野火



 そう、儚く甘い夢だった。白昼の夢は夢と知りながら甘美であり、夢から醒めたことは誰を責められるものでもない。
 醒めた、とわかっていながら、晴信は夢の残滓を現に追っては密かにため息を繰り返している。いくら女たちが美しく着飾ろうとも、艶めいた笑みを向けようとも、嗚呼、あの悲しげな微笑の方が美しかった、と思うだけ。
 越後の使いからだと近習の源五郎が差し出したのは、品の良い漆と銀で細工された飾り箱であった。使いの者は、主からの個人的な書状であることと返書は受け取らぬよう言い含められていることを告げて、一息つく間もなく去って行ったらしい。
 盆に載せられたそれに一瞬眼をやった晴信は、源五郎を常のように傍に寄せるでもなくぎこちなく手を振って下がらせた。
 庭では鶸(ひわ)がチチ、と鳴いている。
 晴信は飾り箱を手元に引き寄せ、じっと見下ろす。細部にまでこだわった上等なそれは舶来品であろうか。箱を括っている紐は鮮やかな萌黄色で、花の形に結ばれている。
 しばらく苦い心地で開けるか否か迷った晴信は、一呼吸の後、無骨な指でいっそ似合わない程の紐をゆっくりと引いた。しゅる、と小さな音を立てて花が散る。もう二度と同じようには結べないだろう。
「……華が散りよったか」
 物憂げに眼を細め、晴信は口の端だけで皮肉げに笑った。華が散れば一体何になるというのか。ただむざむざと地に落ちて朽ちて逝くだけのはずはなく、かといって天上の曼荼羅曼珠(まんだらまんじゅ)となる訳でもない。
 意を決して蓋を開ける。箱の内側は鮮やかな朱で塗られ、目が覚める程だった。
「……」
 そして文でも入っているのだろうと思っていたそこには、懐紙に包まれた一房の艶やかな髪と、古歌の書かれた短冊が鎮座しているだけである。
「冬がれの野べとわが身を思ひせばもえても春を待たましものを……」
 指に捕らえられた一房の髪は、甘く芳しい香を放って皮膚の上をすり抜けた。苦さがじわり、と胸に広がる。それはまるで本物の輝虎のようだった。
――もしもこの身が冬枯れの野辺であるのなら、野火に燃えても春を待とうと思うのに。
 諦めと、僅かに残された悲哀。散った華は、春も冬すらも失ってしまったのだ。
 晴信は慌てて飾り箱を遠ざける。堪える間もなく、滔々と涙が溢れ出た。肉を削り取られるような心地すらして、噛み締めた口から嗚咽が漏れる。輝虎は、一体何を思うて髪を殺ぎ、何を思うて散ったそれを見下ろしたのか。
 晴信はただ声を押し殺して泣いた。これで最後なのだと思った。冬を嘆くこともなく、春を待ち焦がれることもなく。ただただ季節の外で、思いは、時は、過ぎていく。
 彼女がその存在を掛けて守った二人の思いを、晴信が無遠慮なまでに踏み躙って良い訳がない。彼は涙を拭って再び飾り箱を手に取った。
 蓋を閉め、紐で括った。上手くは結べなかったがそれでも良い。庭に出て下男を呼び付け、枯葉を庭先に集めさせた。
 火を、と言うと下男は不思議な顔をして、落ち葉の山に火を着けた。小さく燻っていた火は勢いをつけて燃え広がる。晴信は瞑目するように一瞬眼を閉じ、そして手にしていた飾り箱を火の中にくべた。
 最初に萌黄の紐に火が着いた。紐全体が火に呑まれ、次いでゆるゆると箱自体が炎の中に沈んでいく。嗚呼、最後の残滓が、あの恋の骸が、燃えていく。晴信は全てが燃え尽きて火が消えるまでじっとそれを見つめていた。
 そしてそこに、たった一握の幻が残る。




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 若お館様×謙信様の悲恋にきゃーきゃー騒いでいたらニキさんがくださいました…っ!
 自分たちの立場を見極めて、別れを選んだ二人の厳粛なこと。
 返事を受け取らない、送るだけでも相当葛藤したであろう謙信様の声なき叫び。受け止めて、燃やし尽くしたお館様の噛みしめた涙の苦味。
 不覚にも、泣かずにはいられませんでした。
 ニキさん、本当にありがとうございました!
 090322 J