風! 風よ、風よ、俺の臓腑を押し流していけ!

 新しい草の匂いを含んだ風が、耳元を走り抜けていく。
 馬の呼吸と筋肉の躍動を全身で受け止め、いなし、見晴らすような草原を駆けた。既に空は、薄色の高みから太陽を逃し、光は橙に染まって大地を染め上げている。草の靡く様が金糸の絨毯を思わせた。

 「ジョルク!」

 全力で馬を飛ばしていたジョルクの耳に、馬蹄の音を縫って高い声が飛び込んでくる。ジョルクは振り向かない、彼は追手の名前を知っている。従姉のアミルのように、馬術の名手であることも。
 そういえば、先頃嫁いだアミルと、は共通点が多いと思い到った。馬術が上手で、弓の名手で、刺繍の腕も中々のもの。はアミルより少し若いが、婚期を逃しかけているのは一緒だ。あ、でも料理はアミルの方が上手い。
 ジョルクはをよく知っている。何しろ幼馴染なのだ、の笑顔も、泣き顔も、怒った顔も知っている。怒ったとき、あれはすごくおっかなかった。激怒したには矢を構えられたことがある。そのあと何日間も無視された。耐えきれなくなったジョルクが意地も何も放り出して許してもらったが(何しろ喧嘩の原因は、全面的にジョルクだった)あの騒動のせいでからは縁談が遠のいたらしい。それでなくても、ハルガル一族のジョルクが始終付き纏っているせいで、他の男に近寄り難く思われているらしいのに。
 それを知ったジョルクはと彼女の親に土下座して謝った。けれども、責任を取ると言うのは笑顔のに封じられた。結婚は一族の問題でしょう。物分かりの良いが、自分の感情を飲み下す笑顔をジョルクはその時知った。知りたくなかった。大嫌いだ。一番虫酸が走るのは、を結婚から遠ざけて、喜んでいる自分自身だ。

 丘を駆けあがり、ジョルクはようやく手綱を引いた。愛馬が一声嘶いて足を止める。馬と、己の息の荒さが重なるようだ。じっとりと汗ばんだ体を鞍から浮かせると、丁度が追いついてきた。

 「ちょっと、どうしたのよ」

 嫁ぎ遅れた娘は原因となった男に、昔から変わらない調子で問いかけた。額に汗が浮いている。いくら馬術を得手としていても、男女で体力の差は歴然だ。
 疲労を振り払うように馬から下りたは、答えないジョルクを追及するように睨み上げた。ジョルクは無視して西を向く。茜色の夕陽が、その強烈な光でジョルクの頬を染め上げた。
 ジョルクの態度に追求を諦めたのか、は「すごい、絶景ね」と話題を変えた。丘といっても切り立った小さな崖のようになっていて、足元から斜面に生えた小松を揺らした風が吹き上げてくる。頭に巻いたの布がひらりと翻った。問い詰めてくれたらいいのに。

 多分、ジョルクより少し先に、は社会の決まりを知った。その苦さを臓腑に収めて、諦めることを知ったのだ。の頬の線が柔らかい。飲み下した苦味が彼女を大人の女に仕立て上げた。ジョルクは自分の手を見下ろした。骨が太く、弓を握り慣れた皮は厚い。それでもまだ、のように苦味を臓腑に保っておけない。
 自分たちがまだ、こうして隣に立っていられるのは、お互い相手が決まりを飲み下したことを知りながら、知らないふりをしているからだ。
 でもそんな曖昧な時間は、そう残されてはいないだろうと、これもお互いが知っている。

 「……なあ、
 「なに?」
 「あそこに兎がいるぞ」
 「えっ、どこ!」

 夕飯! と見事に食いついて、あらぬ方向を示した指先に釣られたの頭の白布を、ジョルクは逃さず鷲掴みにした。ぎゃっと叫んではジョルクの意図を知る。ジョルクはの髪を乱すのが好きだ。

 「やーめーてー! もうすぐ陽が暮れるっ、結びにくいっ!」
 「うるせえ、俺が結んでやるからいいだろちょっとくらい!」

 乱暴かつ慣れた手さばきで布を奪い取り、きつく三つ編みにしていた髪をほどく。双方もがいているというのに、ジョルクの指は器用だった。留め具をなくした黒髪が、丘からの風を孕んで旗のように広がる。夕陽を横に受けて、なびく髪はきらきらと絹糸のようにうねった。
 数年前、ふとしたことでの髪を見てから、ジョルクは頻繁にその美しさを見たくてたまらなくなる。家族でもないのにほどいた髪を見せるのは慣習に反するため、人目のあるところではできない。はジョルクのしたいようにさせているが、本当は重大なマナー違反だった。そして、この違反を誰かに見られれば、ジョルクだけでなくも世間の冷たい目にさらされることになる。

 「全く……なんで、こんなだらしないかっこ見たがるかな」
 「俺が、」

 (俺が知ってる一番きれいな光景だから)

 咄嗟に口をつぐんだジョルクは、持ち前の良く回る舌を適当に動かして別の言葉を返した。

 「俺が見てて面白いから」
 「何それ」

 すごい迷惑! とは風に散らされる髪に手櫛を通した。その仕草がひどく女らしく思えて、ジョルクはたまらず、幼馴染を抱き寄せた。昔から知っていたはずの彼女は柔らかくて骨が細くていい匂いがして、まるで知らない人のようだった。





 夕陽が止まるのを待っている



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