今日はもう無いことを知る



    
 少年、加藤団蔵には定評が二つある。

 一つは馬術。
 学年一と称しても誇張ではないその手綱捌きは、彼が馬借の息子として物心付くか否かの頃から馬と共にあった生活と、彼自身の天性の才能あってこそだろう。学年一と呼ばれる少年がゆくゆくは学園一と呼ばれるのはそう遠くない未来だろう、ときっと彼を知る誰しもが思うことではないだろうか。

 そしてもう一つ。
 これはもう既に学年一、いや学園一と言っても過言ではない定評が。




 「とりあえず、『は』と『ほ』の区別が付く程度には頑張りましょうね。団蔵くん」
 「…はーい」

  加藤団蔵の定評其の二、それは字の壊滅的なまでの汚さだった。




 事務員・は忍術学園でも字の綺麗な人として上位の位置に居る人物である。
 本人は『結構癖のある字だと思うんだけどなぁ』とか思っていようが、回りが綺麗だとそう言えばそれは定着するものであり、事務員と言う立場上において字が綺麗である事は褒められるべき美点だろう。
 例えそれが極当たり前のことだろうと、周りが周りなので字が綺麗であることはとっても良い事なのである。余談では有るが、少なくとも事務主任の吉野先生は彼女の字が綺麗である事をとても有り難く思っていたりする。

 そんなに会計委員会委員長で六年い組在籍の潮江文次郎が泣き付いたのが昨夜の出来事である。
 泣き付いたと言うより頼み倒したというか拝み倒したというか…面倒を押し付けたというか。
 彼だって最初は自分自身の手で教えようと努力はした。

 そう、努力 は したのだ。
 
 でも努力じゃどうにもならない事も世の中あるらしい、と今更ながらに悟ってしまったらしい。
 彼女に頼み倒してる彼の背中からほんのりと滲み出る、疲れと無念とその他エトセトラ。
 …地獄の会計委員長の手を持ってしても、会計委員・加藤団蔵の字の汚さは直せなかったらしい。
 出来ることならば彼だって人頼みになどせず、自分の手で教えたかっただろう。
 だが六年生であること、会計委員会の委員長と言う立場であることなどから、お世辞にも暇だと言い切れるはずもなく、それなりに潮江文次郎も忙しい身の上だった。
 そんな忙しい中、帳簿の文字が読めない。原因は言わずもがな、字の汚さ以下省略もとい加藤団蔵だった。
 数日で更に濃くなった自身の隈の上の目には薄っすらと涙が乗っかってるようにさえ思える。

 必死なその頼みようにまでも涙目になりそうな気分だった事に、彼が終ぞ気付く事はなかったが。

 そんな普段見ることのない光景の横を素通りしようとして素通りできなかった人も居た。
 一年は組の教科担当・土井半助先生だった。
 何事かとこっそり耳を傾けてみればそれは自分の生徒の事であり、更にそれが字の手習いの事であればもう。
 土井半助、二十五歳。素通りすることなんて出来なかった。

 潮江文次郎の横に並んで、「さん、私からもお願いします…」とダメ押しとばかりに頼み込む。デフォルト装備の無表情がうっかり決壊しそうだった。もう既にその無表情の下は涙目だったのかも知れない。
 私も忙しいんですが…などと言おうものなら、そこを何とか!そこを何とか!と更に頼み込まれ押し込まれ。

 「………わ、かりました。引き受けさせて…頂きま、す」

 事務員・は押しに弱かったらしい。
 承諾の言葉と共に彼女は深い深い溜息を吐き、男二人は満面の笑みを浮べていたのは言うまでもない。






 「慌てなくても良いんです。まずは止め、跳ね、払いを落ち着いて丁寧にやってみてください」

 頼まれた次の日。
 一日の授業も終り、委員会の為にほんの少し憂鬱な気分で会計室へと足を運んだ団蔵は、委員長である潮江文次郎に「委員会の方は良いから事務員のさんの所へ行ってこい」と問答無用で放り出された。
 何が何だか解らないままに、言われたとおり彼女が居るだろう事務室にまで足を運べば。

