軒先から、ひっきりなしにビィ玉のような滴がしたたり落ちていく。いや滴というより最早水滴は流れの形、小さな滝はとたたたたたと軽い音を立てて瑞々しい草葉に泥を跳ね上げるのだった。
 わたしはそろぅりサンダルを履いた右足を前に出してみる。跳ね上げた泥と踏んづけた水溜りのせいで斑になっていた足先に雨粒が叩きつけられ、足首を細い水流が伝う。向日葵を模したビニール飾りがすっかり綺麗に洗われて、硝子よりいくらか柔らかな透明具合を取り戻したので、右足をひっこめて左足を前に出す。たちまち洗い流されていく泥。水勢は全く衰えていない。それもそうか、わたしは納得する。地蔵堂の屋根を叩く雨音は轟音と呼ぶにふさわしい。道の向こう側は白い水煙でけぶるよう、遠景なんぞぼんやり濃淡がわかる程度だ。トトロのときめき初恋シーンを思い浮かべてもらえれば一番近い。
 ふと、雨粒が地面を叩く音とは異質な音が聞こえた。それは規則的に、より正確に言うなら結構な速さで走るリズムで、わたしの方まで近づいてくる。灰色の中に人の形。

 「っはぁ! たく、何が雨は降らないだ、ニャンコ先生…!」
 「おう、夏目〜」
 「!?」

 濡れ鼠はサツキでもなくカンタでもなく、地蔵堂に駆けこむなり盛大な文句を垂れた。雨の中随分走ってきたのか芯からずぶ濡れのようで、シャツやら髪やらがぺっとりと肌に張り付いてしまっている。いやんせくしー。
 水も滴る夏目が挨拶に驚いて勢いよく振り返ったせいで、わたしにまで水滴が跳んできた。犬じゃあるまいしもうちょっとゆっくり振り向かないもんか。

 「一人?」
 「っ、あの。…そう、出かける前にニャンコ先生が晴れだと言ってて」
 「夏の天気舐めちゃあかんぜよ。ふとした拍子に泣きだす、女心と夏の空」
 「いやそれは秋の空だろう」

 突発具合でいったら夏の空も中々のもんだと思うけど。おかげで洗濯物の見極めが大変だ。
 夏目はそわそわと、いやに足元を気にしている。これだけの雨だ、スニーカーはさぞかし気持ち悪かろう。
 いっそ諦めて脱いじゃえば? そう提案しようとした時だった。

 ゴロゴロゴロ

 「あっ」
 「え?」

 ッシャーン!

 独特の前兆と共に、雨音を斬り裂いて鮮やかな轟音がとどろいた。夏目の肩がびくりと揺れる。
 わたしは背後を振り向いて、お地蔵様と供花の間から見える垂れこめた黒雲を見上げた。夏目が同じ方向を向いた瞬間、細く尖った閃光が雲の間を奔る。来るよ!

 ………ロゴロゴロ
 「なんだ。今度の太鼓はへたくそね」

 期待していただけにがっかりだ。胸の中が、めいっぱい膨らました風船から抜けた空気みたいにしんなりする。
 しかし黒雲も雨足もまだまだ健在なので、わたしは気を取り直して新たな稲光を待つことにした。見逃さないよう、雀を狙う猫のようにじぃっと意識を研ぎ澄ますわたしに、夏目が戸惑った声をかける。

 「……は、雷が好きなのか?」
 「まあね。だって、わくわくしない?」
 「……女の子は、雷って苦手だと思ってた」

 そりゃあ、一般的にはそうだろう。夏休み前の雨の日、雷に驚いたクラスメイトがきゃっとかいやっとか行って耳をふさぐのを何度も見た。女の子にとって、雷の轟音は怖いだろうし、飛び退くさまはかわいらしいと思う。わたしにはそんなもったいないことできないが。彼女らが怯えていたとき、わたしは窓に張り付いて次の演奏を待っていた。

 「わたしにとってね、雷は太鼓なのよ」
 「太鼓?」
 「そう。小さい頃ね、雨の日っていえばおじいやおばあと一緒に座敷で遊んだんだけど、雷が鳴ると、おじいがそれを太鼓に例えて上手下手を判定するの。今の雷神さんは太鼓の得手だとか、今のは力みすぎて失敗したとか。面白くて、一緒になって聞いてるうち、雷っていえば太鼓としか思えなくなったわ」
 「へえ」

 そういうわけでわたしは雷が嫌いじゃない。むしろ楽しい思い出がくっついてくるので好きだ。女の子たちは口をそろえて変だというけれど。
 稲光。今度は黒雲の中だけじゃなくて、辺りまでも一瞬白く、


 轟音!!


