今日も今日とて唯我独尊極悪非道で名を馳せた松永弾正小弼久秀は、自身の欲望に従い人を人とも思わない策を展開し、やっとその手中に落ちた逸品を眺めてご満悦だった。
 自他共に認める欲望の権化、久秀の今回のオカズは掛軸である。
 いやはや実に素晴らしい。全くあの所有者をぴぴるぴるぴるぴぴるぴーして本当に良かった。何せ彼はものの真価もわからぬ愚か者であったのだ。あんな男の手にあるよりは我が手にあった方がこの掛軸も本望というものだろう。
 掛軸は、流麗かつ静謐な情緒溢れる水墨画だった。
 水墨画には、いくつもの深山を浮かべるようにして流れる唐つ国の雄大な川が描かれている。
 そこかしこに遙遊している仙人が見られ、川に浮かんだ船は葦をかき分けるようにして漂っていた。

 とても味わい深い作品だ。それが手元にあるという満足感と達成感に満たされ、機嫌よく杯を傾けたその時だった。

 「………む?」

 気のせいか。久秀はじっと目をこらした。
 先ほどより船が大きくなっている気がする。葦原に紛れていたはずの船が、船首をこちらに向けている。
 酒が過ぎただろうか、と久秀は杯を見下ろした。
 いやまさか。まだ一杯目の酒である。いくら気分がいいとはいえこの自分が杯一杯で酔うことはありえない。

 「………ふむ?」

 おかしい。久秀は杯を置いて掛軸に顔を近づける。
 確実に船は大きくなっていた。船首でわかれる水の流れさえ目に入る。
 一瞬目を離した隙に動くとは、まるで「だるまさんが転んだ」のようである。
 いやまさか。久秀は浮かんだ感想を否定する。言うまでもないがこれは絵だ。絵が動くのは真夏の音楽室か美術室と相場は決まっている。
 しかし、世界の常識学校の怪談七不思議は今まさに覆されようとしていた。

 「………」

 久秀は無言で宝刀を引き寄せた。逸品相手に何をと冷静な自分が嗤うが、では目の前の光景は何だと武将としての自分が警戒を促す。
 怪しいものには最大限の警戒を。戦国を生き抜く掟である。
 船底に水を渦巻かせ、絵の中の船はぐんぐん迫ってきていた。最早船号まで確認できる。宇宙船地球号。久秀にその意味は理解できなかったが、図々しいにもほどがある雰囲気だけは感じ取れた。

 今にも紙を突き破って飛び出しそうなほど異常接近した絵の中の船は、久秀の見ている前で停止した。
 描かれたものであるのに停止という表現を使わざるをえないところに釈然としないものを感じ、久秀は病める時も健やかなる時も離しはしないと誓った掛軸を燃やしてしまおうかと考える。
 しかし燃やしたら燃やしたで呪われそうだ。船に画面を占拠され、情緒の欠片さえ失せた掛軸に未練はないが、得体の知れなさだけはひしひしと感じられる。
 実物を見せないまま魔王に献上してしまおうかと考え始めた久秀は、ふと動くものを感じて船の縁を見上げる。


 絵から人間が生えていた。


 「久しいな、ひーちゃん」

 ニヤリと唇を吊り上げて、絵の中の船から身を乗り出した若い男は上から目線で手を振った。

 「………私には、幽霊の知り合いはいないはずだがね」
 「生憎とワシにもそんな知り合いはおらんのう」

 よっこらせと爺臭い掛け声と共に、男は絵の中から足を抜き堂々と畳を踏みしめる。畳を汚さないためか、ご丁寧にも足袋をはいてくれている。片手に持った桃は果たして土産のつもりだろうか。ありがたすぎて泣きそうだ。
 懐から取り出した煙管を楽しげにくわえ、男は額を押さえる久秀をじろじろ見て呵呵と笑った。

 「ひーちゃんも、随分と老けたものだ。時の流れは残酷だな、あの紅顔が今では白髪頭か」
 「そういう卿は昔から全く変わらんな。少しは人間らしくしたらどうだね」
 「何を言う。ワシとて日々成長しておるぞ」
 「見た目も頭の具合も、目覚ましい変化は無いようだが」
 「良く見ろ。背が伸びただろう」
 「………卿は確か、私と同年だと記憶しているが」
 「むしろ上かもしれんなぁ。年上は敬え」
 「………」

 久秀は激しい頭痛を覚えた。
 掛軸から登場するという非常識極まりないことをしてのけた男の名は
 世間一般には果心居士と呼ばれている彼は、悲しいことに久秀の旧友である。





 久秀が梟雄と呼ばれる遥か以前、まだ少年であった頃からは彼の周りをニヤニヤとうろついていた。
 気がつけばそばにいた幼き日のは、同じ年頃に見えたけれども、そういえば本人がそう言っていた記憶はないし家族さえも謎だった。
 長じて道を違えたかに思えたが、は忘れた頃にやってきて結局付き合いは未だに続いている。もっとも奴は会うたびに奇天烈度を増していくので、久秀としては真剣に縁を切りたいが。

 見た目だけは三十路そこらの、白髪など一本も無い幼馴染は遠慮の欠片もなく久秀の居室を眺めまわし、最後に自分が台無しにした掛軸を一瞥して「いや全く変わらんなぁ」と笑った。

 「いくら老けても、ひーちゃんは器用貧乏のままか」

 戦国の梟雄・松永久秀をして器用貧乏と称するのはこの男のみである。
 物欲肉欲の権化、通った後は焼け野原と囁かれる久秀だ、何故器用貧乏などというかけ離れた言葉を彼の形容として使うのか。
 かつてそう聞かれたは、不思議そうに一言言った。
 「ひーちゃんほど報われない人間はおらんだろう」。ひっそり傷ついたのは秘密である。

