ツツツツ、と草原の風を弾くような音が聞こえて、は矢も盾もたまらず刺繍糸を放りだした。母親に叱られない程度に片付けて、もどかしく幕屋を飛び出す。鮮やかな草の匂いの中を走り抜け、音を辿って羊たちの柵の向こうへ。小さな灌木の木蔭に、若い馬が一頭繋がれている。あそこだ、とは木蔭の中に飛び込んだ。 「お父様!」 「げ」 「おや、。どうした?」 「ジョルクずるい! あんたいつの間に来たの!」 「いつだっていいだろ、邪魔するなよ!」 「私だってお父様のドンブラ聞きたいのに!」 が楽器を持った父にしがみついて威嚇すると、ジョルクが「お前はいつだって聞けるだろ!」と反対側にしがみつく。自分を挟んで睨み合いを始めた子供たちに、の父、トマクは苦笑いしてまあまあ、と二人の背に手を置いた。 「、ジョルク、落ちつきなさい」 「「でも!」」 「二人で聞けばいいだろう? さあ、二人とも静かにしておくれ。それか、そうだな、一緒に歌ってくれないか?」 トマクはそう言ってドンブラを構え、ツトン、と涼やかな音を響かせた。緩やかに、涼やかに響く音曲は二人にとって馴染みが深い。トマクは二人の知る限り最高の奏者で、彼の指はいくつもの曲を自在に奏でた。親族が集まると、楽器を持つのはいつもトマクだ。陽気な音楽を好むトマクにジョルクはいたく懐き、暇さえあればトマクのドンブラを聞きに来る。その度とトマクの争奪戦を繰り広げるのだが、トマクにはそれが子犬のじゃれあいに見えて仕方なかった。とどめに、二人の曲の好みはそっくりなのだ。今も、トマクの奏でる曲に合わせて、ジョルクとは幼い透き通った声を響かせ始める。双子のような息の合いよう。トマクはジャラン、と弦を掻く。 曲調が一転して若駒のように速度を上げる。まずジョルクが、ついでがうずうずと体を揺らし始めた。 「………く〜〜っ!」 ついに我慢できなくなったジョルクがさっと土を蹴り、弾けるように小さな体を躍動させる。堪え切れない楽しさを体全体で表現していて、その表情を、トマクはこの上ない冥利だと思った。ジョルクの爽やかな陽性は見ていて気持ちが良い。 ジョルクが幼いながら見事な足さばきを披露するのを、は食い入るように見つめている。小さな肩がゆらゆら揺れていて、娘も踊り出したい衝動を抑えかねていることがわかった。トマクはとん、と肘を当てた。が驚いたように父を見る。行っておいで、との意を込めて、トマクは娘に頷いてやった。は一瞬頬を興奮に染めて、それでもまだ少し迷っているように目を瞬く。 は早熟で生真面目だ。彼女はまだまだ、性別を感じさせないほどに幼いが、異性の前で踊りを踊るべきではないという習慣を飲みこみ、自身の衝動を抑えてそれを守ろうとしている。まだ本能で動いておかしくない年齢なのに、の中には既に理性が芽生え始めていた。 その理性を押し留める。 これは声をかけてあげようか、とトマクが口を開いた時、「!」とジョルクが笑顔と手を一緒に突き出して、そのまま強引に、彼の幼馴染の手を掴んで舞台に上げてしまった。 「わ、ちょ、ジョルク!」 「ほら、も踊れって!」 ジョルクはを煽るように足捌きを見せつけた。戸惑っていたは、ついに観念したのか、「見てなさい!」と勝気なセリフを吐いて独楽のように小さな体を旋回させる。男と女では踊り方が違い、男はタップダンスのように複雑なステップを踏んで踊り、女は連続した旋回を伴うベリーダンスを技とする。 掻き鳴らされるドンブラの音色に乗って、はくるくると回り続けた。スカートが、頭の白布が、風を切って主人に従う。初めて女の踊りを見たらしいジョルクは一瞬呆気にとられたようで、に「ジョルク、なにぼけてんの!」と叫ばれて我に返った。踊りながらけたけた笑うに、ジョルクは照れを押し殺した仏頂面で「うるせえ!」と反撃する。子供たちの未熟な手足が音楽に乗り、陽気に草の上を跳ねた。笑い合う子供たちの声が曲に彩りを添える。 トマクはふと、羊の囲いのそばからこちらを見ている妻の視線に気がついた。夫婦は目許で笑い合う。目の前で踊る子供らは、似合いの夫婦になるだろう、というのが二人の共通認識だった。あと数年すれば、も結婚を意識する歳になる。その時には、まずジョルクの親に話を持っていこうと思っている。 ツツツ、ツトン、と最後の音を弾いた指を離す。ジョルクとは申し合わせたように踊りを止め、目を輝かせて次の曲をとせがんだ。トマクが二つ返事で了承し、指を弦に当てると、子供たちは手を取り合って二人の舞台に戻っていく。笑顔ばかりが溢れる、ある春の日のことだった。 未来を踊る |
家が没落する前の話 双方十歳くらい 110515 J |