あれ、今日夏目欠席なのか。
 わたしはがらんどうの机を見て、あいつまた熱出したのかなあと考える。一限の国語担当が来るまであと僅か、教室は寒い寒い言い合いながら登校してきた生徒たちの熱気でじんわりぬくい。人力暖房とでも言うべきか。

 夏目は細くて白くてモヤシのようだ。だけどつついてみるとはっきり男子の体をしているし、屋根やら欄干やら木の枝やら、猿か猫かというほど高い場所によくいるので木登りや危険行為が好きらしい。インドア派に見えて腕白田舎少年そのものだ。似合わん。
 しかしまあ、彼の気性と外見のミスマッチはともかくとして、健康の方もミスマッチ、夏目は頻繁に熱やら体調不良やらで欠席している。こちらの方は似合わんですむ問題じゃないよなあ。最近は若干少なくなってきているような気がするが、若いのにあれじゃ心配だ。今日はバイトも無いし、見舞いにでも行こうかな。わたしはぼんやり頬杖をついて廊下を見遣る。国語担当の教師のピリピリ静電気でも発生しそうな横顔が歩いている。彼は三年生の主任をしているから、この時期は気が気じゃないのだろう。
 国語の教師が入ってきて起立、礼。名簿を手に出席確認、「よし、今日は全員いるなー。お前たち、冬だからって風邪だけは引くなよ。そして三年生に移すなよ」「センセー、三年生もう自由登校で授業ないじゃないっすかー」「大事な時期なんだよ、三年担任の胃腸を労わってくれ!」

 (……え?)

 わたしは首ごと振り向きそうになり、咄嗟にその衝動を押さえこむ。待て待て落ちつけ落ちつこう。夏目は別に欠席だったわけじゃなく、北本とか西村とかと遊んで席にいなかっただけかもしれない。それか駆け込んできたのかも。いやいやそれは無い、だってこの目で廊下を眺めていたのだ。
 教科書を開きながら、わたしはそっと夏目の席を窺った。誰もいない。誰か座っているくらいの幅に椅子と机が離れているが、そこはきっぱりと空白だ。西村、お前いくら眠いからってそんな堂々と船扱ぐなよ。目隠しの背中も無いのにモロバレじゃないか。

 「こら、どこ見てんだー。三行目から読んでみろ」
 「いつまでも、いつまでも、旋回を続けるのでした。BY大分麦焼酎二階堂」

 『砂丘の図書館』篇である。





 キーンコーンとのんびりチャイムが鳴っている。生徒はばらばら茜差す校門から帰りあるいは寒い中部活に精を出し、わたしは教室から動けないでいる。補習とかでは決してない。いやたまに受けるけども。
 わたしは一日中迷いに迷った挙句、意を決して夏目の席に歩み寄った。どこからどう見たって空席だ。一日中空席だった。でも夏目は本当はいるかもしれない。見えないだけで。人間が見えないはずがないだろうという常識は一旦捨てる。
 帰り支度をしていた西村が、気合いの入りまくっているわたしに気付いて盛大にびびった顔をした。

 「あのさ夏目、」
 「な、夏目だったら帰ったよ!」
 「……ぅえ?」

 かくっと顎の力が抜けた。上顎がじんとする。あ、噛みしめていたんだな。癖にならないよう気を付けないと。無意識で歯ぎしりするようにはなりたくない。
 わたしはなんだか拍子抜けした思いで、そっかーと適当に言って席に戻る。何か聞きたそうな西村を意図的に無視する。無視せずにおれようか。だってどう聞く気だ、夏目って透明人間だったっけ、なんて。
 鞄と原付のヘルメットを持ったわたしは、教室を出ようとして、ふと西村を振り返った。

 「夏目、いつまでいた?」
 「さっきまでいたよ」

 わたし、眼科に行った方がいいんだろうか。





 冬は夜の訪れが早い。瞬く間に降りてくる夕闇を見つめて、わたしは泣きそうな気持ちでいっぱいだった。
 校門を出たわたしは、迷いながらも藤原さん宅に向かい、留守とわかって門の前でハチ公中である。寒いしお腹すくし最悪だ。明日また確かめればいいじゃないと腹の虫が囁くのだが、明日も夏目が透明人間だったらどうしたらいいかわからなくて離れられない。疑問は早く素早く迅速に解決しなさいと数学教師が熱弁していた。夏目頼む、ちゃんと見える姿で帰ってきてくれ。
 今日のわたしにふざける余裕はない。そりゃそうだ、友人かわたしがこんなとんちんかんな事態になっているのだ。ふざけようにも眉が下がりっぱなしでどうしようもない。わたしがおかしい方でファイナルアンサーしたいのだけど、生憎女子高生の日常というものは大抵ルーチンワークで出来ていて、拾い食いもしていなければ変な扉も開けていないし魔法少女になってよなんてもってのほかだ。
 わたしは溜息をついて、原付のシートに座り直す。気まぐれに吹き抜ける風が冷たい。

