いやだ、とは眉をしかめた。兵藤は、どこか他所を見る振りをして猪口に注いだ酒を啜りながら、彼女の頬が炎の色に照らされるのを見ている。
 の部屋に揃う調度品は、貢ぐ旦那どもの趣味が良いのか、選ぶの趣味が良いのか、ともかく他の遊女の部屋より格段に美しいものが多かった。といっても、は古株のくせに太夫なんかではないために、装飾自体は少なくて、実は案外安物なんだよとは以前言っていた。それで趣味が良いと思えるのだから、金額と美は比例しないものなのだろう。
 行燈の漉き紙の向こうで火が揺れる。畳に柔らかく落ちた格子の影を、の着物が遮った。

 「何のつもりでありんすか、少尉さん」
 「どういうつもりだと思った?」
 「嫌なひと」

 細く紅を差した眦をきりりと上げて、が兵藤の前に身を乗り出す。裏返された半襟は赤く、彼女の白い喉に良く映えた。そういや、悪場所に売られる前から北嶺の子だって言ってたっけ。
 触れようと手を伸ばすと、の細い指が兵藤のそれをぱしりと捕える。銃を振り回すことに慣れた指は骨さえ太く、のそれと比べれば大人と子供のようで笑えてしまった。むくりと体を起こした兵藤は、彼を尖兵隊長にまで押し上げた本能が埋み火のように姿を現しつつあったが、それよりもの気の強そうな顔を前にいたずら心が膨らんだ。

 「下っ端将校の薄給で買った安物櫛だ。そこの行燈よかよっぽど安い」
 「これをあちきに呉れるのかえ?」
 「ああ、そうだ。あれっぽっちの花代じゃ、あんたの価値に見合わねえもんなあ」

 兵藤はの馴染みである。は特別美人というわけではないが、それなりに手練手管を尽くしてくれるし、何より気風がそこらの遊女とは比べ物にならなくて、褥での楽しみ以上の豊かな時間を供してくれた。血の気の多い兵藤だが、何回かに一度は、の肌を味あわずに朝を迎えることもある。同輩に知れたらからかわれること必須なので、誰にも言うつもりはないのだけれど、そういう夜の過ごし方もいいものだと思えた女は、後にも先にも一人だ。
 は探るように兵藤を見上げていたが、やがて出し抜けに「うれしい」と童女のように微笑んだ。兵藤は焦る。

 「大事に、大事にいたします」
 「あ、あぁ…」
 「ええ、主様に何の他意もなかろうと、たかが遊女のあちきに櫛を下さった。あちきには、それで十分でありんす」
 「おいっ! ……、遊んでやがんな」
 「あんたが先に遊んだんだろ」

 は口調を一変させた。兵藤は気まずく舌打ちをする。

 「いつから気付いてやがった」
 「最初から。まさか少尉さんみたいなひとが、遊女に櫛なんか贈るはずがないでしょう」

 櫛は苦と死に通じる。それを贈るということは、苦しみと死を共にするということで、早い話が求婚だ。遊女の客、しかも兵藤という男を鑑みるに、これほど怪しいものはない。
 の価値を持ちあげるような、櫛の意を覆い隠す偽の照れ隠しを看破した上、それを逆手にとって遊んで見せた。思いがけない同調に焦った兵藤の負けである。
 ぶすくれた兵藤はそっぽを向いた。それを笑って、は髷から櫛を引き抜く。「少尉さん、」手酌をしようと徳利に手を伸ばした袖を引き、武骨なその手に玩具のような櫛を乗せた。

 「少尉さん。少尉さんが飾っておくれな」
 「なんだ、いらねぇんじゃなかったのか?」
 「誰がそんなことを言いました」
 「安物だからな」
 「それがどうしたって言うんです。着飾りたいのは女の性さ」
 「そこは、惚れた男に貰ったから、とでも言ってみろ」
 「おや、遊女が惚れるとお思いかい?」
 「おうとも。こんな良い男、滅多にいやしねぇ」
 「自信家だねぇ」
 「所帯を持つのは勘弁だがな」

 ぽんぽん軽口を交わしながら、兵藤はの髷に、己の贈った櫛を挿してやる。しゃらしゃらと髷を彩る、煌びやかなかんざしたちの間に置いて、地味な櫛は不似合い極まりなかったが、は機嫌よくにこりと笑った。

 「似合わねぇな」
 「そりゃあ残念」
 「それやっぱ取れ。ついでにかんざしも取っちまえ」
 「あれ、嫌だ」

 徳利そっちのけで伸ばした兵藤の手を、はけたけた笑いながらかわしてしまう。大事そうに櫛に触れた細い指に、兵藤は立ち上がりながら野次を入れた。

 「小娘みてぇな仕草してんじゃねえ」
 「酷いことを。遊女とて、嬉しいものは嬉しいさ」

 くすくすと逃げ回る細い肩に、兵藤が煽られないわけがない。行燈を倒さないように追いかけて、すぐにその柳腰を抱き寄せる。白粉の塗られた首を吸うと、がくすぐったそうに身をよじった。
 そのままもろとも座り込み、うなじを堪能したところで褥に押し倒す。ばら、と髪が乱れたのを幸いと、兵藤はかんざしを引き抜いた。

 「少尉さん。櫛は、抜かないで」
 「あんだよ。お前にゃ、こんな地味な櫛、似合いやしねぇよ」
 「いい。櫛は、抜かないでおくれね」

 妙に強情なに小首を傾げたが、とりあえず了解して、兵藤は柔らかい唇に己のそれを押し当てる。の指が、兵藤の耳の後ろに這ってきた。
 女の匂いで鼻腔を満たして、唇を離した兵藤は、そこに少女のように笑うを、見た。




 惚れて悪けりゃ見せずにおくれ ぬしのやさしい心意気
 (嬉しかったよ。何の意味が無くとも、お前が呉れたんだから)



 両想いなのに伝え合わない関係が好き
 あと意地っ張りはおいしいですよね!
 110301 J