ひどい青あざをこしらえたその男は挨拶もせずに人の部屋に上がり込み、やたら深刻な表情で実に下らないことを訊いた。
 曰く、はなぜ怒っているのか。

 話を聞くに、日曜、つまり今日の午後公園を通りかかったらいきなりに襲われて殴られた。それだけなら問答無用でが悪そうなものだが、どうやら彼の暴挙はギャグ漫画みたいな青タンを作った政宗に原因があるらしい。涙目のくせに、政宗の必死の追及にも頑として口を割らないというのだから佐助は彼の根性を手放しで褒めたが、怒りを向けられた政宗はたまったものではない。謝ろうにも、理由がさっぱりわからないのだ。わからないまま謝ったらはますます怒るだろう。
 塩を振りかけたナメクジみたいに元気を無くした独眼竜は、悪いが非常に笑えた。
 (どうせこの男は、これが原因での旦那に嫌われることを恐れているんだろう)

 そんなことあるはずがないのに。

 「……Hey monkey、何笑ってやがんだコラ」
 「いや、だってさぁ」

 要するに痴話喧嘩だ。が何故怒ったのか、何故政宗に口を閉ざしたのか、うんざりするくらい知っている佐助は笑うしかない。
 と同じアパートに住む佐助は、一ヶ月前の約束から今朝のの浮かれっぷりまで鋭すぎる観察眼によって知っている。いそいそと出かけるを見た時、佐助は思わず生ごみの袋を足に落とした。何その恋した女子中学生みたいな顔。
 それが10時になる前で、今が5時21分。政宗が来たのが4時前で、話によると公園事件は2時過ぎに起きたらしいから、は4時間以上公園で待ちぼうけをしていたことになる。よく帰らなかったものだ。少なすぎる朝食しか摂らない彼にとって、昼を抜かすことは激しい苦痛であったに違いないのに。

 (いや、空腹よりむしろ、独眼竜にすっぽかされたことかな)

 あの嬉しそうな横顔が、段々曇り、俯いていくのは想像するに忍びない。佐助には政宗のどこがいいのかさっぱりわからないが、政宗に対してだけ妙に脆いところのあるあの道化師は、零れそうな涙を必死で堪えていたのだろう。政宗が現れたとき、すぐに笑えるように。
 それなのにあろうことか、肝心の政宗は約束をすっかり忘れ、公園で待っていたに気づかず、目の前を気だるげに通り過ぎようとした。そりゃ殴られてもしかたないと佐助は思う。

 しかし、あの存外淡白ながあそこまで浮かれ、4時間も待ち続けただけでも驚きなのに、感情を露わにして食ってかかったことが意味するものに、この男はさっぱり気付かない。
 に嫌われたと落ち込む政宗は、彼に友人以上の好意を抱いているのだろう。
 それなのに、の方からも似たような気持ちを少なからず向けられていることを、どうして気付けないのか。恋は盲目とはよく言ったものだが、盲目的なまでに見つめているなら気付く機会も多いだろうに。

 「あのね旦那、この映画知ってる?」
 「Ah? 今日封切りの映画じゃねぇか」

 基本的にギブアンドテイクが信条で面白がりの佐助なので、このすれ違いを放っておくという手もあったのだが、それだと馬に蹴られそうな予感がしたので今回は一肌脱いでやることにする。そろそろ夕飯の準備をしなければならないので、このやたらでかくて邪魔なガキを追いだすためでもある。

 「の旦那が興味持ってたね。覚えてる?」
 「Yes あんまり看板凝視してるもんだから、通行人が引いてたな。だから、俺が……」

 続きを言えずに、独眼竜は固まった。
 思い出した? 佐助の問いかけにも反応しない。だらだら冷や汗が流れている。それこそが応えだった。

 「の旦那、ずっと楽しみにしてたよ」
 一ヶ月前から。昨日も今日も、すごくはしゃいでたなぁ。
 政宗に正しいが優しくない真実を教えてやる。頭には冷蔵庫の中身を思い浮かべる。豆腐、菜の花、鰆、キャベツ、人参、エノキ、あと昨日の残りのひじきと、

 「Please tell me(教えてくれ)……は、何時に部屋を出た?」
 「10時前」

 よし、豆腐の野菜炒めと焼き魚(味噌ダレ)。あとひじき。
 献立を決めた佐助が視線を戻すと、「やっとお帰りかー」玄関扉の閉まる音がした。





 月曜日の朝、容赦なく響き渡るベルが乱暴に伸びた手に止められる。手はもぞもぞと布団にもぐり、部屋は再び静寂に戻る。
 外で雀の声がした。どうやら今日も晴れらしい。布団の中では胎児のように丸くなる。頭が痛くて瞼が重い。(Porca miseria……(こんちくしょう……)あいつのせいで)思い出すだに腹が立つ。それ以上に悲しかった。があんなに大事に抱えていた約束は、政宗にとってはそうではなかった。期待なんてする方が馬鹿だとよく知っているはずなのに、それがどうしようもなく悲しい。
 ぐす、と鼻を鳴らす。新しい涙が溢れてきて乱雑にシーツで拭う。擦った皮膚が痛かった。鏡なんて見るまでもない、ひどい顔になっている。
 昨日、政宗をタコ殴りにしてアパートに帰るや、着替えもせずに布団にもぐりこんで声を殺して泣いた。自分でも抑えきれないほど、心が荒々しく波立っていた。泣きたくてしかたなかった。あんなやつあんなやつあんなやつ、枕を殴っていい加減疲れてきたら気絶するように眠り、目が覚めたらまた泣いて殴ってを繰り返し。気がついたら朝になっていたが、ろくに寝た気がしない。腫れた目は不快だししゃくりあげた喉は痛いし泣き疲れて頭痛はするし、とにかく最悪だった。昨日の朝から食べてないのに、食欲さえわいてこない。大好きなコーヒーも、今は見たくもなかった。