 「冗談なら良かったのに」

 わたしは冗談が好きだ。楽しく笑って生きていたい。どんなシリアスなことだって、とんちんかんなことだって、笑ってしまえば深刻さのドツボにはまらなくてすむし、そうしたら思い詰めなくてすむじゃないか。
 だけど、それだけじゃ駄目なんだなあ。

 わたし、向き合うことから、逃げてただけなんだなあ。

 藍色の夜が体温を奪っていく。寒々としていく体に引き摺られるように、弱った心が何かに泣いて縋りたくて仕方なかった。「お母さん、助けて」呟いた祈りに意味は無いと知っていたけど。お母さんは、中学に上がった時に死んでしまった。
 夏目、頼むから帰ってきて。そしたら言いたいことがある。言ってほしいことがある。夏目、あんたはそれを聞くことを、言うことを、許してくれるだろうか。
 駄目だ。こんなのは夏目の優しさにつけ込むみたいだ。しっかりしろわたし。

 (夏目、あんたは妖が見えるのね。わたし知ってるんだ。そこら中にねえ、妖がいること。わたしには全く見えないし感じられないけれど、妖がいること、知っているのよ)

 言えるか。
 言ってどうする気だ、心配でも押しつける気か。ああ何も言わなくても、家まで押し掛けてる時点で駄目駄目か。でも他にどうしたらいいんだ。夏目は今、危険なことになっているかもしれない。なっているんだろう。そうでなければ、今日のようなことが起こるものか。
 妖と関わることが危険ばかりだとは思わない。だが、危険が多いことも事実だ。わたしはそれを体験ではなく、おじいやおばあから聞いた知識として知っている。だからといってわたしにできることは無いのだ。駄目だ頭が混乱している。ふざけたい。物凄くふざけたい。それが逃げだと知っているけど。じゃあどうする気だ。夏目の気持ちも考えろ、わたし。
 夏目、早く帰ってきて。ちゃんと、『夏目』が帰ってきて。

 「?」
 「……ッ!」

 夏目の声が、夏目の影が、わたしにかかった。わたしは弾かれるように顔を上げて、ひどい顔をしていただろう、夏目は一瞬慄いたようだった。ああ夏目だ。慄くなんて失礼な奴だなあ。まあそりゃあびっくりするだろうけど。うんその点は同意する。
 夏目はどことなく疲れた様子で話しかけてきた。

 「どうしたんだ、一体…。何でおれの家に……って、、お前、顔色悪くないか?」
 「夏目……」
 「…う、うわ、!?」

 考えていたことを全部飲み下した。変な具合に入った空気があとでしゃっくりを誘発しそうだけども知ったことか。
 わたしは零れてしまった涙を乱暴に袖で拭い、「おかえり!」と叫んで、原付のエンジンをかけて逃走を図る。図る。図る。………ガソリンが無い!!
 焦りすぎて給油を忘れたようだった。そうだよ今朝そろそろやばいなと思って、帰りに給油しようと思っていたのだった。すっかり頭から抜けていた。逃走に失敗したわたしを夏目は唖然と見ていたが、やがてくつくつと笑い出した。

 「今日の、変だ……」
 「や、やかましいっ」

 わたしは恥ずかしまぎれに怒鳴り返したが、どうにも緊張の糸が切れてしまっている。ああなんかどっと疲れた。今日はずっと考え事していたからなあ。
 夏目はひとしきり笑った後、「夕飯食べていかないか」と誘った。

 「お前すごく寒そうだし……あ」
 「あ?」
 「……そうだ、今日塔子さんたちいないんだった……」
 「……むしろあんたの夕飯が心配よ」
 「いや、それはあるんだけど……」

 考え込む夏目はしっかりと夏目だ。可視物だ。わたしはもうそれだけでよくなってしまい、「いいよ、うち帰るよ」と宣言して笑った。笑うとまだ少し目尻が湿っぽくて冷たい。
 原付を引いて帰ろうとするわたしを、夏目が呼びとめる。振り向いた先に真剣な顔。何か問いたげだった。そういえば、何で家の前にいたのか、言わないままだった。

 「、………気を、つけて。あと、……ただいま」

 夏目はそれだけを言って、淡く笑った。
 心配してくれてありがとう、と、彼は声にならない声で言っているようではあったけど、彼は結局、何も聞かなかった。
 わたしはそれに甘えることにする。大きく手を振ることで夏目に応え、夕飯を思い浮かべながら帰ることにした。






 硝子

 もう、そろそろ。向き合わなくちゃ。向き合いたい、から。




先生ナツメが登校したらには何も見えない
まさかのネタバレ話となりました
 120229 J