いや参った。

 「まさか、わたしが風邪をひくとはねぇ」

 健康優良わたしは風の子元気な子が座右の銘だったんだけど。
 そう言うとは蒼白な顔でへらりと笑う。しかしその表情に常の活力はなく、彼女の体内で猛り狂うウイルスと白血球の壮絶な果し合いを思わずにはいられなかった。
 夏目は「ばか言うな、お前も人の子だろう」と普段彼が散々妖に言われていることを口に上らせる。そうは夏目と同じ人の子だ。普段の彼女のしぶとさとか手強さとか突拍子の無さとか諸々諸々の妖くさい所業を数え上げても、やはり彼女は脆弱な肉体しかもたない人の子なのだ。多分。
 は鼻がつまるのか口で息をしている。サイドテーブルに見舞いの果物を置くと、台所に持って行ってくれと頼まれた。曰く、風邪菌で汚すのは申し訳ない。中身は時期の早い蜜柑なので大丈夫ではないかと思ったが、夏目は大人しくそれに従うことにした。

 勝手知ったるなんとやらで、相変わらず下級以下の妖がわらわらする中を台所に向かうと、の祖母が何やら鼻を刺す液体を煮込んでいた。コンロに向かう老女には悪いが白雪姫の魔女を想像せずにはいられない。

 「あ、あの…さん?」
 「おんや、夏目君」

 くるりと振り返った彼女の笑顔はに似て掴みどころが無い。いや、が彼女に似たのだろう。
 とにかく夏目は見舞いの蜜柑を渡すと、寒気と関節痛で唸っているのもとに戻ろうとした。いくら普段のが平気の平左でこの化け物屋敷に住んでいても、風邪で弱っている今なら妖に生気を吸われてもおかしくない。
 妖関連で熱を出したり怪我をしたりと、ありがたくもない経験豊富な夏目は弱った鈍感人間を心配していた。

 「ああ、ちょいと待ちや、夏目君」

 おばあは夏目を呼びとめると、味噌汁椀と思しき漆椀に鍋から刺激臭のもとを移して盆に乗せる。ラーメン用と思しきレンゲを添えて、彼女はためらいもなくそれを夏目に差しだした。
 ものすごく嫌な予感がするのだが、まさかこれをに飲ませるつもりなのか。
 思わずたじろいだ夏目に、おばあはニヤリと、それこそ魔女のように笑った。

 「ぼぉいふれんどからなら、も飲もうさ」

 色々突っ込みたいところがある! この液体が何なのかとかあんたらは孫を一体なんだと思ってるんだとかそしてなによりボーイフレンドってなんだそれ! いつから自分とは付き合っているのだ!
 赤くなったり青くなったりしている夏目にずずいと盆を押しつけて、おばあは「命短し、恋せよ乙メン」などと面白そうに歳に似合わぬ単語を吐きまくる。間違いない、この老女はの祖母だ。

 「ほれ、さっさと持って行っておやり」
 「あ、あのでもおれはそういうのではなくて!」
 「わかっとるよ」

 なんだそれ……!
 あっさりとからかわれたことが暴露され、夏目はがっくりと膝を着きたくなった。
 おばあはそんな夏目の気も知らず、いや十中八九知っているが、素知らぬ顔で夏目の背を押した。

 「そりゃ薄荷湯さ。薄荷を煮て砂糖を溶かしたやつで、喉鼻がすぅっとするから、うちじゃ風邪っぴきの定番さ」

 素直にハッカ飴を舐めればいいのに、なにせおじいもも飴が嫌いなもんでなあ。駄々っ子を語るような声音に、そういえばは飴は噛み砕くものだと言っていたなと思い出す。何でも、長く口の中に入れっぱなしだと気持ち悪くなるのだとか。気付いてみれば、液体から漂う匂いは薄荷のそれだ。刺激臭だと思ったのは鼻にツンと来るからか。
 それにしても、薄荷湯と言えば普通は風呂のことを差す。先日の昼休み、保温効果があるのだと多軌が田沼と盛りあがっていた。ちなみにその時の話題は好きな入浴剤である。現役高校生にしては随分渋い。あの時が妙な顔をしていたのは、彼女にとって薄荷湯とは即ち飲料だったからかと納得する。

 どういうわけか「しっかりな」と手を振るおばあに見送られ、の部屋の襖を開ける。の部屋は和室にベッドだ。少し田沼の部屋に似ている。つまりは女の子らしい飾りがない。夏目は気付いていなかったが、女子の部屋に入るという気後れを感じずにいられるのは、の性格とぬいぐるみ一つない和室が影響しているのかもしれない。

