目を開けると、知らない天井があった。
 距離感を狂わせるリノリウムの無愛想な白天井、鼻をつく消毒臭、心音と同じリズムを刻む計測装置。
 まるで嘘のように人の気配は無い。

 「……ここは……」

 呟いた声に覚えがあった。子供の高く澄んだ声。起き上がった体を支えた手は小さく白い。
 ぶぅん、耳が痛くなるような静寂が落ちた病室だった。片付けられたパイプ椅子は、寝ている間に来客があったかもしれないという彼の希望を打ち消した。
 彼はひどく無感動な目で整頓された病室を見回すと、ベッドの上で膝を抱えた。

 (しかたない。母上は、ぼくがいらないんだから)





 目を開けると、知らない天井があった。
 年季のいった安っぽい壁紙、微かに漂うのは自室の匂いではないがどこかで嗅いだことのある匂い、無地のカーテンの向こうから子供の声。
 どうやら時刻はとうに昼を回っているらしかった。

 「……Ups, blast it……」

 己のものでないベッドの上に身を起こした途端微かな頭痛がして、政宗は額を押さえて悪態をついた。二日酔いだ。昨日仕事帰りのを捕まえて飲んでいたら、ついつい深酒してしまったらしい。だって底が無いんだあいつ。
 自力で部屋に帰った記憶はない、ということはここはの私室だろうか。政宗は意外そうに辺りを見回した。
 部屋には彼の寝ていたベッドが一つ、箪笥が一つあるだけだ。いくらなんでも殺風景すぎる、生活臭というものがまるでない。
 隣室のよしみかの性格か、彼の部屋にお邪魔したことは何度かあった。
 その度通されるリビングは、縫い掛けの衣装やら経済新聞やら意味不明な曲芸道具やらが転がっていた。雑然としたその様子はむしろ本人の気質を表しているようで、居心地よくもあったのだが。

 (そういや、寝室見たことはなかったな)

 まさかここまで何も無いとは思わなかったけれども。
 そりゃあ、は人懐っこそうに見えて案外警戒心が強いし、越してきた当初などいつでも引っ越せるようにわざと家具を置かなかったくらいだ。それが段々団地に馴染み、リビングを散らかすようになってきたのはいい傾向だと思ったのに、結局彼の本質は何一つ変わってはいないのかもしれない。
 そう考えると無性に悲しかった。落胆したような、裏切られたような気持ち。
 目覚める直前に見た夢を思い出した。

 「Ha…! 俺もヤキが回ったな」

 家族のことなど今更嘆くことでもない。ひとりぼっちで過ごした闘病生活、その間母は一度も見舞にこなかった。仕事が忙しかったと聞いている。
 それならそれで仕方がないと今は思える。しかし溝ができたのは事実で、自分も母もその溝を埋める手段は持たないままだ。
 それを悲しいと思う時期は、もう過ぎた。

 眠気を払ってベッドを降り、部屋の扉を開けるとやはりそこには見慣れたの部屋が広がっていた。
 人形と雑誌とメイク用品で埋もれた机にメモが置いてある。象形文字もかくやという悪筆で書かれた暗号を政宗はなんとか解読した。これが元親あたりなら確実に読めない。要はその字に慣れてしまったのだ。なんて悲しい。

 『眠り姫へv
  俺仕事に行ってきまーす。メーワクかけやがって、重かったぞこの野郎!
  コーヒー豆はオキバショ知ってるだろうから好きに使って。ショートブレッドは棚の三段目、ヨーグルトはれーぞーこ。
  あと何か食べたかったら好きに食べて。じゃあねー♪
  

