地表にのさばる空気ときたら、質量を持っているんじゃないかというほどねっとりぐったり暑苦しい。
 地球温暖化対策で、エアコンの温度を上げる代わりにヘチマを窓に這わせたら、葉の作る影と気孔からの蒸散のおかげで前より涼しくなった市役所もあるらしいが、そんなの絶対嘘だと思う。発散される水分は太陽光で湯沸かし済みに違いない。でなければ緑溢れる畑の真ん中でこの暑さと陽炎の説明がつくものか。
 ちなみに蒸散という単語は、生物の期末が終わった後に覚えた。空欄を埋められなくて西村と共に天を仰いだのはあまり思い出したくないひと夏のメモリーだ。
 わたしは青臭い空気の底で伸びをした。あまりの暑さに頭がくらくらする。あ、やばいこれ熱中症? 麦わら帽子の中で生まれた汗が、髪を肌に張り付かせながら頬を伝い落ちていく。やばいやばい気持ち悪い。足元が震え、乙女にあるまじきことながら白目を剥きかけたわたしの鼓膜を、夏休みに入ってあまり遭遇しなくなった友人の声が叩いた。

 「!?」
 「ぁおーう」

 我ながら、犬の遠吠えみたいな返答だ。しかも小さい頃対決した近所の犬。散歩の主導権争いで、敗北した奴は以来わたしに従順になった。もう大分年を取ったので、最近では在りし日の暴れん坊ぶりが嘘のように大人しい。
 夏も終盤だというのに青白い肌をした田沼は(夏目といい彼といい、メラニン色素を持っていないのだろうか)自転車を止めるのもそこそこに、畑の真ん中で雑草の死体に囲まれているわたし目指して駆け寄ってきた。

 「久しぶりーぃ。あーあ、自転車倒れたぞー」
 「お前も倒れてるのに何を言ってるんだ!」

 言いながら田沼は、わたしを引っ張り起こして柿の木蔭へ連れていった。まだまだ小さい実を守るように生い茂る柿の葉は、ものの見事に太陽光を遮って、地面に濃い円形の影を作りだしている。なるほど影の中は、日向に比べて確実に3度は涼しかった。市役所が節電に走るのも頷ける。
 わたしが柿の幹に懐いている間に、田沼は彼の自転車を畦道から救出していた。少しばかり土のついたビニール袋をハンドルにひっかけて戻ってくる。
 田沼はわたしを見て、何故か盛大に眉をしかめた。失敬な奴だ。自転車を止め、そのまま右隣りに座れば早いのに左隣りに移動する。

 「どったのよ」
 「いや……それより、これ飲むだろう」
 「何?―――ラムネ! 欲しい欲しい。ありがとう!」

 ビニール袋から取り出されたるは、美味しそうに汗をかいたラムネ。わたしにとっては命の水か神水だ。
 信じがたいことに田沼は親指一本で口を塞ぐビー玉を落とした。すぐに渡されたラムネは、しゅわしゅわと音を立てて溢れようとするので、わたしは慌ててそれを啜る。隣で、田沼はやはり親指一本で自分のラムネを開けていた。信じられん。わたしはラムネを開けるために両の親指を使う。
 男の子なんだなあ手もごつごつしてるもんなあ、そういや夏目のパーツも繊細に見えて意外と骨ばっていたっけ、と思いだしていてふと気付いた。

 「のうのう田沼さんや。このラムネ、わたしに飲ませてもよかったのかい」

 ひとつの袋にラムネが二本、ということは、一本は彼が飲むにしてももう一本は誰かにあげるはずのものだったのでは。
 見知らぬ誰かさんすいません、ごちそうさまです、と手を合わせていると、田沼は「ああ、いいんだ」と軽く流した。

 「持って行っても、会えなかったかもしれない」
 「……あんた、いつの間にジュリエットなんかこさえたの」

 田沼の横顔があまりに恋する乙メンだったものだから、わたしは度肝を抜かれて彼の横顔を見る。彼に近しい女子って誰かいたっけ、多軌? 女子に限らないなら夏目が真っ先にあがるんだが。夏目と田沼を想像しかけてそれ以上の脳の活動を差しとめる。絵になるもんだから性質が悪い。

