旋律が聞こえていた。
 それは秋雨のように、虫の音に溶け入ってしまいそうな声量ではあった。けれどもそのひどく美しい紡ぎは、茫洋とした夢を漂っていた政宗の意識を穏やかに撫でた。
 まるで子守唄のように温かいその歌に、より深い眠りが手を引かれてくる。導かれるまま意識を手放すのは甘美であったが、政宗はあえて睡魔を拒んだ。満たされた眠りより、歌うたいの方を選んだのだ。
 意識がようようと覚醒していく。
 耳をいたわるような歌声が徐々に聞き取れるようになり、髪に微かに触れる指の動きを感じ取った。

 「Good morning.」
 「Ah…」

 政宗が覚醒した瞬間を見越したように歌はとぎれ、耳に馴染んだ声がからかうように挨拶してくる。
 もう少し聞いていたかったのに。気配に敏感すぎる歌うたいは最早続きを紡ぐための呼吸をしておらず、政宗の次の行動を待っている。
 薄く眼を開いた政宗は、笑いを含んだの瞳と、その背景に見慣れた天井を見、己の頭の在り処がの膝の上であることを知った。

 「……っ!?」
 「っぶね、顎に頭突きするつもりか!?」
 「驚いたのはこっちの方だ!」

 泡を食って起き上がると、後頭部に残った感触が嫌がおうにも意識される。
 自分から離したにも関わらず、一瞬それを惜しいと思ってしまった政宗は不貞てに背を向けた。小さく呟いた悪態に囂々と非難が巻き起こる。どこまで本気か知らないが、唇を尖らせているであろうを想像して少し笑った。
 長い長い、それこそ長い道のりを経て、からっぽだった少年はここまできた。
 それを促したのが自分であることがわかるから、政宗の胸に温かな誇りが満ちる。

 「……そういやアンタ、歌もするんだな」
 「クラウンだもん。芸事なら一通りできるよ」
 「Ha, 調子に乗るんじゃねえよ。「歌」や舞はからっきしのくせに」
 「歌や舞ったって短歌と日本舞踊じゃねえか! ダンスならできる! マサムネくらいリードできる!」
 「Oh, 俺を女役にするってか?」
 「望みとあればドレスから作って差し上げますよ?」

 は笑いを含んで申し出た。実際彼のダンスの実力と政宗のそれとは比べるべくもない。は日本的な静の芸事にはとことん向かないが、西洋的な動の芸事はほとんど完璧にこなす。政宗が慣れないダンスで挑んだところで、身長差程度問題にもならない。
 忌々しく舌打ちした政宗をひとしきり笑って、一転「歌、聞いてたんだ」と穏やかな声音で言った。

 「珍しく大人しかったじゃねぇか。明日は雪だな」
 「俺だって賛美歌くらいちゃんと歌えますぅー! そりゃ、天使にラブソングな歌い方も好きだけどさあ」
 「What?」

 政宗の聞き返しに応じ、はポップ調の曲をいくつか披露した。
 夢現に聞こえた歌とは明らかに違う曲調に、政宗は感心したが、少しばかり残念でもあった。
 ラブソングというからには、その、そういう曲だと思ったのに。伊達藤次郎政宗、御歳十九の俗人青年である。

 「異国語か」
 「日本語でも歌えるよ。でも、政宗ならこっちの方でいいかなと」

 確かに原曲の方で構わないが、政宗の英語力はまだ歌の意味を聴き取れるほどのところまで達していない。
 放っておけば更にわけのわからない言語で歌いだしそうなにストップをかけ、政宗は最初の歌の曲名を聞いた。

 「Amazing grace」
 「驚異なる恩寵、か?」
 「そんなとこだね。ちなみに俺の女名も賛美歌だよ。こっちは主よ憐れみたまえ、って意味だけど」

 は意外なところで博識だ。件のキリエ・エレイソンを軽く独唱し、はくつろいだ猫のように笑った。

 「俺は神様を信じてないけど、アメイジング・グレイスを歌えるのが嬉しい」
 「Why?」
 「幸せだから」

 しあわせ、全ての始まりとなったその四文字を、は大切に紡いだ。

 「お前がいてくれて、幸せだ」
 「………」

 は、まるで何もかも満たされたように微笑む。臆面もなく告げられたのは彼が真実そう感じているからで、そう思われていることにどうしようもなく嬉しくなる。
 愛しさとか恥ずかしさとか、そんなものを全て集めて浮かび上がったのは幸福という二文字だった。そこに辿りつくまで幾度も泣いたし苦しんだ、お互いそれを知っているだけに手に入れたこの穏やかな時間が愛おしい。
 政宗はそっとに触れてみた。指先が慎重に頬に触れると、がくすぐったそうに目を和ませる。それだけで彼が満足してしまうことに悶々としないでもなかったが、どんな甘い囁きよりも無防備な笑顔の方が嬉しかった。

 「妙なもんだ」
 「何が?」

 いつのまにか唇が触れあいそうな距離で向き合いながら、触れているのは未だ片頬片手のままである。押し倒してすらいないのだから驚きだ。これだから周囲をやきもきさせているというのに、当の二人はどこ吹く風だ。
 (政宗には、もう少しでも進展したいという気持ちがありはするが、酒場における彼からは想像もつかないほど無欲だったに、まあいいかと戦う前から連敗中である)

 「アンタに会って、生まれなおした気がする」
 「……それは俺もだよ」

 ほどけるように浮かんだ微笑を飲みこむように今度こそ口づける。淡い体温が唇に宿り、少し荒れたそれに触れるだけのキスを幾度も落とす。
 これだから荒れるのかもしれないという考えが頭をよぎったが、これ以上をするまでもなく双方満ち足りてしまうのでそれ以上をすることもない。
 子供の遊びのような口付けの雨が止むと、閉じた瞼がゆるゆると開いた。
 その目に緩んだ自分が映っていて、なるほどこれ以上の幸せはないと、今日もまた政宗は連敗記録を塗り替えるのであった。





 Amazing grace

 連載の大分未来の話。当初ギャグの予定だったのにあれー?
 この二人はくっつくまでも長いが、くっついてからも長そう
 いつまで経っても触れるのをためらっていればいい
 080918 J