、と、彼女の名を唇の間に落とした彼は、それから一度、緊張にぎゅっと瞼を閉じたを見つめ、頬に触れる掌の質を変えた。思わず目を開いたは、穏やかに和んだ目許に気付き、あ、と思ったけれど、知らないうちに濡れた睫毛の先から転がり落ちた滴を拭った固い指先は、隙一つないいつもの手つきだった。 「バ、バイマトさん…」 「もう寝ろ。おれも寝る」 あうあうと言葉を探しているを、笑いを含んだ目でいなし、バイマトは布団を引き上げた。灯は既に消してある。目を閉じると、敏感になった聴覚が、恐る恐るといった様子で布団にもぐりこむ音を捉えた。じいっと視線を注がれているのが、わかる。頬に感じる物言いたげな視線に笑いがこみあげてきて、バイマトはくすぐったいそれを噛み殺しつつ寝返りを打つ。の方に。ついでに引き寄せてやれば、焦りを多分に含んだ悲鳴が小さく上がった。強張った小さな背中が可愛らしい。 「何もしない。寝ろ」 夜目も利かない暗闇で、バイマトの表情は伺うことができないし、元々無表情な男だから明るかったとて大した変化が見られるとも思えないが、バイマト自身はもう頬が緩んで仕方ないという気がしている。そろそろとバイマトに体温を預けてくる娘の、なんと可愛らしいことか! この人を守り抜きたいという決意が心地よく指先まで広がっていく。それと同時に、この小さな信頼を逆手に、どこまでも貪ってしまいたいと囁くものが片隅にいることを自覚した。バイマトはその囁きを、いつかが成長するまでと一蹴する。そいつはしつこくて、こんなやせっぽっちでももう子供じゃないんだとか、夫婦なのだから誰に咎められることもないとか、バイマトを翻意させようとするのだけれど、今のところバイマトの全勝だ。の、花に似たにおいが鼻腔に広がっている。大人と呼ぶには可哀相なほど未発達な背中。この子を傷つけるようなことはしたくない。 ほどなくして上がる健やかな寝息は、バイマトの理性のたまものであり、彼の、まだ愛になる前の優しさでもあった。眠りに落ちたバイマトを、は複雑な顔で見上げる。 (バイマトさん、ごめんなさい) 自分の幼さのせいで、夫に我慢させていることを、は十分に知っている。 十四とはいえ既に妻だ。まだ女としては未発達で、安定もしていないだが、一応は子供を作れる体であるしとうに初夜も終えている。初夜といっても緊張でがちがちになっていたは、何が何やらわからないまま早々に失神し、翌日からは口付けだけの夜が続いているので(といっても、口付けすらしない夜もある)未だに何が何だったのかにはさっぱりだ。嫁ぐ前に一応そういう営みについては教えられてきたのだが、知識は知識のまま風化しかかっている。ただ、時折自分に触れる掌が、思わず身を竦ませるような熱っぽさを孕み、やがてそれが鎮められていくことには気付き、鎮火した掌が彼女に罪悪感と淋しさを抱かせた。嫁は子供を生んで初めて家族になれる。この家にとってはまだ他人だ。バイマトにとっても。夫ではなく父のような掌が、頭を撫でるたびにそう思って、は少し悲しくなった。 バイマトの寝息が額にかかる。は彼の胸に頬を擦り寄せて目を閉じた。ころり、涙が一滴転がる。冷えた肌の感触にふと記憶が刺激され、嫁ぐ日、お守りに、と、古い守り袋を持たせてくれた母を思い出した。 『お母様のお母様が持っていらしたお守りよ。真珠というのですって』 母方の祖母の実家は交易を手掛けていたらしく、そこで流れてきた東の宝石だそうだ。守り袋の中の石は、年月の長さを語るように黄ばみ、輝きを失っていたが、掌の熱を吸い取るような不思議な感触がした。母は、年若で嫁いでしまう娘に渡すの、と説明した。真珠は、海という大きな湖の底でゆっくりと時間をかけて育まれる。おばあ様もお母様も年若で嫁いだけれど、この真珠がやがて丈夫な子供を授けてくれる。時間は少しかかるけど、心配しないで。 『、真珠を孕みなさい』 周囲と比べても随分若い母は、そう言ってを見送った。彼女も、幼いとすら言える年で嫁いできて、第一子に恵まれるまで時間がかかったという。年齢的に仕方の無いこととはいえ、同じ不安を抱えるだろう娘を、母は心配したのだろう。嫁ぐ先で不安に泣いてしまわぬよう、罪悪感に潰れてしまわぬよう、母は娘に真珠を贈った。ゆっくりでいい、美しく柔らかな愛を築けと。その時この胎に真珠が宿る。 は胎児のように手足を折り曲げ、バイマトの作る空間に収まった。じ、とその寝顔を見上げる。口が少し開いていて、起きている時より少し穏やかな人相だ。私の夫。眠ってしまったこの人の家族になりたい。ゆっくりなんて待てない。 「バイマトさん」 囁く。バイマトは深く眠っているのか、呼吸に乱れはない。 は一心に彼を見上げ、細く小さい、しかしはっきりした声で言った。 「バイマトさん、バイマトさん、待ってて下さい。私すぐ追いつきますから。すぐですから」 だからちょっと待ってて、と、は伸びあがってバイマトの顎の辺りに口付けし、もぞもぞと居心地の良い体勢を探して丸くなった。月よ、太陽よ、疾く過ぎゆけ。私はあなたと、真珠になりたい。 真珠の娘 |
意識が結構違うんじゃないかと思って… 110914 J |