西の空に、雲が一本たなびいている。青灰色の煙のようなその根元には木立が広がり、中でも一本、ひょろりと高い松のてっぺんで、猿のような妖が太陽との別れを惜しむように手を振っていた。釣瓶落としの夕暮れは既に南天までが藍色で、名残のように夕星の足元までを燃やす赤銅色の光を受け、その光景はまるで影絵のようだ。

 「秋は夕暮れーやうやう赤くなりゆく山際ー」
 「待て、それ混ざってる混ざってる」

 とんちんかんな古文の教材で夏目は意識を引き戻された。半年ほど季節を混ぜたは、でもさあ、と鞄をぶんぶん振って、

 「でも秋の段は知らないもの。片手落ちじゃね学校教育。どうせなら冬までやっとこう」
 「春の段から寝てた奴の言うことじゃないな。先生に見つかった時の訳、あれ語り草だぞ。あけぼのを横綱と語訳した奴なんて初めて見た」
 「ばっか曙貴時代の曙関は最高だわよ。あんな魅力的なヒール誰だって好きになるって」
 「それいつの時代だよ…」

 常々女子高生離れしているだが、趣味嗜好の渋さ具合は到底夏目の及ぶところではない。うっかりするとおばあちゃんと呼びそうだ。もしかするとはレイコよりおばあちゃんが似合うかもしれない、少なくとも彼女の方が、着物を着て縁側で茶を啜って日向ぼっこしている図がよほどしっくりくる。しっくりきすぎてもうそれしか考えられなくなりそうだ。落ちつけ、は和菓子屋とラーメン屋を掛け持ちする鉄腕アルバイターでもあるのだ。駄目だ和菓子屋とかまるっきりおばあちゃんじゃないか。夏目はかなり失礼だ。
 妄想に没頭する夏目は放っておいて、はくん、と鼻をひくつかせ、どっかにキンモクセイがある、と言ってきょろきょろした。キンモクセイの特徴ある甘い香りを、夏目も微かに嗅いだ気がしたけれど、不思議とあの花木は、風に散る匂いがその源まで一本の道となっているわけではないようで、帰り道のない香りが、すういすういと秋の風に泳ぎだしてしまっているらしく、結局夏目もも、オレンジ色の小さな花を見つけることはできなかった。その代わり、夏目は、山の影になって薄暗い青と紫に沈んでしまった道の脇に、白々と発光する自動販売機を見つけた。彼は、夏の暑さから秋の涼しさへうまく順応できないでいる友人のくしゃみの頻度を知っていたので、陳列されている缶ジュースの下に赤いラベルがあるのを確かめてコインを入れた。

 「は、カフェオレでいいか?」
 「なあにおごってくれるの? 優しいねえ……と言いたいところだけど、夏目それ、おしるこ」
 「え? ああっ!」

 時すでに遅く、夏目の指はカフェオレの横のボタンを押している。ガシャンと音を立てて出てきたのは紛うことなきおしるこ(つぶあん)だった。誰が飲むんだこんなもの。飲料配達のお兄さんも同じことを思っているに違いない。慌てて新しいコインを入れる夏目の足元で、「いいわよう好きよおしるこ」と笑いながらはおしるこ缶を取り出している。

 「それにそのカフェオレも同類だしねえ」
 「え?」

 ガシャン。
 にやにやとおしるこを煽るの見守る中、今度こそカフェオレのボタンを押した夏目は、取り出し口から現れた缶のパッケージを見て引き攣った。ほくほくサツマイモ味。コーヒーとミルクが螺旋を描く見るも美味しそうなカップから、意味不明な吹き出しが飛び出している。貼りつく勢いで自動販売機を振り返ると、そこに居並ぶ缶はどれもこれも素知らぬ顔してトンデモ野郎ばっかりだった。カレー缶やらおでん缶やら一体誰が買うというのか。「挑戦的な自販機ねえ」とが褒める。は褒めるところがおかしい。
 まだしもましなものを買ったと自分自身を慰める夏目を、は道端の階段に誘って座り込む。住宅地から続く階段は、座るには丁度良い高さにあったので、夏目とは並んで珍妙なジュースを啜った。西の山の端が最後の赤色に燃え盛り、灼熱する鉄のように滑らかに光っている。

 「あったまるわあ」
 「……このカフェオレは、すごい味がする……」
 「どれどれ、一口。……うわあ」
 「よく商品化できたな、これ」
 「あーなんか聞いたことある。100均とか激安自販機のトンデモ飲料ってね、企画したけど売れなかったモノを格安で処分してるんだって」
 「ああ、それで見慣れない商品ばっかり並んでるのか」
 「100均巡りすると面白い出会いがあるかもねえ」

