鞄を開けたら、自分のものでないノートが入っていた。
 古文とお手製のレタリングをされた題字の下に、と記名してあったので、ああのノートか、そういえば古文の授業で寝落ちしてしまい、板書を写そうと昼休みに借りたんだった、と思い出す。
 時間割を確かめるに明日も古文は燦然と存在感を放っており、このままではが困ったことになるのは明白だ。夏目は時計を確かめて、まだ訪問しても迷惑ではない時間なのを確かめると、塔子に外出する旨を告げた。



 ノート一冊を片手に持って、家のチャイムを鳴らすと、部屋着のが迎えに出てくる。玄関燈に照らされて、髪が僅かに湿った光を湛えているのは、早々と風呂に入ったからだろう。微かにシャンプーの香りがする。

 「、これ古文のノート。返し忘れててごめん」
 「おー、ありがとう! 良かった、学校の怪談を確かめに行くとこだった」
 「忍び込むのはやめておけ」
 「はっはっは冗談、セコムに挑むほど馬鹿じゃあないよ」

 せっかく来たんだ、麦茶でも飲んでいけと誘われる。一応夜だ、反射で遠慮しようとしたのだが、たまたま廊下に出てきたおばあと目が合い、が「おばあ、麦茶一丁!」「麦茶一丁、毎度あり。毎日暑いなあ夏目君」おばあはそのまま台所に消え、夏目は完全に自分のターンを見失った。乗せられるままについて廊下を渡ると、風呂場と思しき辺りから、高らかな演歌が聞こえてくる。多少聞き取り辛いが良い声だ。おじいの演歌に合わせて、相変わらずわらわらいる下級以下の妖が合唱しているのに苦笑い。暑かろうが寒かろうが家は変わらず通常運転だ。
 の部屋の襖を開けると、通り道を得た夜風が風鈴をちりんと鳴らした。可愛らしさの乏しい部屋に入った夏目は、風が届けた妙な臭いに思わず眉を寄せる。美術準備室のように嗅ぎ慣れない、ニスのようなその臭い。

 「……これ、何の臭いだ?」
 「ああ、ごめんごめん。マニキュアだよ」
 「マニキュア?」

 すぐ散らすから、と換気に気を配るに、夏目は違和感を滲ませて繰り返す。とマニキュア、なんだか上手く結びつかない取り合わせだ。
 高校生にもなれば、女子の大半は化粧に興味を持っている。夏目のクラスでも、あああの子は化粧をしているな、となんとなくわかる生徒もいたりする。しかしは化粧やおしゃれなんぞどこ吹く風で、そういう関心から、随分縁遠く見えたのだ。部屋も全く女子らしくないし。
 夏目が首を捻っている間に、はおばあから麦茶を受け取り、夏目に席を勧めた。自身も麦茶で唇を湿して、これよこれ、と正座を崩す。
 示された右足の指先が、晴れた夏空のようなコバルトブルーに染まっていた。
 塗りかけらしく、右足の爪三枚だけが色付いている。夏目はふいに沸き上がった戸惑いに麦茶を持った手を止めた。はローテーブルの上、シナモン色をしたクッキー缶を引き寄せる。

 「見せてあげよう、わたしの秘密の箱デス」

 夏目の凝視から逃れるように、恥ずかしげな動作で足を引きとり、斜め座りしたは隠しきれなく弾んだ声で、金文字のデザインロゴの刻印された蓋を外した。
 さほど大きくない空き缶の中、林立するように白く細長いキャップが少し列を乱しながら並んでいる。ニスのような臭いが強い。は、宝物を自慢する子供のようなきらきらした横顔で、口許を小さな照れにむずむずさせて、その中の一本を摘まんで引き出す。小瓶は柔らかなレモン色をしていた。
 ちょこんとテーブルに立った瓶に、夏目は横っ面をひっぱたかれたような、計り知れない衝撃を受けた。半ば呆然としながら問う。