 読了と同時に腹が鳴り、政宗はノコノコと戸棚を漁り始める。
 メモには突っ込むべきところが山とあるが、今はそれより朝飯、いやもしかしたら昼飯だ。慶次あたりが見たら大喜びするか「恋人同士みたいなメモ置いといてどうして自覚すらまだなんだ」と頭を抱えるかしそうなメモは、哀れにも役目を終えてごみ箱へと旅立った。
 空腹を満たした政宗は、勝手知ったるなんとやらで食器を片付け寝乱れたベッドを整頓する。殺風景な部屋に思うところが無いわけではなかったが、できるだけそこは考えないように。考えたら嫌な夢まで思い出しそうだ。
 ふと、箪笥の一番上の引き出しが僅かに開いているのに気がついた。
 ついでに閉めてやろうとしたが、隙間から光るものが見えて一瞬迷う。右の耳に天使の囁き、「やめとけ俺。他人の部屋をひっかきまわすなんざcoolじゃないぜ?」左の耳に悪魔の囁き、「何が入ってるか見るだけならバレやしねぇよ。のこと知りてぇんだろ?」
 右に左に天秤が揺れる。揺れる天秤を眺めるのは好きじゃねぇ、両方掴んでみせるぞ俺は。でもこの場合両方掴むってどういうアクションを指すんだ一体。
 良心と好奇心の熾烈なる争いは、結局好奇心が判定勝ちした。見るだけなら…と思わず力を込めた指に従って、引き出しがするりするりと開いていく。この時点で客観的に見た政宗は下着ドロと大差ない。

 「……Ah?」

 そこには下着どころか衣服も入っちゃいなかった。そこにはシンプルな写真立てが一つと、綺麗な包装の小箱があるばかりだった。
 写真立てを手に取ってみる。収められた写真に見覚えがあった。
 そこにはと政宗と、小十郎、幸村、佐助、慶次、元親、元就など、見慣れた面子が思い思いの位置とポーズで収まっていた。
 少し前にふざけて撮った集合写真。はそれを大事に写真立てに入れていた。
 小箱の蓋を開けてみる。
 柔らかい布で包まれた中身もやっぱり写真だった。何でもない日常の、何でもない一コマ。小十郎の畑で芋を片手に尻もちをついた政宗、佐助に団子をねだる幸村、いつきと花占いをする慶次、バイクに跨ってご満悦の元親と、背後でバイクに落書きをする元就。
 殺風景にもほどがある部屋なのに、そんな写真が大事にしまわれていたものだから、不覚にも政宗はじんときてしまった。

 酒が残っているせいか緩みやすくなっている涙腺に抵抗していた政宗は、ふと物音を聞いて慌てて箪笥を閉める。小指を詰めて今度こそ涙が滲んだ。
 振り返ると、ベッドの脚にぶら下げられた自分の鞄からぶるぶると周期的な振動音がする。電話らしい。
 舌打ちしつつ発掘して通話ボタンを押すと、「あ、やっと出た」すみません箪笥なんか開けちゃいません俺何も見てません。

 『Buon giorno, マサムネ。よく寝た?』
 「ああ、お陰さまでな。一体誰のせいだ」
 『調子こいたマサムネのせい。なあそれより、お前さっさと部屋帰ってこいよ』
 「What? テメェ、いつの間に俺に命令できるようになった?」
 『一宿一飯の恩義があるもん。それよりいまどこにいるのさ、早く帰って来いってば』
 「Just a moment.(ちょっと待て)帰って来いってことは、お前今俺の部屋にいんのか?」
 『大丈夫、開けたの俺! ユキムラみたく壊しちゃいないからドアも無事!』
 「そういう問題か!」

 清々しく言い切ったに一声怒鳴り、政宗はの部屋を飛び出した。すぐ隣の自室のドアを開け、玄関に溢れる靴の多さにくらりと来る。やばい、これは冷蔵庫空かもしれない。
 全員殴ってやると決心しつつリビングの扉を開けると、

 パンパンパンパンパン!
 「「「「「「「Happy birthday Masamune!!」」」」」」」

 耳を聾するクラッカーと喝采を浴びて、政宗は立ち尽くした。見慣れた自室におなじみパーティー用オーナメントが所狭しと飾られて、テーブルにはピザやら寿司やらケーキやらが隙間もないほど並べられている。クラッカーを持った見慣れた面子が、どいつもこいつもニヤニヤ笑いながら紙吹雪まみれの政宗を見ていた。

 「Birthday?」
 「Yes! 忘れてた?」
 「ドッキリ成功でござるな!」
 「旦那、クラッカー振り回さないで! 料理にゴミが落ちたらどうすんの」
 「ククク…我の計画に狂いはない」
 「よう伊達、いい面だなァ」
 「はいチーズ! その顔もらったよ独眼竜」
 「前田ァ…その写真いくらだ」

 勝手なやりとりを繰り広げる連中の間から、小柄な道化師が進み出てくる。気合い十分完全装備フルメイクのは普段の面影を消し去っていたが、にっと笑った表情は舞台上の彼とは全く違う。

