包み込むような花の香に代わって、若草の匂いの濃い風が大気を席巻している。清々しい風は奥州の険しい峰々を渡り、野趣に溢れた香りでみちのくを満たすのだ。
 若武者のような風が、草原の真ん中で馬を止めた崇将の髪を靡かせる。崇将の髪は、軍馬で走り回った挙句茂みやら崖やらに特攻するのを好む異母兄よりも、幾分艶があるようで、絵師の観賞にも耐えられそうな美しさだ。顔立ちが整っていることもあり、そのまま役者絵にしても高値で売れよう。瞬く間にプレミア付きになる原画は、間違いなく異母兄が秘蔵する。
 しかし彼自身は、そんな未来の巨大市場には興味の欠片もないようで、いやむしろ気付いてすらいないようで、騎乗した鞍から落ちないように気を付けながらも必死で首を伸ばしては辺りを見回すのに忙しい。右に草原、左に草原。早い話が迷子である。馬に乗れるようになったので、練習も兼ねて峠の茶屋までおつかいに出たのだが、どうやら途中で道を間違えてしまったらしい。
 崇将は顔には出さずに弱り果てた。崇将の後方100メートルほどのところで、草原に潜んだ黒脛巾も顔には出さずに弱り果てた。ブラコン全開な主君に護衛を命じられたのだが、手助けはできる限りするなと厳命されている。危険が及ばない限り、崇将を手助けするんじゃねぇ。その目にあいつの行動を焼きつけて、あとで微に入り細に入り報告しに来い。口述筆記の準備はしておく。つまりは初めてのおつかいスペシャルである。ハンディカムがあれば装備を義務付けられていたに違いない。ちなみに城では、政宗を始め小十郎や鬼庭、成実まで気もそぞろに峠の方角を見つめては百面相をしている。やっぱり自分もついていけば良かったと、誰もが心に思いながら誰かが同じことを言うのを牽制している。

 過保護な保護者たちはさておき、崇将はこうなればと覚悟を決めて馬の手綱を緩めた。幸い用事は済んでいる。あとは城に帰るだけなのだ。崇将に帰り道がわからないのなら、馬に道を問えばいい。なにせ崇将の帰る場所は馬にとっても帰る場所である。うなれ、馬の帰巣本能。鳩に出来て馬に出来ないはずがない。
 崇将を乗せた馬はぱっかぽっかと脚を進めた。背後で黒脛巾が悶え始めた。違う、その方角は右斜め38度ほどずれている!
 黒脛巾はヒーローのごとく崇将を救いに行こうかと思い詰めだした。これがきっかけで崇将と仲良くなったらどうしよう。同僚たちに妬まれるかもしれない。未だ名前を覚えて貰えない成実に嫉妬されるかもしれない。いやそれ以上に、政宗を向こうに回して崇将と真実の×××、どうも妄想癖の激しい黒脛巾のようである。

 草むらから立ち上る電波にはとんと気付かぬ崇将であったが、彼は彼で馬の進む先に別のものを見出したようで、おや、と小さく手綱を引いた。草に埋もれるようだった黒髪がくるりと動き、馬上の崇将を見上げる。「ああ、こりゃどうも」気安さを多分に含んだ笑みである。崇将の無表情が崩れることは無かったが、男の妙な愛嬌に釣られてついかくりと頭を垂れた。妄想から帰って来た黒脛巾が慌てて苦無に手を伸ばす。いつでも崇将を守れるように、臨戦態勢を整えたのだ。
 よっこいせ、とじじくさい掛け声をして男はひょろりと立ちあがった。旅装であるが、身形からして武士だろう。背はそこそこだが細身である。まるで葦が生えているようだ。

 「良い天気ですなあ。暑くもなく寒くもなく、まさに晩春の面目躍如」

 どう答えたらいいものか、崇将はとりあえず小さな相槌を打った。男は何が嬉しいのか、にこにこと崇将に笑いかけ、「野駆けですかな」と問いかける。
 知らない人についていってはいけませんと出掛けに小十郎から受けた訓戒を思い出した崇将は、ゆっくり首を左右に振って否定を示した。自分は兄に頼まれて、峠の茶屋までおつかいに行ったのである。買ってきて欲しいと頼まれた団子を包んだ風呂敷にちらりと目を遣ると、男はそれで何か察したらしい。随分と鋭い男である。

