急げ急げ急げ! 現在、午後4時37分。今日のバイトのシフトは午後5時イン。着替えの時間も見積もって、50分には店に着きたい計算だ。 まだ春の花の匂いを残した、梅雨を迎える直前の涼しい風がセーラーカラーをばたばた煽る。6月に入れば衣替えだが、正直もうちょっと長袖でいさせてくれてもいいんじゃないか。夕方ともなれば気温も下がるし、雨が続けば尚更だろう。そういえば今年の夏は冷夏の可能性がと昨日のお天気お姉さんが言っていた。おじいとおばあの畑がえらいことになるから、太陽にはぜひとも頑張ってほしい。 ふと、原付を疾走させる道の先に、よく見知った背中を見つけた。ひょろっとしてるが意外と広い。厚さはほとんどないらしい。こないだ西村が家庭科の時間に裁縫用メジャーで測って、実に羨ましいウエスト数字を大声でアナウンスした。夏目はあれでクラスの女子の8割の恨みを買った。ので、わたしも遠慮なく奴の脇腹をつねってやった。つねる肉もほとんどなかった羨ましい! 「夏目ぇー!」 「え、わ、!?」 怒りがむらむらと沸いてきた。道端の何に気を取られたのかしゃがみかけた夏目はぎょっとして振り返り、わたしに轢かれないよう身をのけぞらせた。 「これでも食らえー」 一瞬片手を離し、ポケットに入っていたラーメン屋の餃子サービス券を投げつけてやる。風圧に負けてへろへろと地面に落ちたがご愛嬌だ。 わたしはそのまま原付のアクセルを捻り、残り時間と戦いながら彼を追い抜かした。サイドミラーに首を傾げながらサービス券を拾う夏目が映っている。 さあ、今日のシフトは10時までっ! 良い具合に疲労の溜まった体が火照る。行きは寒く感じた夜風が気持ちいい。 わたしはのんびり原付を走らせながら、家々の光がまばらに灯る風景を眺めた。 この街は大きくもなく小さくもなく、自然が多くて気持ちいい。若干多すぎて蛇やら狸やらも見かけたりはするのだが、その辺はうまく避けるか追い返すかすればいい。捕まえたらそれはそれでおばあがマムシ酒にしてくれる。もっともわたしは下戸なので、酒はおじいの晩酌になるのがせいぜいだ。あとは裏の神社にお供えか。わたしたちは、庭の隅に建つ神社には、酒だろうが食べ物だろうがお菓子だろうが、とりあえずなんでも供えまくっている。実にグルメな神様になってるかもしれない。 「―――、―――」 「ん?」 なんか、声が聞こえた。とりあえず原付を止めてみる。辺りは片方田んぼで片方斜面。ほどほどに木は茂っているし、コート(のみ)を羽織ったおっさんが佇んでいそうな電柱もあるにはあるが、いかんせん人気はほとんどないため見せる相手もいなかろう。いやそういうところに立っているものだっけ。まあ見せるだけなら笑いのネタにしてやるが。 「―――か、……けてくだ……」 「ん、んんん?」 声は斜面の下の方から聞こえてくる。とりあえずバッグから痴漢撃退スプレーを取りだして原付を引っ張っていく。このスプレーは、バイトをするようになってからおじいが買ってくれたものだ。なんでも婦女子は貞淑にして大和撫子すなわち文武両道才色兼備人生楽ありゃ苦もあるさを目指すべし、よっていざとなったら実力行使で不届きな下衆野郎の目を狙ってこのスプレーを掲げるべし、というわけらしい。このスプレーが目に入らぬか! と照射練習までしてくれた。おじいは最初スタンガンを考えていたそうだが、普段の生活を考えて携帯に便利なスプレーにしたらしい。とりあえずスタンガンは思いとどまってくれてよかったと思う。 とにかくわたしはちょっとばかり警戒しながら、斜面の下を覗き見た。黒々とした草の間に白いものがもぞもぞしている。断じて田舎のカップルではない。どちらかというとシーツをかぶってお化けのまねをする子供のような…… 「あれ、夏目?」 「!」 わずかな光に浮き上がる白は、我が高校の制服だった。学ランを着ていたら夜にまぎれて分からなかったかもしれないが、夏目は上着を脱いでいたのでよく見えた。上着は、どういうわけか彼の傍らに丸められている。野良猫でも拾って、温めているんだろうか。 ふと見れば、夏目の周囲には青白い点があちらこちらに密集していた。花だ。白い花が群生しているところに身を横たえて、泥だらけの夏目はいやに絵になった。どこの漫画のイラストカットだ。あまりにも少女漫画な錯覚に思わず自分の頬をひっ叩く。しっかりしろわたし。 傍目にはおかしな行動らしく(そりゃそうだ)夏目がぎょっとした声を上げた。 「な、何だ!?」 「いやなんでもない。断じてなんでもない。そんなことより夏目、あんたどうしたの?」 時刻は既に午後10時半。さりげなく問題行動の多い夏目とはいえ、ふらふら出歩くには遅い時間だ。それにこんな斜面で助けを求めているなんて、想像はカーナビよりも簡単に目的地にたどり着く。 「そ、それは……」 「斜面転げ落ちて、ねんざでもした?」 夏目はどう見たって動けない。手は自由に動かしているから、つまるところ足が自由に動かないのだろう。