色糸



 山中で見かけた忍びに指笛を鳴らす。続けて三度、そして長くもう一度。すると影がさあ、と動いて、鳥が一声鳴いた。
 晴信は不安そうに嘶いた馬を宥めながら山道を進む。晴信の思う娘の住まう館はもっと山の麓近くにあるのだが、一月前に忍びを使って文を届けたから今は側仕えの数も少なく山奥の山荘に籠もっているはずだ。淡雪の中に佇んだ白百合のようなその清々しい姿を思い浮かべては急く心を理性で宥めて幾度か。
「はるのぶさま」
 清水の音に紛れて鶯がさえずった。木立の間から萌黄色の衣の娘が足取りも軽く、息を切らせながらこちらへと走ってくる。綻んだ薔薇(そうび)の色をした頬は明るく、柳の糸のような髪の乱れも彼女の美しさを引き立てる要素にしかならない。
 騎馬から降りた晴信は喜色を隠しもせずに、駆けてくるその人を大きな体躯で抱き留めた。
「てる、久しいな、健勝だったか」
「はい、はるのぶさまもおすこやかなごようす、なによりにございます」
 そう輝虎は微笑んで、その身体をくったりと晴信へと凭せ掛ける。お逢いしとうございました、と呟く声が梢に溶けていくように広がった。まるで触れ合った箇所から蕩けるような、そんな歓喜が胸を震わせる。
 晴信は輝虎を騎馬に乗せ、手綱を引いてゆっくりとした足取りで山道を進んで行った。
「越後にも、ようやっと春が来たようだな」
「はい」
「越後の国はどうして中々、冬は気が早いし春は春でのんびりしておる」
 晴信が拗ねたように言ってみせると、輝虎がころころ笑う。衣(きぬ)の上を黒髪が滑る微かな音に誘われるように晴信が振り向けば、馬上の彼女はびっくりしたような顔をして頬に色を昇らせた。
「冬が来れば、山は越えられん」
「……はい」
「春が来ねば、道も閉ざされたままよ」
 晴信の馬は身震いもせずにじっとしている。見つめる彼女がいるのはたった数歩の距離しかない。きびすを返してその距離を詰めた。
 ……一、二、三。
 たったそれだけの距離を詰めるのに費やしたのは途方もなく感じられる程に長い冬。凍えていないだろうか、あの白い手を寒さで傷付けてはいないだろうか、己が焦ったとしても春は気を利かせてくれないというのに、そんなことばかりを考えていた。
「長いなあ、てる」
 腕を伸ばせば容易く触れられる。限られた一時のこととはわかっているが、それが晴信には震える程に嬉しい。両手で頬を抱けば触れた箇所が温かった。長うございます、と蕾のような唇が僅かな時間震える。
「ですが、そのひさかたのつきひも……、わたくしのこのねつをさましてはくださらなかったようなのです」
 爪の先が大きくごつごつした手に触れた。長い睫毛が恥じらいを乗せて伏せられる。輝虎が心なしかうつむき、晴信は息を止めて顔を近付けた。脳裏に浮かんだのは、花に誘われるように飛び回る蝶々。花弁にとまり、そして接吻を捧げる。
 遠く梢の間から風が吹いて、風の指先に撫でられた花弁が揺れた。輝虎は赤い頬ではにかんだまま、じっと晴信の次の言葉を待っている。その無垢な眼差しに急に羞恥が込み上げて彼は思わず視線を反らしてしまった。
 待ちかねていたように晴信の愛馬が歩みを始める。
 さわさわ、と木々の葉擦れがいつもよりも初々しく柔らかい音を奏でる中、さ、ゆこう、と少々上ずった声で告げた晴信の足元は、春の陽気のせいかぎこちなく浮ついていた。




 +++

 「空想地底都市」ニキさん宅が5万打記念にフリリクを募ってらしたので、これ幸いと若竜虎をリクエストしてきました。
 出家前謙信様=輝虎=女名「てる」は二人の合言葉なんだぜ!
 お互い硬い口調なのに、この可愛さはどういうことだろう。この恥ずかしさはどういうことだろう。
 ニキさんは甘い話を書く天才だと思うのであります。表現も相変わらず綺麗ですしね…!
 ここで注意、「きれい」ではなく「綺麗」です。言葉の感じがより複雑で繊細なのです。
 お忙しい中、素敵な若竜虎ありがとうございました…!!  100808 J