アミルを連れ戻す、なんて最初から気が乗らなかった上に、散々痛めつけられて日干しにされて、その上馬の尾まで切られてしまったジョルクは酷く機嫌が悪かった。
 従姉の嫁いだ町から離れた丘陵地帯、叔父たちがぎゃあぎゃあ罵声を喚き散らしながら大きな水場を占領しているのを見ると、あの老害ども、と舌打ちしたい気持ちを抑えきれない。
 灌木の木蔭で、ジョルクはぶつぶつ言いながら上半身の服を脱ぐ。若者らしい、しなやかな筋肉がついた体のところどころに痣がある。叔父たちが使っているものより小さな水場に映った顔はひどく汚れていた。唇の端が切れて、血が凝り固まっている。無言で布を水に浸すアゼルやバイマトも、似たり寄ったりの格好だ。

 「おやっさんたちは糞尿もかぶせられてたな。いい気味だ」

 ジョルクも布を水に浸して、こびりついた血や、傷口に入り込んだ砂を拭っていく。男三人で囲むにはこの水場は小さいが、糞尿の溶けた水など使いたくもないので、却って良かったかもしれない。少なくとも、血の滲んだ布を洗った水は清潔だった。
 寡黙なアゼルが怒りを押しこめるように体を拭う。バイマトがジョルクの不平を咎めるように見てくるので、わかってると手を振った。ジョルクは、アゼルなら親父殿に何か意見が言えるのではないかと思っていたし、それは今も思っているが、少なくとも彼にまで不満の矛先を向けているわけではない。
 引き締まった顔立ちを持つ、年上の友人の唇が水不足で乾燥し、殴られたのか左目を囲うように痣がある。それをいい気味だと笑うなんて酷いこと、アゼルが妹のことを本気で取り戻そうとしていなかったことを知るジョルクは、するつもりなどなかった。

 「あーあー、おやっさんたち、早く諦めちまえばいいのに」

 こういうのを骨折り損って言うんだよな、とジョルクは天を仰ぐと、自身の帯をごそごそ探った。バイマトが一瞥を投げるのをよそに、ジョルクは小さな袋を取り出す。地味な色の布で、使われている糸も鮮やかなものではなかったが、丁寧なナツメヤシの刺繍がしてあった。普通、帯には刀を挟むくらいで、ものなど入れないのだが、活動的なジョルクは時たま小物を帯に挟んだ。今、彼が取り出して、太い指先で糸をなぞっている袋もそういったものの一つなのだろう。
 バイマトは興味を引かれた。袋の中身もそうだが、ジョルクはどういうわけか、刺繍で飾られた装身具をほとんど身につけようとしないので。

 「何だ、それは」
 「膏薬さ。打ち身に効くんだぜ」

 ジョルクは得意そうに袋をひっくり返し、掌に、バイマトの親指ほどの小箱を取り出した。箱は木で出来ていて、薬が染みてしまわないためだろう、脂か何かを磨り込んだらしくつやつやしている。蓋には男物に似つかわしくない、細かな花の彫刻がしてあった。
 ジョルクは玩具のような箱を開け、人差し指に膏薬を掬っては自身の打ち身にすり込んでいく。気まぐれに吹いた風が混ぜられた薬草の匂いを鼻先に届け、そのまま水の匂いに融け散った。

 「ほら、アゼルも使え。バイマトもな」

 ずいっと差し出された薬を、アゼルは思わずと言う風に受け取っている。ジョルクは、案外に押しの弱い友人に笑うと、一つ大きな伸びをした。灌木の影と太陽の光が、彼のしなやかな体にまだらの模様を描いている。腹減ったなあ、と彼はお決まりのように呟いた。焼き飯が食いたい。
 アゼルが薬を使うのを横目に、バイマトは薬袋を見せてくれないかとジョルクに頼んだ。ジョルクは軽く頷いて、バイマトの武骨な指に袋を渡す。

