メゾン戦国中央棟101号室住人織田信長あだ名は魔王尊敬する人は歌丸師匠。日曜夕方には笑点をハイビジョンブルーレイディスクで録画する姿が見られる。老後は妻と二人夫婦漫才でデビューするという大望を秘めており、こっそりネタ帳をまくっては「なんでやねん」とツッコミ練習に精を出す日々である。 さてそんな信長だが彼にはお笑いの他に好きなものが二つある。 そのうち一つは、寡黙で厳しい昭和の親父・ダンディズムの塊たる信長が語ることはない。 婉曲的に言うなら、それが何であるかを察した悪友(と言っていいのかは微妙だが)松永久秀は「いい加減にしたまえ」とうんざりげんなりするだろう。お菓子をせびりにくるはにんまりするだろう。謙信とか信玄とか年配者は微笑ましく見守るだろうし、政宗を始めとした若造たちは顎が外れるほどに驚くだろう。 ともかくそういうことである。 もう一つの好きなものは酒である。 それを聞いたら妻の濃は目をぱちぱちさせるだろう。息子の蘭丸はコーラを取り落すだろう。光秀は消毒用のアルコールをコップに注ぎそうだ。殺。 見た目から判断するなら妥当だが、実は信長は下戸である。ビール一缶で酔いが回る。日本酒などとんでもない。ウィスキーはバレンタインのチョコレートボンボン以外に手を出したことはない。白状するとそれすら3日にわけた。だが根性で食いきった。何故なら結婚前に濃から贈られた最初のチョコレートだったのだ。ホワイトデーにはヴィ○ンのバックを久秀に選ばせたが、流石の久秀もヴ○トンのバックがたかだかチョコレートのお返しだとは思わなかったようで、あまりに額の違うお返しに濃がうろたえたため、久秀は悪鬼の如き信長と対峙する羽目になった。理不尽だ。 閑話休題。 それではそんな信長がどうして酒が好きなのか。 それはこういうわけである。 金曜日のアフター10、そろそろ夜も遅いといわれる時刻だが、街はまだまだ眠らない。 目前に控えた土日に空気さえも活気づいており、人波は途切れずネオンも明るい。賑やかな通りから一歩入った道にもそれなりの人通りがあり、歩行者は時折足を止めては気に入った店に入っていく。 その中の一軒に、落ち着いた灯りが燈るバーがあった。 蜂蜜色に照らされた店内は広くもないが狭くもなく、随所に客がくつろげる工夫が見られる。棚やカウンターにはいくつものウィスキーやビールの樽が並んでいる。ラベルは英語フランス語イタリア語ドイツ語その他の言語が見え隠れしており、品揃えの豊富さが目を引いた。大きな瓶には自家製のシャングリアが漬けられていて、赤ワインの深い色合いと白ワインの黄味がかった透明さの対比が美しい。女性客が多いのか白ワインの方が減りが早いようで、この分だと明日にも補充をしなければならないだろう。 「シャングリアが終わっちゃったら、果物は洋菓子にしちゃおう」 「それは素敵ね」 落ち着いた店内には不似合いでさえある声が明るく恐ろしい未来をプランニングする。 そういうセリフはまともな料理ができる人間が言うものだ。無責任に煽らないでくださいお客様。 フライパンを握りしめ、店長は内心で絶叫する。 「ねえてんちょー、シャングリアの白終わっちゃったら果物俺にくれませんー?」 「そそそそれはちょっと!? お、お菓子ならおれが焼くよだってほらあれだお前いつも手伝ってくれるからたまにはお礼もしたいし!」 「え、ほんとに!?」 「ももちろん吉法師にもやるよ、常連だしお前お菓子好きだろ?」 「まあ、よろしいんですの?」 「………是非も無し」 よし危険は回避した! 心なしか嬉しそうな古馴染みの気配に安堵する。安堵の息を吐く年齢不詳のバー店長を尻目に、抜け目ないバイト君はいそいそと録音機からデータを取り出し始めた。言質はとったということか。 ウーロン茶ばかり飲みつつニョッキをつまんでいた信長は、カウンター越しにとなんの焼き菓子を頼むか相談し始めた妻をそっと見遣る。 雰囲気を出すために絞られた光に照らされて、陰影の浮かんだ濃の横顔が美しい。信長に比して、彼女は酒が強かった。しかし顔に出ないまま酔う信長とは違い、濃の場合はアルコール一口で頬がぽっと染まり出す。すべらかな薄い肌が紅潮するその様はまるで薄衣の向こうで花が開いたような愛らしさがある。ああこれだから酒はいい。 酔いはしないが酔ったように見えるその頬に、酔ってしまいたいと思うが口には出さない。 一度久秀相手にこういうところが可愛いと思うと言ってしまったことがあるが、聞かされた久秀は苦痛を堪えるような渋面を作った。むかついたので仕事を倍にしてやった。もう二度と言うものかと思う。濃のかわいいところは自分だけが知っていたいのだ。 