 「、普段マニキュアなんかしてたのか?」
 「うんまあね。手に付けると先生に怒られるし、わたし飲食系のバイトだから、もっぱら靴下に隠してんだけど」

 完全に自己満足なんだけど、塗ってるだけで楽しいんだ。
 頬が内緒話を打ち明ける子供のように生き生きとしている。夏目は知らない人を見るような心地がした。きっと小さな背徳感と、少女らしい背伸びした喜びが、彼女を縁取っているからだ。
 夏目は普段、下らない話をしてはにやにやしている、掴みどころのない友人の足元を想像した。白い靴下が覆う指先を想像しようとして、ふいに、とてつもなく恥ずかしくなった。カッと紅潮した頬を自覚して、夏目は慌てて俯いた。たった今、の素足を見た時は何も思わなかったというのに、今にしてひどい罪悪感に苛まれる。口の中に謝罪が満ちる、しかし心の中、微かに背徳的な感情の気配に気付いた夏目は、直感的に口に出せないと舌を動かしかけた言葉を麦茶と一緒に飲み込んだ。心臓が唐突な早鐘を打ってむせる。

 「わ、夏目どうしたよ」

 自分が夏目にとって未知の生き物と成り果てていることに気付かないは、突然むせた夏目に慌てて、何も考えないまま彼の肩に触れる。夏目は咄嗟にその手を振り払った。の目が丸く見開かれ、振り払った夏目の瞳が辛く歪む。
 けふ、と最後に軽く咳した夏目は、心配そうなの肩越し、参考書や漫画の並ぶ本棚の一角にいくつかのお菓子の空き缶や、日焼け止めのプラスチックボトル、布をかけられた鏡を見つけた。

 「夏目ー?」

 ひどいショックを自覚しながら、見慣れたの顔を見る。夏目は、宇宙を隔てたような遠さと、縋りつきたくなるような居たたまれなさに支配され、ごめんおれもう帰るよ、ともごもご言って席を立った。その拍子にもう一度テーブルの上が目に入り、あのシナモン色のクッキー缶と、その脇にたった今を彩ろうとしているコバルトブルーの小瓶を見つけ、夏目は思わず目を逸らした。



 夏目はと、風呂上りのおじいに見送られて玄関を出る。
 身のうちに湧いた感情に、夏目は名前を付けかねた。そういえばには、感じの悪い対応をしてしまった、と今頃になって小さな反省が芽生えたがどうしようもない。明日からどうやってと接したらいいんだろう、といううっすらとした不安を感じた。

 「夏目!」

 強く名を呼ばれ、夏目はギッと油の切れたロボットのように立ち止まる。振り返らないのに業を煮やしてか、はずかずかとつっかけサンダルで距離を詰め、夏目を強引に振り向かせてにやっと笑った。馴染み深いあの笑顔で。

 「明日は寝落ちすんなよ。じゃあ、おやすみ」

 よっぽど途方に暮れた顔をしていただろうに、はそのことには一切触れず、洗い髪を翻してすたすたと踵を返した。あまりに堂々としたその背中に、夏目は思わず男前だと感嘆する。それはの、あんたが何に戸惑ってるかは知らんが変に気を使うんじゃない、という態度で示した宣言だった。男前だ。
 夏目は小さく息を吐いて、夜道を辿ることにする。抱えたもやもやは晴れる気配もない。晴れないかもしれない、という予感もしている。もやでなくなっても、それはきっと、凝固して心の隅にあり続けるのだと、そんな気がした。
 夏目は、あのコバルトブルーの小瓶を思い出した。それはきらきらと星屑のように光り、ひどく恨めしい。
 八つ当たりであることはわかっていたが、夏目はふつふつと沸きあがる苛立ちを抑えかねて、の部屋にあるナイロン編みのゴミ箱を想像し、あの美しい小瓶を捨てた。






 秘密

 少しだけ大人の色に染まる指先
 照れくさそうに そっと隠して
 (あの日のタイムマシン/夏目二期OP)



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