 「、大丈夫か?」
 「んー」

 鼻声だ。は薄ぼんやりした目を夏目に向けると、「あ」と嬉しそうに鼻をひくつかせた。微かな匂いをとらえたらしい。

 「薄荷湯だ」
 「ああ、ちょっと待って」

 サイドテーブルに盆を置き、夏目はごく自然にの上体を起き上がらせた。寝巻きがわりなのだろう七分のTシャツが包む体は、病気中のせいか随分頼りなく見える。椅子に掛けられていた半纏を羽織らせ、段々と何とも言えない顔になっていくに気付くことなくレンゲを手にとって薄荷湯に浸す。掬いとった薄荷湯は随分熱そうだったので息を吹きかけて冷ました。

 「ほら」

 真面目な顔で口許に差しだされたレンゲを、はこれ以上なく複雑な顔で見遣った。
 常に夏目を含めた級友をからかい、飄々と動きまわっている彼女が見せたことのない表情だ。

 「……うん、まあ固形物食べれるような食欲ないし体動かすのも辛いからいいんだけどね……」

 何かに言い訳するように独白しては差しだされたレンゲに唇を寄せた。ちびりちびりと飲みこんで、「あーすっとするー」と溜息をつく。しかしそれにしても、その声音は少しばかりやけくそ気味だ。
 夏目はそのまま甲斐甲斐しく給仕をし、椀の中身が半分ほどになったところでがもういいと差し止めた。早くも満腹感を覚えたらしい。
 椀を片付ける夏目の横で、はもぞもぞと布団の中に潜り込む。引き上げた布団で顔の半分まで隠したは、ごろりと寝がえりを打って夏目に後頭部を向けた。

 「……? 、熱が上がったのか?」

 不健康極まりない顔色が真っ赤に染まっているのを見咎めて、夏目は心配そうに問いかける。さん呼んでこようか、という申し出に、笑われるから絶対やめてくれとはぼそぼそ拒否をした。

 「あの、夏目。風邪移したら申し訳ないから、もう帰りなよ」
 「ん……」

 長居して疲れさせてしまっただろうかと眉を下げた気配を察してか、はごろりと夏目を振り返り、しかし何かを言おうとして失敗して、「ぬあー」という意味不明の悶絶音と共に頭まで布団に没した。逃げるように丸まってしまったに面食らいながら、夏目は帰り支度をする。の奇行はいつものことだが今日は何やら様子が違う。やはり熱のせいだろう、迷惑をかけないためにも早く退散しなければ。
 「じゃあ、また学校で」と立ち去ろうとした夏目は、不意に伸びた手に手首を掴まれてたたらを踏む。
 見下ろせば、布団を引っ被ったが、夏目の右手をとらえていた。布団に隠れて表情の定かでないが言う。

 「その…お見舞い、ありがとう。元気出た」

 じゃあ、また学校で! 言い捨てるや手も頭も素早く布団にとって返し、は動かなくなった。

 「ああ、うん、また」

 夏目はようやくそれだけ言うと、薄荷湯を載せた盆を持って部屋を出た。鼻腔に、微かに甘い清涼感が漂ってくる。
 ふらふらと盆をおばあに返した夏目は、今度は何も言わないおばあに辞去を告げて家を出た。秋の涼しい風が夏目の頬を過ぎる。風はやたら涼しかった。それはそうだ。夏目は汗ばんだ手で両頬を覆った。

 「………うわ………!」

 今更己の所業に気がついた。そりゃあも微妙な顔をする、何せ自分は、あろうことか同級生女子に手ずから食べ、食べさせるようなことを!
 そうなれば連鎖的に肉付きの薄い背中の感触だとか、薄荷湯を啜ったの照れた横顔なんかも思い出してしまう。道理での様子がおかしいわけだ。

 どうして平気だったあの時の自分。何を考えてあんな暴挙に出た!
 頬が、掴まれた手首が熱い。まるで発火したようだ。
 が学校に来たら一体どんな顔をしたらいいのだろう。いっそ自分も風邪を引いてしまいたい、と夏目は思った。





 ハッカ

 「おばあ、はどうしとる?」
 「熱が上がって唸っとるよ」



 夏目はを女扱いしてなかった上、
 天然タラシだと思います。
 101010 J