 「み゛ず……」声は見事に枯れていた。
 いらだちをこらえてベッドから降りると、火照った足の熱をフローリングの床が吸収して気持ち良かった。靴下は脱ぎ散らかしたままになっていたので、途中で拾って洗濯機に放りこむ。皺だらけの服も脱がなければいけないが、面倒くさくてやる気にもならない。
 コップに汲んだ水道水はカルキ臭かったが、傷んだ喉を潤してくれた。
 飲み干して一息ついた時、玄関のベルが鳴る。耳に残響。コンビニの音みたいなそれはの神経をささくれ立たせた。
 無視しよう、そう決めてさっさと背を向ける。俺はどっかに出かけてますよ、そうじゃなかったらまだ寝てる。けれども訪問者はよっぽどの急ぎの用か意地悪か、しつこくベルを鳴らし続けた。ぴんぽんぴんぽんぴんぽん、「あ゛−もう、う゛るせえな!」こっちは喉が痛いんだこんちくしょう。

 頭に当たれとばかりに勢いよく玄関扉を開くと、案の定小気味のよい音がして訪問者はのけぞった。その姿に見覚えがありすぎるほどある。服から香った甘い匂いは昨日にはなかったものだったけど。
 客が誰なのか理解した途端は即座に扉を閉めた。しかしそれよりも、客が足を挟む方が早かった。かなり痛そうな音を出してワークブーツを扉と壁の隙間に突っ込み、締め出されるのを阻止した政宗が額を押さえた渋い顔でを見下ろしている。

 「っ、な゛んか用がよ?!」
 うわちょっとやめてあっち行けよこんな声なんだから、違うそうじゃなくて俺はお前に怒ってんの!

 腫れて極端に狭くなった視界で政宗の顔を見上げるのは正直しんどい。むくんでひどい顔になっているのは承知なので扉の影に隠れて叫ぶ。政宗は言葉を探すように微妙な沈黙を生んだが、扉に手をかけて隙間を広げるとそこから紙袋を突っ込んできた。真白で愛想のない紙袋。ふわりと甘い香りが漂う。

 「……?!」
 「…………その、すまなかった」
 「……ッ、!」

 政宗はぼそぼそと謝罪の言葉を口にした。悪かった、約束を忘れてしまっていた、本当に俺が悪い。昨日のうちに謝りに来ようかとも思ったが、情けねぇけど無理だった。英単語は一つもなかった。

 「お前、待っててくれたんだな。昼も、食べないで、だから、これは、あーなんだ、腹減っただろうなって……き、昨日のことだがっ!」
 がさり、紙袋が揺れる。甘い香りがした。それは鼻に馴染んだ香りで、政宗は知らないはずのイタリアのお菓子だ。には匂いだけでわかる。なにせ散々食べたのだから。
 「カンノーリ……」シチリアのドルチェ。甘いクリームとリコッタチーズの懐かしい味。
 紙袋を掴む政宗の指が光っていた。バターやら粉砂糖やらがついている。どうやってかレシピを見つけて、手作りしたらしかった。彼は奇抜すぎる創作料理を作るので忘れられがちだが、レシピ通りに作れば案外腕は悪くない。
 は呆然とバターに塗れた指を見た。紙袋を提げたまま、が受け取らないから途方に暮れたように宙に浮いている。扉の向こうの政宗の顔が想像できた。情けなく眉を下げて、息を詰めているに違いない。

 「………悪かった」
 「………本当に、ぞう思っでんのがよ」

 憎まれ口を叩きながら、声はもう政宗を許していた。ノブを離して紙袋を受け取る。触れた手が氷のように冷たかった。カンノーリはまだ温かいから長く外にいたというわけではない。それほど緊張していたということだ。
 俺ってばつくづく甘いなあと思いながら、は玄関扉を開けた。昨日の服のまま、全身で安堵している政宗がいる。

 「な゛っさけねぇ顔」
 「……お前こそ」

 壊れ物に触るように、甘い匂いのする手が伸びてきた。自分の手がバターや砂糖に塗れていることに一瞬躊躇して、目を擦らないよう慎重に涙を拭う。はそこで初めて、自分がまた泣きだしてしまっていることに気付いた。

 「………上がれよ。茶ぐらい淹れでやる。ガンノーリ、朝飯にじようぜ」
 「………OK、俺が準備してやるから、お前は顔洗って来い。あとでのど飴やる」
 「ズィ(Si/わかった)」
 「、」

 紙袋を再び政宗の手に返し、洗面所へ向かおうとしていたは呼びとめられて振り返ろうとした。しかしそれは結局叶わない。政宗の腕が伸びてきて、背後から抱き締められたから。甘い匂いがした。カンノーリと春の匂い。
 硬直したを確かめるように、政宗は一度深呼吸した。息が首筋にかかる。あらぬことを連想しては真っ赤になった。嫌だ怖いまだそこまでは、まだって何俺!
 耳のすぐそばで、政宗がぽつりと呟いた。ほとんど無声音の、吐息まじりの。

 「Thank you very much……」
 「っ、You’re welcome」

 どこを見たらいいかわからなくて、カーテンが床に描いた模様を見た。光の綾。柔らかな陽光は昨日よりも暖かそうだ。
 季節はもう、春らしい。





 Spring Monday

 政宗さま救済篇
 かっこいい政宗さまも好きですよ?(笑)
 080314 J