そう誰にも言うものか。全ては信長だけの秘密である。 軽快にシェイカーを振る酒専門のは、店長ちょっとたくさんお菓子を焼いてくれないかなあと考えていた。 最近は見事な仕事人間で、昼はイベント夜はバーのバイトをしている。秋はかきいれ時なのだ。芸術関連のイベントが多数催されるため、にも多方面からお呼びがかかる。 本当なら少し休みが欲しいところだが、季節だからといって普段のバイトを全てやめるわけにもいかず無理に無理を押している。 店長は中々いい人なので(というか子供に甘い。一体この人はいくつなのだろう)、シフトは減らしてくれるし早目に上がらせてくれる、ついでにお弁当も作ってくれる。 しかしそれでもやっぱりこの季節は忙しい。おかげで部屋には寝るためにしか帰っていない。生活時間が微妙にずれたため、お隣さんともまともに顔を合わせない日が続いている。 (お菓子貰ったからおすそ分け、って理由があれば、話し掛けられる、よね) 例えばくたくたに疲れた時。例えば幸せそうなカップルを、親子を見た時。 無性に政宗に会いたくなる。話をしたくなる。 けれども帰宅時間が深夜なものだから部屋に押し掛けるのは気が引けて、かといって朝っぱらから尋ねる用事もなく。毎朝扉を開けるときは少しの期待を抱いている。挨拶がしたい。ほんの少しでいいから話がしたい。だけどもきっかけがわからない。 そんな風だったから、はきっかけが欲しかった。 「君、どうしたの?」 「え?」 濃の声で我に返る。 どうやら黙り込んでいたようで、心配そうな濃や濃がを気にしていることを気にしている信長や「やっぱり疲れとるんだろう、今日はもうあがったら?」と言ってくれる店長やらがいる。は慌てて両手を振った。 「な、なんでもないなんでもない! Mi scusi, 急に黙りこんじゃって」 「それは構わないけど…本当に大丈夫?」 「Si! ……あれ、ノブナガサマ、ニョッキもう食べちゃった? 何か作ろうか?」 「、お前さんは作るなよ。――吉法師、何ぞ食べたいもんはある?」 「む…」 「あ、はい。じゃあ豚肉のビエノワーズをお願いするわ」 「よし。帰蝶はなんぞいるか?」 「それじゃあ私は、エル・ディアボロ」 「Si! お酒ならまっかしといてー」 それぞれの注文を聞き、カウンターの中が楽しげに動き始める。ことさらは誤魔化すかのように弾んでいて、グラスを片手に鼻歌まで歌っている。 「それにしてもノーヒメ凄いねぇ。以心伝心テレパシー?」 「え?」 「だって、ノブナガサマ『む』しか言ってないのに伝わっちゃうんだもん」 「え、ああ、それは……」 ちら、と濃が信長を垣間見る。信長はそっぽを向いて目を合わさない。 彼女はそんな夫をしばらく見ていたが、やがて視線を戻してしょうがなさそうに微笑んだ。小さな諦観を見てとっては僅かに眉を寄せる。 一方信長は信長で、にやけそうな頬を抑えつけるのに多大な努力を払っていた。うっかりその顔を見てしまった店長が豚肉を取り落すが知ったことではない。 とりたてて意識したことは無かったがそういえば自分と濃は以心伝心だ。まるでおしどり夫婦のようではないか。ナミヘイさんとフネさんだ。フネさん並に濃が自分を想ってくれているなんてと幸福にひたりつつ、そんな濃のために良きナミヘイさんになろうと決意する。ただし髪だけは死守してみせる。頭頂に一本などという未来は濃のためにも避けねばならぬ。 ちなみに濃は濃で、信長に何を期待していたのだろうと自問している。愛していると思うし愛されていると思う、ただ信長は滅多にそれを表に出してくれないだけだ。 まあだからこそ偶のさりげない優しさだとか気遣いだとかがかえって嬉しくて、そのたびに上総介様が深く想ってくれていることがわかるからいいのだけど。いつの間にか思考がノロケに横滑りを始める。あの夫ありてこの妻あり。 悲しげな擦れ違いが一転して甘々しい空気が漂いはじめ、はああなんだ心配いらないみたいだと開きかけていた口を閉じる。好き好んで馬に蹴られる趣味は無い。 ふと羨望が湧いた。いいなあ、その一言が心に落ちる。 何も言わないでわかりあえるなんて羨ましい。一瞬後、そう思った自分に首を傾げた。 (そんな相手、いらないのに) そんな深い絆怖くて持てない。わかりあえないまま、人と人の間を漂っていくのが丁度いい。 刹那主義にも似たその生き方を、は己の生き方として肯定している。例え相手が政宗でも、そんな絆いらないのだ―――それにあいつは友達だし! そんな心配一切不要! 深く考えたら負けの気がしては即座に思考を畳む。熟れた果実のように深紅のエル・ディアブロを差し出して。カウンターに肘をついた。 「ねえ、ノブナガサマとノーヒメのナレソメを教えて?」 