わたしはひょひょいっと原付のスタンドを立てると、問いかけながら足場のしっかりしてそうなところを選んで斜面を下り始めた。夜にスカート、ローファーとはいえ、田舎っぺをなめるな。 わたしが夏目の傍にたどり着くと、ぽかんとしていた夏目は我に帰ったように頷いた。丸めた学ランを大事そうに抱く。でもどうやらそこに生き物は入っていないらしく、物音も気配もありやしない。確かめるように彼の足を観察すると、「右足をひねったみたいだ」と自己診断が告げられた。試しに触ってみると、確かに右足首が腫れている。 「いつからここにいたの?」 「夕方、に会って少ししてから」 「………ま、まさか、餃子サービス券を拾おうとして」 「い、いやっ! あれはちゃんと拾ったあとだ!」 ほら! とごそごそやった夏目が財布からサービス券を取りだす。途端に夏目の腹がぐううと鳴った。うん、夕飯抜きの上にこんな美味しそうな餃子の写真見たらそら腹の虫も騒ぐだろう。 「ニャンコ先生もどこかへ行っていていないし…」 「いや、いたってネコでしょうがよ」 曖昧に言葉を濁す夏目に突っ込んで、わたしは携帯を取り出した。でも、あーここ圏外か。文明の利器は意外と不便だ。せめて人里には電波が届いていて欲しいのに。がんばれ電波塔。世界一高い電波塔になったら、この電波状態も改善されるんだろうか。 「じゃあ藤原さんにも連絡なしか」 「う…」 「早く電波受信しないとねー。よし夏目、わたしの肩に手ぇ回せー」 わたしは夏目の右側に回り込むと、彼の腕を首にかけた。踏ん張って、夏目の体を持ち上げる。夏目の方でも左足に体重をかけているだろうに、これが意外と重かった。細くてもやっぱり女の子とは違う、腕は太いし体は硬い。 「だ、大丈夫か? 悪い……」 「ん、へー、き、へき!」 伊達に鉄腕アルバイターをやってはいない。1リットルの牛乳やら水やらがぎっしり詰まったラックを持って階段を登ったときを思い出せ。思い出すだけで死ぬかと思った。やっぱり思いだすのはやめとこう。 慎重に斜面を登り、ようやく原付の前に出た。二人でどはーと息を吐く。やっぱり夏目は痛みを堪えていたようで、眉を寄せて俯いている。 電波が立ったのを確認したので、わたしは藤原さんに電話をかけることにした。電話口に出た塔子さんの声は不安げで、夏目はやっぱり心配されているんだなと思う。実に良いことであり実に遺憾だ。夏目め、心配かけよって。そういえば、どうして夏目はあんなところに落ちたんだろう。 ここからはわたしの家の方が近いし、夏目は思いっきり泥だらけだったので、今日はウチに泊めますると話を決着し、恐縮する塔子さんにたい焼きのリクエストをした後夏目に代わった。その間にわたしは夏目の荷物をカゴに積む。相変わらず夏目は丸めた学ランを持っているが、やっぱり動物はいなさそうだ。かわりにぴょこんと一輪、白い花が飛び出している。 電話を終えたらしい夏目が申し訳なさそうに携帯を返してくれた。ひたすら謝る彼を適当になだめて、夏目に後に座るよう指示する。自動車学校の教官が「原付は一人乗りです」と東南アジア奇跡の6人乗り写真をバックに強調していたが、今は緊急事態ということで見逃して欲しい。おまわりさんには気をつけよう。 後ろに乗せた夏目から土と、ある強烈なにおいが漂ってくる。ああ、やっぱりあの花持ってるのか。 「すまない、」 「良いってことよー」 ぐぐぐう。 「………悪い……」 「あっは、うち着いたらなんか食べよう。夕飯の残りがあるはずだし」 「は今までバイトだったのか?」 「ん。あ、汗臭いかも。ごめんね」 「いや……いい匂いだ。ラーメンの……ラーメンの?」 あれ、のバイト先は和菓子屋だよな? と問う夏目に、わたしが掛け持ちをしないとでも思うのかと聞き返した。アイアム鉄腕アルバイター! 「たまにラーメン屋にも入ってるよ。今度食べにおいで」 「あの券はそれでか……!」 「夏目も人のこと言えないにおいよー。その花のせいね」 「花?」 そう花。 わたしは夏目の着れそうな服があったか思い出しながら指摘する。 「ハナニラって言うんだ。見た目は可愛いけど強烈な匂いのあんちくしょうよ。塔子さんへの花束にするなら、悪いけど別の花をおすすめするよ」 ハナニラの極意は、花束にしようとして落下するところにはない。あれは目で見て楽しむものだ。摘んだら酷い目に遭うのだから。ていうか遭った。 ぺらぺらと図鑑的知識と幼い過ちについて話していると、不意に、腹に回された夏目の腕に力が入った。 「いや…違うんだ。いつか……いつか、話せる、と、思う」 そのときは、ハナニラじゃない花を持って、 そこで夏目は言葉を切った。 ……え? どゆこと? 花韮 (まさかのフラグ!? まさかねー) (じゃあ塔子さんにはあげない方がいいな……それにしても、迷惑をかけてしまった…) |
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