「風鈴が無いわ」

 そう言っては不満げに唇を尖らせた。口紅を塗らない彼女の唇が夏の光を集めてちらちらと瞬く。イタリアに渡った最初の年、凶悪に強烈な太陽にやられたと荒れた唇を嘆いてからリップクリームを塗るようになった。化粧品は匂いが嫌いだと興味も無いくせに、日焼け対策には熱心なはそんなところで女の片鱗を見せる。

 「それがどうかしたの」
 「大問題よ。情緒が無くなっちゃう」

 日本を離れて早数年、一度もそんな事を言い出さなかったにそんなことを嘆く資格は無いと思うが、僕は気の無い相槌を打って視線を今日の新聞に落とす。義務教育で習わない言葉はもう問題なく読み書きできるし喋れもする。それだけの年月が流れたというのに彼女はどこまでも彼女だった。黒服を纏い自在に弾丸を弄ぶようになってさえ。

 「ブランデーグラスと体温計で作れないかしら」
 「買えばいいじゃない」

 彼女はネット通販という言葉を知らないのだろうか。代替品として挙げられた『材料』のどこに情緒と風情を感じ取るべきなのか理解に苦しむ。理解する気も起きないが。
 社会面を開くと長い付き合いの草食動物が笑っていた。どこだかになんとかという慈善施設を創立したらしい。それに付随する利益を得るために行われた血みどろの抗争など影すら落とさぬ柔和な笑みだ。もっとも彼の主目的は利益でなくて慈善の方であったようだが。

 「赤ん坊がミルクを貰うよ」
 「ああ、例の慈善施設? ツナは虹っ子たちのために作ったらしいわね。無駄だと思うけど」

 その意見には賛成だ。そろそろ昔の草食動物と同じ年になろうかという赤ん坊たちを捕まえて、今更更生などできまい。拳銃やらライフルやらを突きつけられて情けない顔をするのがおちだ。
 性懲りもなくブランデーグラスを引っ張り出して矯めつ眇めつしていたは、でもと前置きして小さく笑った。唇が弧を描く、まるで女のように美しく。

 「いい人ね。あの子達が懐くのもわかるわ」
 「でも、どこまでいっても草食動物だ」
 「ええ。肉食動物より凶悪な、ね」

 空のグラスが呼気を受けて白く濁った。僕は新聞を閉じる。彼女はブランデーと、もう一つグラスを取り出した。

 「我らがボスに」
 「僕はいらない」
 「そう。じゃあ、意味もなく乾杯して」
 「そういうのは好きじゃない」
 「わがまま。ああ、今更か」
 「咬み殺すよ」
 「意味もなく?」
 「咬み殺したくなったからさ」

 彼女は喉の奥で笑う。肉食動物の笑み。リップクリームの唇が吊り上がる。

 「いいわ。でも、ちょっと待ってね」

 そう言ってはブランデーの栓を抜いた。濃い酒の匂いが漂う。
 グラスにでたらめな量を注ぎ、喉を反らして飲み干しにかかる。その喉が上下するたび、僕はじりじりとした欲求に駆られるのだ。
 ああ、咬み殺してしまいたい。

 「ごちそうさま。さあ、いつでもいいわよ」
 「君、アル中になったね」
 「それはあなたもよ」

 彼女は不敵に笑うと、刹那のうちに距離を詰めた。反射的に飛び退こうとする僕の胸倉を掴み、強襲するトンファーさえ無視して、
 唇を介して注ぎ込まれたアルコールに喉が焼ける。

 「……ねぇ? だってあなた、私といるといつも飲むわ」

 私が飲ませるからだけど、と愉快そうに笑いながら、は湿った唇で囁いた。
 トンファーは彼女の頭蓋骨を砕く寸前で止まっている。僕がその手を引くと、彼女も僕を突き放した。遠ざかるブランデーの香り。光の粒を乗せた唇。

 「………いつか、咬み殺してあげるよ」

 吐きだした言葉はブランデーの香りをまとっていた。
 はそれはそれは楽しそうに笑い、僕の視界にその唇が焼きつけられる。





 リップクリームブランデー風味

 「Bugiardo」疾風さんへ、相互記念で献上。
 初書き雲雀さん。やたらと余裕な女主…
 080820 J