一転たった一人で、守り手の手の届かないところに出ていかざるを得なくなった。適齢期を目前に控えたは、一年前よりずっと少女めいていて、体格も明らかに変わってきている。羊を追っていく彼女の背中が、ひどく小さく見えた驚きを思い出した。いつも一緒に遊ぶ従兄たちと、は全く違う性別なのだと意識したのはあの時だったと考える。そのことに一抹の寂しさを覚えた。彼女と自分が違うものであることがひどく悲しくて、自分と同じ仕事をしようとする彼女がひどく憐れだった。 「怖がんなよ。俺だよ。ジョルクだよ」 「なんだ…脅かさないでよ」 が弓を下ろした気配を察して、ジョルクは彼女の傍に歩み寄る。黒い影が徐々に輪郭を現し、月光を弾く目の輝きを見つけてそれを見つめる。ジョルクは適当に馬を繋ぐと、の隣に腰を下ろした。彼が空間の一部となったことを感じ取った羊たちが、再び鼻面を地面に向ける。 「静かだな。眠くなっちまう」 「もう深夜だもの。ジョルク、あんたなんでこんなとこいるの」 「別に。夜間放牧って、興味あったし」 急にふてくされたような声で、ジョルクはの追及をかわした。 夜間放牧は通常、シュプンと呼ばれる雇われ牧夫によって行われる。彼らの大半は、自分の家畜群を持てない貧しい男だ。女がこの仕事をこなすことは滅多にない。遊牧民において、女の仕事は主に家事や家畜の出産などの世話、つまり天幕の周辺に発生する仕事である。夜間放牧は羊群を所有するジョルクの仕事でも、まして女のの仕事でもない。それなのに彼女がシュプナ(女シュプン)をしているのは、彼女が父の代わりとして働いているからに他ならない。そしてジョルクが天幕を抜け出してきたのは、がシュプナをしているからだった。 「こそ。何もシュプナまでしなくていいだろ」 「そうはいかないよ」 「何でだよ。フェルト作りとか、バター作りとか、そういうのすればいいのに」 「フェルト作りもバター作りもしてるよ」 「じゃあ十分じゃ」 「十分じゃないからシュプナをしてるの。ねえ、ジョルク、もういいでしょ。あんたがどう言おうと、これは私の家の問題よ」 ジョルクを突っぱねた声は硬かった。意地っ張りの声だった。こういう声を出す時、お前は大体辛いのを押し殺してるんだ、とジョルクは言いたかったがどうしようもなかった。にシュプナをさせている彼女の父を恨んだのと同じくらい、が男だったらよかったのにと思った。そしたら彼女は、毎晩弓なんか握り締めなくてよかったのに。 満腹したらしい羊が徐々に寄り集まって、微かな鈴の音と共に腹這いになる。眠り始めた、とが呟いた。ジョルクは、言葉にできないまま鼻をツンとさせた感情を持て余して、草原に体を投げ出す。 「ここで眠る気?」 「うるせえな、夜間放牧見に来たって言っただろ」 「だったら、どれか羊と紐で足を結んどきなさいよ。しばらくしたら移動しちゃうから」 ほら、とは自身の足を上げて見せた。フェルト地のブーツを履いた足に紐が括りつけてある。小せえ足、と思いながらジョルクは同じようにした。 改めて横たわると、暗く澄んだ藍色の静謐が嫌でも耳につく。夜ってこんなに静かだったんだ、と呟くと、何を今更とが答えた。隣に横になっているので、囁き声すらはっきり聞こえる。小さい頃からずっと一緒にいる相手だ、今更緊張などはしないはずだったが、規則的な呼吸の音がやけに胸をざわつかせた。手元を探ると、温かな皮膚に触れた。の手だ。一瞬強張った指の細さが、彼にいつかの寂しさを思い出させた。ジョルクはの手を覆う。は何も言わなかったけれど、彼女の手は拳に握り込まれたままだった。月が南中しようとしている。本当に静かな夜だった。切なさを一歩手前で覆い隠したような。 仰向けのまま、ジョルクはほとんど直感で、の悲しみに触れたと思った。二人はまだ背丈も声の高さもそれほど変わらず、けれど確実に変わり始めている。例えば体格であったり指の太さであったり。そして確実に変わってしまった、地位とでも言うべきもの。は他人の羊を連れて夜の草原を歩き、ジョルクは家族と共に天幕で眠るようになる。の手を、強く握り込んだ。そんな夜なんか、 「なあ、、起きてる?」 「………」 「俺さ、ちょっと決めたんだ。聞いてくれ」 「………」 「大人んなったら、俺たち結婚しようぜ」 手の中の拳が大きく震えた。は、結局一言も発しなかった。けれど、しばらくすると、虫や羊の鈴の音の合間に、啜り泣きを抑えつけたような、不器用なしゃくり声が混ざり始めて、ジョルクは恐る恐る、けれど惹きつけられるように体を横に向けた。握り込んでいた手を手掛かりに、今だけ大人になったような仕草での体を抱き寄せようと苦心する。所詮照れと戸惑いの混ざった力では大人みたいにはできなかったが、それでもはこちらを向いた。泣き顔を片手で覆ったままうつむいて、表情をうかがうことはできなかったが、ジョルクの肩口に頭を押しつけて泣いている。 ジョルクは、少女のようなの肩を抱き、どうして俺たちは一人の人間じゃなかったんだろうととりとめもないことを考えていた。 夜と羊 |
遊牧民知識はアフガニスタンのを参考 恋愛というより、双子のように育った友人と 道が別たれてしまった驚きと淋しさに対する反応かなと思う あと十三歳なら、男側はまだ結婚は現実感無いんじゃないかな 110520 J |