月の綺麗な夜にしようと決めている。

 家族が寝静まった後、は時折幕屋を抜け出していた。それは決まって月明かりの美しい夜。彼女は衣擦れにも気を配りながら衣服を身につけ、長持ちをそっと開けると、何かを取り出して外に出ていく。抜き足、差し足、忍び足。僅かばかりの羊の群れから、若い一頭が彼女を見つけて鳴くたびに、はびくりと足を竦ませる。主人の気配を察した馬が首を上げたのに、しぃ、と指を口に当て、はそのまま幕屋から離れていった。
 途中、彼女は一度振り返る。父か、母が、幕屋の入り口を巻きあげていやしないかと、その目は確かめているようだったが、そこには誰もおらず、家族は静かな眠りに就いていることを確信するや、の眦は情けなく下がった。まるで、誰かに止めて欲しいとでも言うように。
 しかしいつまでも突っ立ってはいられない。思いきるようには前を向き、持ち出してきたものを強く抱きしめて、また一歩、一歩、慎重に、覚悟を決めるように歩いて行った。南天にかかった月が、彼女の道を照らしている。
 草を踏む音も夜風に紛れるようになると、は適当な場所を見つけて座り込んだ。夜寒に対抗するために持ち出してきた肩かけで改めて体をくるみ、は胎児のように丸くなる。風が彼女の体を撫でていく。ざあ、と草を揺らす音がする。は、はあ、と、息を指先に吐きかけた。まだ冬は遠いので、指先は凍えてはいないけれども、力仕事で荒れた指先はいっそ情けないほど震えている。いつまでたっても、駄目だなあとは思った。これからする行為に、女々しくも指が抵抗している。

 (いい加減にしなさい、。お姉ちゃんでしょう)

 意を決して、は顔を上げた。月光の明るさに目がちかちかする。
 は挫けてしまいそうな己を叱咤して、持ち出してきた布を広げた。広がる、美しい模様。糸の色こそ分からないが、それは、見事な刺繍だった。菱形、オリーブ、バラ、ジャスミン、アカンサス、馬、鳥、ヤギ……絹地でも、金糸でもなかったが、何枚もの布に施された刺繍は、縫った者がどれだけ真剣だったのかを教えずにはいられなかった。
 一瞬は息を止める。ぐ、と力を込めて瞼を下ろす。押し殺した声が風に流されて消えていく。
 涙の衝動を乗り越えたは、鼻の頭にツンとした感覚を覚えながら、懐かしむように、名残を惜しむように刺繍を撫でた。思い出が押し寄せる。ああ、これを縫ったのは十の時。これは中々上手く縫えなくて、お母様に何度も教えて貰った。これは途中で糸が切れて、こっちの布は。
 止めよう。は、思い出を辿るのを止めた。何も考えないように自分に言い聞かせながら、玉留をした場所を探す。見つからなければ良い、そんなことを考えたが、自分で縫った布だ。願いも虚しく、簡単に起点も、終点も見つかった。
 月の光は、十分すぎるほど明るい。指の震えが止まらない。は小さく震えながら、裁縫用の鋏を持ち、刺繍糸を摘む。

 しゃきん。

 金属音はあっけないほど綺麗に響いて、彼女の少女時代を切り落とした。
 は強く目を閉じる。睫毛が、濡れているのがわかった。それでも滴が玉になるのは辛うじて押し留め、細く長い息を吐いたは、目の縁に月光の乱反射を覚えながら、終点を失った刺繍糸を摘まんで、力を入れずに引く。するり、するりと縫い目がほどけ、いつか素敵な結婚をして、幸せな家庭をと描いていた夢が消えていく。糸を完全に抜き終わると、ひどい脱力感を覚えた。ほぐれた糸を、は努めて事務的に巻きなおした。飾り気のなくなった布を丁寧に畳む。

 明日からは、妹がこの布に針を通す。
 本当は新しい布と、新しい糸を買ってあげたかった。けれど家の窮状では、そんな金、どこを絞ってもでてこない。
 だからは、自分の布をほどくことにしたのだった。少しずつ刺繍をほどき、妹に与えていく。妹はまだ十二だから、適齢期はこれからだ。は、もう、いい。
 多分、両親はの行為に気付いている。しかし何も言わない。言えないのだ。父が事故で馬に乗れなくなってから、の生計はに掛かっている。が嫁げば、家族は飢え死にするしかないし、婿を取ろうにも金は無く、なによりもうすぐは二十歳になってしまう。立派な嫁ぎ遅れだ。こんな女のところに婿に来てくれる酔狂はいない。
 だから、が布を貯め込んでいたところでどうしようもなかった。私には家族がいる。それで十分。女の幸せは、妹が掴んでくれたらいい。せめて、妹が。

 は次々に糸をほどいていき、月が少し角度を変えた頃、持ってきた分の、最後の一枚となった。広げる。縫いとられているのは、ナツメヤシ。

 『

 涙腺が決壊した。は初めて鋏を取り落とし、声を出して泣いた。涙が刺繍に染みていく。はナツメヤシを刺繍するのが好きだった。ずっと、ずっと、一番たくさん、ナツメヤシを縫ってきた。何故って、一番好きな相手に、この人の妻になりたいと思った相手に、ナツメヤシはよく似合ったから。相手もそれを、気に入っていたから。
 知っている。あんたに嫁げないことくらい、知っている。私は貧乏なで、あんたは裕福なハルガル。私はあんたに釣りあわない。あんたに嫁げないなら、誰の妻にもなりたくない。
 あんたはいずれ、私以外の娘を妻に迎えるだろう。金糸と、銀糸と、ビーズの似合う可愛い娘。綺麗な刺繍ができて、美味しい料理を作れる娘。あんたの隣で笑える娘。細くたおやかな指を持ち、硬いタコなんかない娘。
 月に、殺される少女を看取らせるような女じゃなくて。

 慟哭はしばらく続いていたが、草原の夜風に散らされて、月以外の誰の耳にも聞こえることは、なかった。




 さよなら、女の子
 ジョルク、あんたの妻に、なりたかった



 双方17歳くらいの頃をイメージ
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