 「………ジョルク」
 「何だ?」
 「これを贈ったのは、か」

 アゼルが薬を塗り込む手を止めた。軽口を叩いていたジョルクは、バイマトを一瞬見遣ると、また空に目を戻してうんそう、と言った。ジョルクの視線の先で、風が雲を押し流し、灌木の葉が揺れている。
 ジョルクと彼の幼馴染を、アゼルもバイマトも知っている。男勝りの。ハルガルの遠縁の遠縁で、本来ならば共に遊牧を営むほどの繋がりは無い。彼女の父が事故で馬に乗れなくなって、窮乏していた一家を、亡き大父が引きいれた。一家の男手は、の父を除けば幼い弟のみだから、長姉のが男仕事の一切を請け負って働いている。家事は彼女の母親と、そろそろ適齢期になる妹の仕事。婚期を逃したは、それでも快活に笑っては、羊を追ったり馬を駆ったりしていた。
 そしてジョルクは、そんな一家に、頻繁に出入りしては仕事を手伝っている。
 ジョルクはと違って裕福で力のあるハルガル一族で、しかもまだ妻を迎えていない。
 万が一にも、将来アゼルたちと共にハルガルの中核となっていくだろうジョルクほどの男が、の娘を嫁にしてはならない。
 そんな思念が、彼らを取り巻かないはずがなかった。まして結婚を決めるのは、本人たちの意思ではないのだ。

 重く沈黙した友人に囲まれて、ジョルクは挑むように硬い声で、しかし普段の彼を崩すことなく、自然体で告げた。

 「箱は俺が作って、にやった。ビーズでも入れればいいのに、は、薬と袋を作って俺にくれたんだ」

 あんた色々手伝ってくれるし、無茶するから、って言って。
 感謝と気遣いがこもった贈物。ジョルクはバカだな、この箱お前にやったのに、と思いながら受け取った。すぐにもう少し大きな、新しい箱を作ったが、同じように使われてはたまらないので、杏を詰めて贈ってやった。これうちの杏じゃないの、と言われたけれど。

 「お前、わかってるのか」
 「何を」
 「親父殿たちは、お前たちを良く思っていないぞ。の縁談にも障りが出る」
 「知ってるさ」

 バイマトの低い声に、ジョルクは拗ねたように答えた。でも、どうしろって言うんだ。ジョルクは吐き出すように言う。、あいつ、もう諦めちまったように笑うんだ。羊を追って、牧草を刈り込んで、狩りをして、料理をして、でもあいつ、もう布支度してないんだよ。
 ジョルクはバイマトから、の袋を奪い返した。地味な色の糸で縫われたナツメヤシ。細かな刺繍。本当は、こんなに腕が良いくせに。

 「あんなバカで、お人好しで、はねっかえりの嫁ぎ遅れ、見捨てられるわけねぇだろ」
 「―――ジョルク」

 呻いたジョルクに向けて、アゼルが薬箱を投げて寄こした。
 慌てて受け取った年下の友人の表情は、常の幼さが戻ってきている。しかし、アゼルは、幼馴染を語る時に見せた男の表情を忘れなかった。ジョルクの中で、少しずつ力を蓄えてきているのだろうその男に、アゼルは話しかけることにする。

 「思っているだけなら、見捨てているのと同義だ」

 それは、自分にも跳ね返る言葉だ。その心中がなんであれ、アゼルは叔父たちに協力し、妹とその夫を引き裂こうとしたのだから。
 ジョルクの目が見開かれる。彼らが、彼らの決定権の及ばないところで苦しんでいることはわかっている。この言葉がただの叱咤になるのか、助言になるのか、何にもならないのかはわからない。そのどれになるのであれ、自分はそれを見てみたい、とアゼルは思った。それはただの自己憐憫かもしれなかったが。

 呆けたように黙り込んでいるジョルクを放って服を着ると、バイマトが視線で問うてくる。
 大丈夫か、という問いかけに、頷くことで応えた。
 汚れを洗い落としたらしい叔父たちのがなり声が若者たちを呼ぶ。アゼルは、ジョルクに早く支度をするよう言った。ジョルクはのろのろと頷く。

 アゼルだって同じじゃねえか、という反駁を覚悟していたが、ジョルクの唇は終ぞその言葉を紡がなかった。




 ナツメヤシの似合うひと
 ああ、でも、そろそろここを発たなくちゃ




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