 夏目が一口以上のサツマイモ味カフェオレに耐えられないでいる横で、これ慣れたら癖になる、とは既に三口目だ。隣に置いたおしるこは、多少飲まれているとはいえこの分なら全て飲むのは厳しいだろう。交換を申し出ようか、と思った時、縮れ毛の生えた三指の手がおしるこに伸びた。ぴくり、と夏目の瞳が硬化する。鳥のような顔をした小さな妖が、ぎょろぎょろと目を蠢かして、嘴を飲み口に突っ込んでいた。カリ、カシッ、と、嘴が缶を擦る音が足元でしているのに、は全く気付かない。あるいは常人の拾う音ではないのかもしれない。は妖が絡む全てのことに鈍感だ。
 鳥の妖は、何度か缶からおしるこをついばむと、気に入ったのかキョッキョッと鳴いて缶を掴んだまま跳ねていく。一歩がやたらと大きい。が、飛べはしないらしく、鳥らしい部分といえば頭だけだった。何もできないまま視線で妖を追った夏目はぎょっとした。いつの間にか、道の反対側に揺れるススキの間を、この世ならざる灯がゆらゆらと連なり、行列を為している。黄昏色にぼんやり浮かぶ提灯は、それを手に持つ異形たちの陰影を彫り出し、夏目の瞳に光の行列を映した。声帯を凍らせ、冷たい汗を流す夏目の隣で、残り少なくなったカフェオレを傾けるの頬を黄色い光が照らし、手の影を長くのばす。は気付かない。夏目には、まるで車のヘッドライトに照らされたようにはっきり見えるその光の流れの痕跡は、彼女には欠片も見えない。
 気付くな、と強く念じる。念じたところでどうにもならないのはわかっている。連中がこちらに気付くも気付かないも、手出しをしないで放っておくかも、全ては運次第で夏目にはどうにもできない。気付かれた時、に何も気付かれず切り抜けられる自信もない。どうしよう、と夏目は血の気が引いた。夏目の憐れな所は、彼が絶望の淵に追いやられる引き金が、決して彼自身の手にはないことだ。夏目の絶望は常に周囲からの横槍で齎される。その多くは、妖によって。
 (頼む、気付くな)
 握りしめた拳が震えた。久しぶりに、耳鳴りのする程の恐怖。ついにカフェオレを飲み終えたが、能天気に平和な息を吐く。それと同時に、おや、あれは、と人ならざる声。もう駄目だ、迫りくる平和の終わりを予期して目を瞑った夏目に、「ごめん、夏目」との声。

 「カフェオレ飲みきっちゃった……夏目? おーい」
 「………ッ!」(来るな来るな来るな、頼むからこっちに来るな…!)
 「夏目ぇーなっちゃーん」

 手を変え品を変え夏目を呼ぶの声ばかりが続き、喧騒が始まらないことを訝しんだ夏目はそろそろと瞼を押し上げる。一段下に移動して覗きこんでくるの頭越し、やたら大きな坊主頭やら狐に似た女やら、無数の妖が夏目を取り囲んでいて、ぎょろりと一斉にその、大小さまざまな目を煌めかした。

 「う、うわあああ!」
 「わあ!」

 反射的に悲鳴を上げて飛びのいた夏目に驚いたがバランスを崩し、そのまま後ろにぐらりと傾ぐ。あ、と思った夏目と、卵型に口を開けたの目が合った。背後は妖とアスファルト。夏目は咄嗟に、無茶な体勢から腕を伸ばしての右手をひっつかむ。とはいえ踏ん張りも利かない体勢から無茶をしたのが災いし、に引き摺られるまま諸共に道路に転がりそうになったのだが、痛みに備えてかぎゅっと目を瞑ったがアスファルトに叩きつけられる直前で、ぴん、と何かが夏目を引っ張り、危うい均衡で事故の発生は回避された。引き攣った顔で振り向いた夏目は、制服の裾を咥えた、あの三指の足の鳥妖と、彼につられたように巨大な指を襟にひっかけた妖を見た。「お前…」信じられない思いで彼は、もう助けは必要ないと判断したのだろう嘴を離した妖と、塑像のような顔を明後日に向けている妖を見つめ、丁重な礼を言う。
 いつまでもやってこない衝撃に、はそうっと細目を開ける。すぐ気付いた夏目が彼女を引っ張り上げて、は今更「びびびっくりしたあああ」と目を白黒させた。夏目はに傷が無いのを確認しながら、正面の妖にも頭を下げる。落ちていくの背の下にも、毛の長い獣の手が差し伸べられていた。

 「ごめん…! 大丈夫か?」
 「だ、だいじょぶだいじょうぶ。助けてくれてありがとー」

 まだ少し表情の硬いは、それでも何とか笑ってみせた。夏目は情けなく眉を下げている。はうあああああっと謎の呻きを上げてから、がばりと膝に突っ伏した。

 「1分! いや、30秒待って!」
 「な、何を?」
 「うあー、びっくりしたびっくりしたびっくりした!」

 あーあー呻きだしたに夏目はうろたえるばかりで、妖たちの注視の中心にいる恐怖も頭から飛ぶ。一歩間違えれば、と思うと背筋が寒くなる。改めて礼を言わなければ、と思い至った夏目は、を案じつつも顔を上げて、拍子抜けした。
 妖たちは時々顔を見合わせたり、がやがや世間話をしながら、ばらばらと円陣を崩しつつあった。てんでに歩きだし、またもとの行列を作ってどこかへ去っていく。満月を籠めたような提灯の明かりは夏目の周りから未練なく消えた。
 唖然と行列を見送る夏目の横で、「よしっ!」とが呻くのを止める。すっくと立ち上がった彼女は、鞄を鷲掴み、たんたんっと階段を下りると、熾火の名残も消えた西空を背景ににかっと笑った。

 「帰ろう、夏目。お腹減った」
 「あ、ああ………」
 「ん?」
 「本当にごめん。おれのせいで、お前を危ない目に合わせるところだった」
 「いーよぅ、結果的に擦り傷一つないし」
 「けど、怖い目には遭わせただろ」
 「そんなの気にしてないって」
 「けど…!」

 おれが妖なんか見えなければ、
 妖がお前を助けてくれなければ、

 反駁の続きに躓いた夏目に対し、は大して困った風でもなく首を傾げ、じゃあさ、と自動販売機を指さした。

 「今度また、サツマイモ味のカフェオレ、おごって」
 「………よっぽど気に入ったんだなそれ………」






 寄道

 「おや夏目様、何かお探しですか?」
 「礼を言いたい妖がいるんだ。鳥頭で三指の足の妖と、大きな手のモアイみたいな妖と、毛の長い獣の妖、知らないか?」




は相変わらず何も見てない
妖もただの通りすがりの親切
でも夏目にとっちゃ大変だよなあ
 111019 J