 「ち、違う違う! 夏目のところに遊びに行く手土産にと」

 まさかのビンゴ!?
 色んな意味で打ちひしがれ、わたしは危うくラムネを取り落としそうになった。動揺が顔にでないように(といっても既に無駄だったかもしれない)わたしは奈良の大仏を思い浮かべ、彼の微笑みを真似てみる。ぽん、と田沼の肩を叩いた手は若干震えていたけども。

 「まあ、あれだ。人間は所詮二種類しかいないんだし、その中であんたが選んだ結果ならそれでいいんじゃないかな」
 「俺は今、激しい誤解を受けていると思うんだが、こんなとき俺はどうしたらいいんだ」
 「笑えばいいと思うよ」
 「そうか、じゃあ―――笑っていられるものか!」

 おお、なんか意外とノリがいい。夏目はいつもワタワタしているから、彼は彼でからかい甲斐があるのだが、田沼も中々良い味を出している。
 ふと田沼は表情を改め、「お前こそ、」と問いかける。

 「こそ、夏目をどう思っているんだ?」
 「このわたしに甘酸っぱいあれこれどれそれを期待しているのかねそれは」
 「いや、お前の場合どっちかっていうと炭酸水……じゃなくて」

 チッ、逸らせなかったか。これが夏目だったら自分で軌道修正する前に煙に撒けたものを。
 田沼は瓶に残ったラムネを一息に煽り、高校生が友人の恋愛問題にちょっかいを出すときとは比べ物にならない真摯な瞳でわたしを見た。なんだお前、プロポーズでもする気か。

 「お前、夏目と話しているとき、よく話の方向を誘導しているだろ。まるで―――」


 (逃げ道を示すように)


 わたしは田沼の脇腹を抓りあげてやった。上手い具合に、彼は腰が敏感だったらしく声にならない悲鳴をあげる。うーんこう言うとなんか卑猥だ。
 続く言葉を失った田沼の抗議の視線を受け流してラムネを煽る。飲み物を煽るときは背筋を伸ばして左手を腰に。一気に飲み干したあと快哉をあげると、田沼が「親父くせぇ…」と失礼極まりない感想を述べた。意味ありげに右手を動かすと慌てた動きで距離を取る。

 「わたしたちをよく見てるねえ、田沼。そんな熱視線送られたら焦げちゃうわ」
 「やっぱり……じゃあ、、お前ひょっとして」
 「ああ、でも、焦げる前に溶けそう」

 わたしは草むしりの汁と土で汚れた手で風を送る。いくら扇いだって、青臭いばかりでちっとも涼しくない。気まぐれに吹く風の方がよっぽど涼しい。容赦なく照りつける日差しは白く、わたしたちが陣取る影の向こうから色を奪っていた。日向と影の境目が線で引いたようにはっきりしている。
 足に力を入れて立ちあがり、わたしは田沼を見下ろした。

 「もう草むしりは諦めて帰るわ。エアコンが恋しい。ラムネごちそうさま、生き返った」
 「待て、! お前、お前は―――」

 涼しげな見た目に反して熱くなっている田沼の肩に手を置いて、立ちあがろうとするのを制する。
 まるでキスするように、彼の見開いた目の中に映る自分が見える距離で口を開く。黒い瞳孔の中のわたしは、実に悪役っぽい表情だった。

 「わたしはね、冗談が好きなだけなのよ。笑って生きられたら素敵じゃない?」

 これ以上はガールズトーク。恋バナがしたけりゃ、笑顔を覚えて出直しておいで。
 射るような視線を向けられちゃ、まるで自分が泥棒猫になったような気分になるのだ。女の友情なんぞ結べやしない。
 わたしは田沼に手を振って、片蔭の中から抜け出した。空のラムネ瓶の中で、ビー玉がちりちりと鳴る。

 「ああそうだ、田沼」

 わたしはふと立ち止まり、柿の木の下の田沼に問いかけた。

 「田沼は、ニャンコ先生を見たことある? わたし、本当に見たことないのよ。こればかりは残念だわ」

 せめて写真か絵でもあればいいのに。夏目に描いてもらえれば手っ取り早いのだが、彼の画才の如何は承知しているので諦めるしかない。
 新学期になったら多軌に描いてもらおうかなと考えながら、わたしは畦道を辿る。油蝉の合唱に紛れて、ひぐらしのノスタルジックな声が夏の終わりを告げていた。





 片蔭



 片蔭:強い日差しによってできる濃い影のこと
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