熟れた果実のように染まりながら、地平の果てに沈んでいく夕陽を横目に、バイマトは羊が散り散りにならないうちに鐙に足をかけて馬上の人となった。
 太い声が羊の鳴き声に混ざり、不思議な音響となって風にさらわれていく。頭上には、気の早い一番星が太陽に遠慮してか微かな光を放っている。
 朱色の草原の中に、その一番星のようにぽつりと見えていた幕屋が徐々に大きくなってくる。夕暮れの空に一筋立ち上っているのは炊事の煙か。
 幕屋の布の影がわかるほどになった頃、べええ、メエエという馴染んだ声の帰還に気付いたのか、ぽっかりと開いた入り口から小さな人影が顔を出した。まだ見慣れたと言うほどではないその人は、小柄な体を引き延ばすようにして、羊の向こうのバイマトに手を振る。

 「おかーえりーなさーい!」

 千里に届けとでも言わんばかりの大声で、何が嬉しいのか小作りな顔を満面の喜色に染めている。もう互いの表情が視認できるほどになっている。バイマトは、こくりと小さく頷いた。表情筋が死んだように無表情だが、それを見た相手は十分だとでも言うように満足そうな顔をした。幕屋の近くを通りかかったジョルクが呆れ顔をしている。小さな人に見えないように、左手を上げて指を差しているのはどういう意味だ。バイマトはやたら必死なジョルクを冷ややかな目で見ていたが、彼があまりに必死なものだから、とりあえず同じように手を上げてみた。とたん、小さな人がきゃあっと歓声を上げる。何がどうした。

 「バイマトさん…バイマトさんが…!」

 呟きが聞こえる距離に辿り着いたバイマトは、冷静に羊を囲いに入れてから立ち尽くす小さな人を振り向いた。彼女の向こうで、ジョルクがにやにやと成り行きを見守っている。
 小さな人は歓喜に震えながら言った。

 「バイマトさんが…初めて挨拶を返してくれた…!」
 「……ああ、」

 そういえば、手を振り返したように見えたかもしれない。
 バイマトとしては頷くだけで挨拶を返した気になっていたのだが、彼女からは、その動作は小さくて見えなかったのかもしれなかった。これはジョルクのおかげというべきか。いまいち感謝を載せきれない目をジョルクに向けると、奴は使命を果たしたとでも言わんばかりに拳を突き出して立ち去った。夫婦のやりとりに水を差す気は無いという意思が、彼の後ろ姿から読み取れる。なんだかんだでいい奴だ。

 「今帰った、
 「はい! おかえりなさい!」

 数日前に貰ったばかりの新妻は、大柄なバイマトからすれば子供としか思えない小作りな人で、一生懸命首を上向けて夫を迎えた。金色の耳飾りが夕陽を反射してちりりと輝く。
 はバイマトの胸までしかない体を嬉しそうに弾ませて、無口なバイマトに陽気な声をかけた。

 「丁度ご飯できてますよ! 馬乳酒が良い具合にできてるので、いっぱい飲んでくださいね」
 「お前は」
 「いいんですか?」

 きょとん、とバイマトを見上げた顔が共に酒を飲むにはあまりに幼く見えて、バイマトは薄く笑った。は、既に一人前の女として扱われていはするが、まだ十四にやっと手が届いたところだ。結婚が決まる直前にようやく少女から娘になったというし、仕草のところどころに幼さが残っているのは仕方ないのかもしれない。そう思って、バイマトは首に負担をかけていそうなのために少しかがんで視線を合わせた。

 「土産だ」

 バイマトは、帰る途中で摘んだ花を、の髪に差してやった。名前も知らない野草だが、小さな花はの分身のように良く似合った。武骨な指が離れたのを追って、の指が己の右耳の辺りを触る。花の感触に気付いたは、わああっと目を輝かせた。頬を染めるような女らしさはまだない。バイマトはむしろ、そんなの天真爛漫さを慈しみたいと思っている。愛は、いずれ芽生えるだろう。

 「嬉しい。ありがとうございます、バイマトさん!」
 「ああ」
 「私、この花刺繍にしますね! そうだ、新しい風呂敷、この花の刺繍にします」
 「そうか」
 「そしたらパンを包んでお弁当にしますね。あ、そうだ、イリムシク(乾燥チーズ)も入れますから」

 をまとわりつかせながら、バイマトは幕屋の入り口をくぐる。絨毯が敷かれた幕屋には既に皿が並べられており、バイマトの母が料理を盛っていた。が子犬のように手伝いに行く。少し皺を刻み始めた母は、嫁の髪に飾られた花を見つけてからかうような目をバイマトに向けた。

 「バイマトさん」

 所定位置に腰を下ろしたバイマトに、が料理を運んできた。まだまだ幼く、給仕するのもどこかぎこちないだが、ひたむきな笑顔を見て、自分はこの人を幸せにしよう、という決意を固めるバイマトだった。




 パピィラブ!



幼妻を構うバイマトは可愛いと思う
 110304 J