 「卿のその意見には賛同しかねるが、私が変わりようもなく、また変わるつもりも無いのは確かだな」

 久秀の主張を述べるなら、自分はただ正直に生きているだけであり、正直であるが故に自分を偽ることも改変されることも無い。
 そうした彼の飄々とした顔を、は至極楽しそうに眺めた。

 「うむ、それでこそひーちゃんよ。まこと天晴れ」

 機嫌よく謳いあげたは持っていた桃を投げ渡した。水分を含んでひやりと冷たい重みが掌に伝わる。
 だがしかし。
 久秀にはただの果物であるはずのそれが最終兵器か何かに思える。だっての土産だ。絵から出てくるような男がわざわざ持ってきたものだ。ほのかな禍々しさを感じるのは人として間違いではあるまい。

 「これ、何を失礼な事を考えやる。風流で知られた身なら、土産付きではるばる訪ねてきた旧友に茶でも勧めようとは思わんのか」
 「……すまんね、少々考え事をしていた。もう一度言ってくれると嬉しいのだが」
 「嘘はもっとにこやかに嫌味を込めるものだぞ。寄る年波に頭が衰えてきたならその桃を食え。そこの仙境からもいできたものだ、痴呆に効くぞ」

 親切ごかして綴られた言葉を一笑できなくて久秀は顔を歪めた。この突飛な話を冗談と取って良いものか否か。
 夢物語と嗤うには相手が悪い。
 ほれそこだ、と手も触れずに船をどけ、久秀の癒しであった掛軸本来の絵を指差すを無理矢理黙殺し、心頭滅却火もまた涼し短気は損気我慢が大事と己に言い聞かせる。
 この幼馴染のおかげで随分心が広くなったと思う。同じだけひねくれたが。

 「………では、この桃を茶受けに一服御馳走しようではないか」
 「わくわくするな。この胸の高鳴りを聞かせてやりたいものだ」

 普通に楽しみだと言えば良いものを、わざわざ身振りまでつけて「昔を思い出すのう」とほけほけ笑う。
 毒でも盛ってやろうか、しかし平然と飲み干した挙句「どれ次はワシが練ろう」などと言い出す様が鮮やかに浮かんで唇を噛みしめる。布があったら噛みたい気分だ。
 何故こんな奴にこんな奴にこんな奴にと思いながら、久秀は通常の三倍気を使って完璧な濃茶を練りあげた。どうだみたか。
 伊達に通とは呼ばれていない久秀は、の薄い唇が茶碗に触れた瞬間勝利を確信した。
 の喉仏が三度上下し、ふうっと小さな息が空気中に吐き出された。そのまま味わうように目を閉じたに、勝ち誇った気持ちで聞いてみる。

 「いかがかな」

 意地悪く、獲物を追い詰める暗い快感が久秀を支配する。微笑を刻んで流し目を呉れると、はがっくりとうなだれた。
 勝った!

 「………ワシは悲しい」
 「ほう?」

 さあ悔しさを見せてみろ。思い返せば幼少の頃から余裕の表情しか見せなかったの涙に、久秀はゾクゾクと酔いしれながら先を促した。
 はらはらと泣きだしたは軽く頭を振り、久秀が全霊を込めた茶を顎でしゃくる。

 「ひーちゃんほどの男が、つまらん枠にはめられてしまうとは……!」
 「ふむ、言っている意味がわからんね。茶の湯とは凡人には理解しがたい、果て無き芸術だが」
 「芸術などと! ひーちゃん、お主の言う芸術がお主を表しきれると思うなら、その桃を食ってみよ」
 「残念だが、果物は自然の産物であって芸術ではないな」
 「笑止。ワシが手ずからもいだ桃よ、一口食せばワシを理解できる」
 「ほう……?」

 久秀は酷薄に笑うと、切り分けられた桃の果実を取り上げた。
 苦し紛れの言い訳だろうが、そこまで言うなら食べたやらないことも無い。
 艶やかな果肉が舌に触れ、瑞々しい果汁が口内に広がる。
 しかし結果的に言うならば、それが久秀の敗因であった。

 「………!!」

 なんだこれは。
 言語を絶する味が津波のように押し寄せる。喉が飲みこむことを拒否しているが、舌もこれ以上この物体を載せておくのを拒否していた。吐きだそうにも金縛りにあったように顎は動かないし、そうこうするうちに脳が現実逃避に走り始める。
 こんなものは桃ではない。果物とすら認めない。断じて食べ物であってたまるか。
 すわ毒かと思ったが、思った瞬間には桃はただの甘い味に変わり食道を滑り落ちていった。口内の後味に舌が喜んでいる。体は実に正直だ。

 「どうだ。まさにワシそのものだろう」

 は得意げに自分の取り分を食べている。まさか私の分だけと訝って彼の桃を一切れ失敬したが、出会い頭の一撃とまるで全てが嘘だと言わんばかりの完璧すぎる桃らしさは全く変わりなかった。そもそも桃を切り分けたのは久秀本人である。

 まるで幻のような一瞬だった。詐欺だ。詐欺に違いない。いっそ見事なまでにだ。
 特に、桃のくせに久秀を騙そうとする面の皮の厚いところなど、そのものではあるまいか。

 は、意気消沈した久秀を面白そうに見守って、「お主もまだまだ青いのう」と呟いたりしていた。





 人間に勝る芸術はない


 シリーズ命題:松永さんをいじっていこう
 芸術は素晴らしいと思いますよ!
 茶道とか特に好きですよ!
 お題はfjordさんより。リンクに貼ってあります
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