 耳を聾するような、凄まじい音だった。ゴロゴロなんてもんじゃない、ガガァンとかそんな感じ。
 音が触感を持つのなら、雨をたわませてわたしたちは吹っ飛ばされていただろう。一瞬茫然として、わたしははっと我に返る。

 「……びっくりした。何年かぶりに聞いた、あんな凄い太鼓」

 今更ながら心臓がばくばく走り出す。むずむず興奮が湧いてきた。自分の声が遠い、鼓膜が痺れるなんて随分凄い奏者じゃないか!
 興奮のあまり、わたしは満面の笑顔で夏目を振り返る。夏目はまだ茫然と痺れの中にいるようだった。

 「ねえ! 夏目! 今の聞いた!?」
 「……? 悪い、聞こえない!」
 「凄い、太鼓、だった、ね!」
 「ああ!」
 「もう、一回、鳴らない、かな!」
 「おれは、もう、いい!」

 そこで思わず吹き出した。何が面白いのか、よくはわからなかったけど、夏目も吹き出していたのでまあいいだろう。一人で笑ってたらイカれたみたいだ。
 ヒィヒィ笑っているのが段々お互いの耳に届いてきて、聴覚が戻ってくる。残りの雷は力を使い果たしたみたいに燃えカスばかりで、雨足も弱まってきているようだった。

 「よし、そろそろ帰るとするか」
 「まだ雨は降ってるぞ?」
 「フフン。わかってないね夏目クン。わたしには秘密兵器があるのだよ」

 籠バッグから取り出したるは折り畳み傘。目にも鮮やかな赤い傘はわたしのお気に入りだ。なかなか大きくて使いやすく何より軽い。銀色の取っ手をくるりと回す。夏目が間抜けな顔をした。

 「なんで最初から使わなかったんだ?」
 「こんな雨じゃ、使っても意味ないでしょ」

 たかが雨、されど雨。無駄に酷使しないことが道具を長く使うコツなのだ。わたしは負ける勝負はしない。
 まだしばらく雨宿りを余儀なくされるであろう夏目に入っていくかと尋ねたが、彼は丁重に断った。理由は、濡れてしまうから。確かに二人が収まるには狭いが、少しくらい濡れても構わないのに。夏目は頭の先から爪の先までぐしょぐしょだから、今更どれほど濡れようがあまり変わりはないということだろうか。夏目は肩のあたりを軽く押さえる仕草をする。

 「どしたの?」
 「ああ、いや、ちょっと筋肉痛で」
 「ヤワだなー。夏目じゃさっきみたいな太鼓は叩けないね」
 「いや、それは、おれもあまり叩きたくないし」

 曖昧な顔をする夏目にふと悪戯心が疼いて、わたしはにんまり手を伸ばした。嫌な予感を覚えたのか、夏目はじりりと後退する。その分わたしはにじりより、引きつる彼の「ちぇーいっ」「わーっ」二の腕を鷲掴みした。おお、案外硬い。予想通り細いだけに意外だ。

 「なっなっ、なにっ」
 「案外筋肉ついてんのね、夏目」
 「はっ!? わちょ、やめ、っ」
 「でもまだまだね、腹筋もそこそこレベルだし。太鼓には程遠い」

 太鼓は案外筋肉がいるのだ。彼ではそれほど立派な太鼓は望めまい。聞けたとしても、すぐにバテてしまうだろう。わたしは爽やかにセクハラを働いた手を離す。夏目は固まって動かない。精進せよ若者よ。
 わたしはくるりと反転し、光の差し始めた小雨の中に赤い傘を開く。夏目に挨拶をして地蔵堂から蒸し暑い道に戻ると、見知った顔と鉢合わせした。

 「あ、田沼。やほー」
 「……ああ……」
 「夏休みだっつーのに白い肌ねー。こんがり焼ければいいのに、乙女の敵め」
 「……は、焼けたな」
 「やっぱり? 日焼け止めキョーレツなの使ってるのに。悲しい」

 そういえば夏目も変わらず白かった。おのれ、メラニン不足で肌がぴろぴろ剥けてしまうがいい。
 田沼に別れを告げて、わたしは雷の去った道を歩く。夕立の名残で、一気に湿りを帯びた空気は蒸し暑い。まだ青い空を映した水溜りを避けて、わたしは赤い傘をくるりと回した。





 夕立

 「彼女追いかけなくていいのか、夏目」
 「違うんだ田沼! あれは誤解だ!」
 「何だ、浮気現場か小僧?」


 雷=太鼓と言っていたのはうちのじーちゃんです
 090814 J