 「Happy birthday my dear friend. We have a party for you, for you, for you! Please enjoy this time! This is our present, because we appreciate you!(誕生日おめでとう、俺の大事な友達。俺たち、お前のためにパーティーしようと思うんだ。どうか楽しんで! これは俺たちのプレゼントなんだ。何故って、お前に感謝してるから!)」

 はそこで区切って、目を和ませた。

 「ありがとう、俺たちと出会ってくれて。ありがとう、生まれてきてくれて」

 小さな手が政宗の手をとった。手はにこやかに、ひとりぼっちだった子供を仲間たちの方へと誘う。
 ああ、こういうのいいな。思わず素直にそう思った政宗は、テーブルの上に鎮座するケーキを一瞥するや顔色を変えた。感動もどこかに吹っ飛んだ。

 「What are you doing?! ケーキに蝋燭何本もブッ刺すんじゃねぇ、クリーム溶かす気か?!」
 「え、でもお前19でしょ?」
 「だからってほぼ1センチ間隔で蝋燭刺すな! 真田も火ィつけるんじゃねぇ、消せ、早く消せ!」
 「はいはい、じゃあ竜の旦那息吸ってー」
 「テメェ猿! 俺に落とし前つけさせようってか?!」
 「そうは言っても、伊達の誕生日だから伊達が吹き消さなきゃなんねぇだろ?」
 「こんな時ばっか正論押し付けんな!」

 酸欠気味になりながらもケーキを救った政宗は、我先に料理に群がる奴らを尻目にソファに沈んだ。もう嫌だ。今日俺の誕生日だよなそうだよな? それなのにどうして俺が一番疲れてんだこんちくしょう。
 ぐったりしていると、紙皿に寿司とケーキを確保したが寄ってきた。

 「だらしねぇなあ。まだ二日酔い?」
 「そんなもんとっくに治った。たくテメェらは人に迷惑ばっかかけやがって……」
 「好意だよ。喜んで受け取るくらいの度量みせろー」
 「受け取ったら胃に穴が開く。……そういやアンタ、なんでそんな格好してるんだ?」

 はよく聞いたとばかりに胸を張り、

 「このあとはショータイムだ! どんなリクエストでもこなすよ」
 「へぇ…」
 「マサムネは、なんかリクエストある?」

 そう聞いた彼は心底楽しそうで、エビの尻尾なんか噛んでいるものだから、政宗は何か眩しいものをみたかのように目を細める。何も無い部屋に写真をしまっていた道化師。
 彼の部屋は、ひょっとしたら彼の本質なのかもしれない。表面、内心、その奥に隠れた温かな本心。
 何かに促されるまま、政宗はを抱き寄せた。「ぅぬぁ?!」エビをぽとりと落として奇声をあげた彼には構わず、腕の中の体温を堪能する。鼻をくすぐるの匂い。部屋に満ちていた匂い。

 「マ、マサ、マサ、」
 「おーっ? 熱いねぇ、ご両人!」
 「ふぁ、ふぁ、ふぁれんちでござるぞうぼぼぼぼぼ?!」
 「いーから、真田ちょっと黙ってろいーから!」
 「ちょ、鬼の旦那気道塞いでるから!」
 「政宗様、そのような育て方をした覚えは…」
 「フン、下世話な」

 一気に集中した視線を鼻で笑い飛ばし、政宗はこう言ってやる。

 「Shut up. 今日は俺のbirthdayだ、ちょっとくらい勝手させろ。―――、これがrequestだ」
 「な、何言って?!」

 茹であがったのうなじに顔を埋め、破廉恥だの信じらんねぇだの政宗様ァァだのの叫びの中、肌に伝わる鼓動に耳を澄ませる。
 目を閉じれば、暖かな闇が迎えてくれた。

 「………Thanks a lot.」

 誰にも視線を合わせずに呟いた言葉は思いがけず広まって、ふっと絶叫が止んだ。彫像のように固まっていたがまじまじと政宗を見下ろす気配がし、ついで小さく吹き出した。
 食べものが載った紙皿をその辺に置き、小さな手が政宗の背をぽんぽんと軽く叩く。

 「どーいたしまして?」

 抱き合っているためか、体を伝ってくぐもって聞こえたその声に、政宗は小さく微笑んだ。





 Buon compleanno

 筆頭誕生日おめでとう!
 なんだかんだで、筆頭ももお互いは勿論周囲に救われてるといい
 080905 J