 そこにあったのは二対の机と筆と半紙。

 その内の一つに彼女は座っており、「さぁ其方へどうぞ」と何時もと同じ口調であるはずなのに否定を許さないような、そんな雰囲気で言われてしまえば団蔵は座るより他はなかった。
 そして始る、いろはにほへと。

 「さーん…」
 「今日の目標はいろはにほへとの一文だけですから、頑張りましょうね。団蔵くんはやれば出来る子なんです、私はそう信じてます」

 その声援にちょっぴり傷付いたのは団蔵だけの秘密だ。
 けれど、己の字のどうにもならないこの壊滅具合をそれなりに自覚しているので、団蔵に文句など言えるはずもなく、結果、黙々と筆を動かすだけに止めた。
 何となく口答えしちゃいけない気がする。加藤団蔵はどうでも良い所でまた一つ賢くなった。

 白と黒の半紙は、の手に渡るたびその姿を朱に染める。
 傍らにはくしゃくしゃに丸められた半紙の山が一つ二つ三つ四つたくさん。

 「ほ、ほら、ちょっとだけ前よりはずっと平仮名になってきましたよ団蔵くん…!」

 何か物凄く失礼なこと言われてる気がする。
 でも団蔵は口には出さない。出したら何か色々終る気がするし、本気で。

 「さん。これ…これが書き終わったらもう寝ていいですか俺…!」
 「ええ、合格点だったら寝ても良いです。その時は私も寝ますから…!」

 そんな台詞は手習い開始から数えて、もう既に軽く五十回は越えていたりする。
 更に月は中天を過ぎてもう下り坂だった。心成しか東の空が薄っすら紫色に見えなくもない。
 くしゃくしゃに丸められた半紙の山は十個を越えた辺りから数えるのが馬鹿らしくなり数えるのを止めた。
 きっと山が崩れれば女性と言うのを差し引いても小柄なと、まだ一年生という小さな団蔵はきっと半紙の山に埋もれて沈む事になるだろう。
 普通に屑篭にでも捨てれば良かったのだろうが、屑篭が一つじゃ足りなかった故の結果である。


 生物委員会が管理している飼育小屋の一つから、こけこっこーと何とも長閑な鳴き声が聞こえた。

 (今日のご飯は鳥の唐揚げが出るといいなぁ)

 なんて言葉がの頭の中では横切っていたのだが、あえて触れない方向で行きたい。
 変わらぬ表情の口から「うふふふ」とだけ漏れ出るその光景はさながらホラーだ。

 「お、めでとうございます…。いろはにほへと、ちゃんと、読め、ます、…よ…」

 朱墨でくるりと丸が打たれた半紙を団蔵に手渡して、は丸められた半紙の山に突っ込む。
 あわあわと慌てる団蔵を尻目に、半紙の山からはぐぅという小さな寝息だけが響いた。






 


 が半紙の山からむくりと起き上がったのは太陽も中天を過ぎようとした頃だった。
 せめて顔を洗いに、と井戸へと向かった彼女に道中会った土井先生はぽんっと肩を一つ叩く。

 「おめでとう、さん。…団蔵の字を解読できるようになって」

 遠くで会計委員長の怒号と、小さな会計委員の謝罪が混ざった悲鳴を、は心の底から聞こえない振りを決め込むのだった。




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 「I wait for you.」のENさんが、「身に覚えがある人は持ち帰りOK」と仰ったので、「よっしゃ俺身に覚えある!」と即座に奪取してきました。
 下心は持つに限りますね…!(それもどうかと
 あああENさんの団蔵のかわいいこと、かわいいこと…!!
 無表情事務員さんのさりげないかわいさもキラリと光っております。別方向へ横滑りした努力の成果に、土井先生の隣で熱いお茶を勧めます。
 ENさん、下心キャッチありがとうございました!(笑
 090322 J