妙な思考を忘れるには別の話題で興奮するのが一番いい。は軽い気持ちで水を向けたが、信長と濃は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、見事にシンクロした動きで相手の顔を伺った。 ばちりと噛みあった視線に即座に顔を逸らす。かわいいなあとは思うが、彼自身同じことをしょっちゅう繰り広げている身でもある。我が身は冷静に見れないものだ。五十歩百歩。 「小童には、百年早いわ」 「えぇー、いいじゃん。素敵な話はいくら話したって減るもんじゃないよ」 にやにやとつつくを睨みつけても暖簾に腕押し糠に釘。 信長とて、濃との馴れ初めを話したくないわけではない。むしろ大声で吹聴したい。当時の濃の写真を引っ張り出し拡大コピーの末ポスター化して、彼女が今も昔もいかに美しかったか夕日に向かって絶叫したい。 しかし同じだけ秘密にしておきたくもある。誰が自分と濃だけの思い出を公表してなるものか。大事なものばかりをつめた宝箱には濃との思い出がまるで朝ラッシュの電車のようにぎゅうぎゅう詰になっている。 ちら、と信長はもう一度濃を見遣る。恥ずかしげに俯く姿。どうだ美しいだろう。彼女の周りに大輪の薔薇が見える。頭に花が咲いている。大分酔いが回ってきたようだ。 思い返せば昔から彼女は美しかった。けれども最初は愛しいなんて思わなかった。それが上総介様、あえやかな唇がそう綴るたび恋の深みにはまっていった。絶対口には出さないが、若い頃は突っ走ってやんちゃしていた信長は、気付けば見事に恋に落ちていたのである。 だがそういえば、と信長はふと不安に駆られる。 濃は、いつ自分を好きになってくれたのだろう。 そういう話はしたことがないので当然聞いたことはない。ナミヘイとフネになれたのだって時が齎してくれた恩恵だ。彼女は一体自分のどこを、何を愛してくれているのだろう。ふさふさの髪の毛だったらどうしよう。とりあえずリーブ21かアデランスの電話番号は控えておいた方がいいかもしれない。 密かに揺れる男心を知らない濃は、好奇心旺盛なをそっと呼び寄せた。 アルコールの甘い匂いを含んだ吐息が色っぽい。 「どうしても、知りたいの?」 「Si! だって凄く幸せそうなんだもん」 「あら。…ありがとう、というべきかしら?」 実を言うと濃だって誰かに話してしまいたい。ただでさえ女子は恋話が好きだ。休み時間にトイレに放課後、寄り合っては飽きもせず誰かの話を繰り返す。それがどんなにささやかなことであっても、彼女たちには人生の一大事なのである。これほど楽しいものはない。 だから濃も恋話ならどんと来いだが、ちらりと流し目をくれた先にはふてくされたように黙り込む信長がいる。自分の視点で語るよりは信長の視点から自分たちの過去を聞いてみたい、そう思うのはとても自然なことだろう。好きな人の目に自分がどう映っていたか、気にならないはずがないのだ。 だが信長は話すまい。それなら自分も聞かせてなんてやるもんか。 どうしても聞きたければ、その貝のように固い口で尋ねてみれば良い。そうしたらいくらでも話してやろう。奥手な信長に、それはどれほどの勇気がいることであろうか。聞いてくれたらいい。自分の事をどう思っていたか、そう躊躇いがちに聞いてくれたら。 白髪になっても訪れないであろう未来を想像して、濃はわくわくと目を輝かせているに「やっぱり駄目」とお預けを食らわせた。 「えぇー、そんなのってないよ!」 「ふふ、ごめんなさい」 でもね。でもね。 濃は声量を落とし、にだけ聞き取れるように囁いた。 「上総介様には、秘密にしておきたいのよ」 「……俺にじゃなくて?」 「ええ」 その言い回しにはにやりと唇をつりあげる。 じゃあ、と反駁した。 「ノブナガサマがいない時なら、聞かせてくれる?」 「ええ、いいわよ」 「やった!」 喜ぶを微笑ましく眺めながら、濃はエル・ディアブロに口をつける。爽やかな甘さが喉を滑り落ちていく。 これが悪魔って名前だなんて変なものねと考えながら、濃は頭の隅でこう思った。 (でもその時は、あなたの恋話も聞かせてもらうわよ) まつにも連絡しとかなきゃね、楽しみだわあと濃は笑った。隣で信長がその微笑みに見とれている。手持無沙汰な信長はふと濃の手を握りたくなったのだが、うまいタイミングが見つからずカウンターの下で手をぶらぶらさせるに留まった。 不満げな信長に気付いたのは、一体いつ豚肉のビエノワーズを出せばいいのか苦悩する店長だけだった。 秘密(あなたには) |
かわいい織田夫妻を書こうと思った 信長様を書くには力量が足りなかった 081016 J |