 「ああ、何か御用がござったか。これは失礼、失礼。しかし良い日に御用に出られましたな。この陽気なら、馬を走らせるのも楽しかろうて」

 加えてこの清々しい香気ときたら。男は嬉しそうに深呼吸した。つられて崇将も大きく息を吸い込んだ。濃い草の匂いに肺が満たされる。いささか濃すぎる気がする。どうも、男は濃い草の匂いを纏っているようだった。歩き回って付いたというよりは、草の間を転げまわって全身に汁をつけたとでも言えそうだ。そういえば、彼はどうしてこんな道もない草原にいるのか。まさか、本当に草の間を転げまわっていたわけではあるまい。
 崇将の視線を感じたのか、男はああ、と小さく呟くと、右脚を軽く上げて見せた。

 「長旅のせいか齢のせいか、ちょいと脚が疲れましたもので。脚の疲れを取る草を探してここに参りました。やれやれ、出不精が祟りましたなあ」

 脚絆の間から、ところどころすりつぶした草が見えている。オオバコというのです、と男は言った。この辺りに群生しているらしい。興味を覚えた崇将は馬を下りようと奮闘する。

 「ああ、ああ、危ない。若衆殿、そこは左の鐙に力を入れなされ」

 見ていられなかったのか、男はひょいと崇将の体を支え、慣れた調子で着地させた。長い間騎乗したままだったので、地面が揺れるような感覚を覚えながら、崇将は短く礼を言う。崇将より少し高い位置にある顔は、こともなげにどういたしましてと笑い、素直な子は本当にええのうと誰かと比べるような独りごとを零した。

 「……オオバコ、というのは……」
 「おや、興味がおありかえ? これですよ。多分見たことはありましょう。どこにでも生えている草ですから、覚えておけば便利です」

 腰痛に効くかどうかはわかりませんが、筋肉痛にはよく効きますぞと効能を教えられる。崇将は、今度兄上にオオバコの湿布をしてあげようかと考えた。しかし政宗が腰痛やら筋肉痛やらを患っているのを見たことがないことに思い当り、湿布の出番は当分なさそうだと思い直す。落ち込んでいるのが伝わったのか、男は慰めるように軽く崇将の肩を叩いた。

 「若いうちは縁が無いかもしれませんがの、誰しもそのうち湿布と相思相愛になりますぞ」
 「………」

 彼は一体何歳なのか。
 見た目は随分若いが、かける言葉は老人のそれである。そのうち灸の据え方についても語りだすのではなかろうか。

 「ところでお前様、ちょいと道を教えてくれませんかの」
 「道……」
 「うん。温泉郷に行きたいんですけども、ここらの有名所……いや、養生で有名な温泉はどこかのう? 近場に食で知られた所があれば最高」

 それは本来、旅に出る前に調べることではないだろうか。
 若者のぶらり旅でもあるまいに、しかし男は本気のようだ。困るのは絶賛迷子中の崇将である。道のことならこっちが聞きたい。

 「………鳴子、なら、兄上から聞いたことがあります」
 「鳴子! なるほどのう、やはり…。おおきんなぁ」
 (おおきん…?)
 「ああ、ではこちらはお礼」

 男は自分の荷物をごそごそといじり、ぽん、と、崇将の小さな菓子を置いた。季のものと呼ぶには些か気の早い形である。

 「宮島名物、もみじまんじゅう」
 「色々早すぎませんか」
 「先取りですわい。味は美味いですぞ」

 何せあの方を釣るために持ってきましたからな、と楽しそうに笑い、毒見のつもりか、男も同じものをパクリと食べた。
 好奇心に駆られた崇将が菓子をひと口かじり、その表情が好転するのを確かめた男は、どこに隠し持っていたのか薄い木箱を取り出して「兄上とお食べなされ」とにっこり言う。

 「わっちの主君に食べさせるつもりでしたから、つまらんもんは入れとりません。気になるなら鬼喰い(毒見)してくだすっても構いませんがの」

 近々挨拶に参ります。隆元様に政務押し付けて温泉旅行に逃亡した山猿を捕まえたらすぐにでも。
 菓子折りを受け取りはしたものの、男の暗喩することがわからずに、崇将は眉を微かに寄せる。男はそういえば名乗っておりませんでしたな、と取ってつけたように言い、親しげな笑顔と武将の抜け目なさを織り交ぜた表情で名乗りを上げた。

 「毛利元就が一の家臣、と申します。以後よしなに――――伊達、崇将殿?」





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 「夢と現のはざまに」島さんへ!
 劇場型犯罪(未遂)前に試作したのをサルベージ。

 110519 J