春の陽気に誘われて、なんて口に出したら彼を知る誰もが爆笑すること必至の理由に背中を押されて散歩に出かけた。
 花の咲き誇る季節には少し早いが、確実に芽吹きを予感させるぬるんだ風は嫌いではない。
 枯草の間を縫って顔を出す若緑を見るともなしに楽しみながら足を動かす政宗は、アスファルトを割ってほころんだ野草を見つけて苦笑した。決して派手ではないがかわいらしい花を咲かせたそれは間違っても政宗には似合わないが、それが似合う人物を彼はよく知っている。性別という概念をどこかに忘れてきたようなその知人は、去年の春、一日中子供とはしゃいだ挙句黒髪に大量の花を差して帰ってきた。赤青黄色、文字通り頭に花を咲かせた奴のせいで、春の小花を見ると条件反射で思いだしてしまうようになってしまった。
 そういえば彼はどうしているだろうか。
 臆面もなく気障なセリフを吐くイタリア帰りの彼こそ春の散歩は似合いそうで、実際それを実行するような奴なので、探してみようかと惰性で思う。散歩に出たのは要するに暇を持て余したからなので、暇つぶしになりそうな思いつきを得たのは僥倖だ。以上の暇つぶしはそうそういない。
 歩きながら、頭の中に奴がいそうな場所を思い浮かべる。しかしすぐに政宗は眉を寄せた。心当たりがありすぎる。あの道化師は神出鬼没もいいところで、まさかと思うような場所でも平気で出没する。近寄らない場所の方が少ないんじゃないか。
 さすがにシラミ潰しに探すだけの気力はないので、政宗は早々に諦めた。もうちょっと生息地を限定しておけと八つ当たり気味なことを思う。大体には落ち着きというものが絶対的に欠けている。
 仕方が無いので煙草でも買って帰るかと思いなおし、取扱店への道順を思い浮かべる。
 愛煙家の政宗だが煙草ならなんでもいいというわけではない。気に入りの銘柄以外は吸わないという厄介な性質で、その銘柄というのがやたらマニアックだから、自販機はいわずもがなそこら辺の店でも買えない。そもそも彼にその銘柄の味を覚えさせたのがなので、彼がどうやってか見つけ出した小さな輸入品店でしか売っていないのだ。
 今日は定休日ではなかったはずだとカレンダーを思い浮かべた政宗は、何かひっかかるものを覚えて記憶の糸を手繰った。
 何か大事なことを忘れている気がする。
 いやそれほど大事じゃないかもしれないが。それでも何か……、

 「……shit」

 思い出したのは最近気に入っているのだとが口ずさんだポップスで、その時の彼の唇が機嫌の良い猫のようだと思ったことを覚えている。
 解きほぐせない記憶の糸は気持ち悪かったが、かといって答えが浮かぶわけでもなかった。少しくたびれてきたブーツが若い雑草を踏んで進む。ガードレールの白は新品でもないのに意固持に白い。その色の取り合わせがわけもなく春なのだと実感させて、その長閑な雰囲気に疑問がどうでもいいことのように思えてくる。
 気を取り直した政宗はのんびり歩いて行った。まどろみの中のような空気が頬に気持ち良い。
 煙草買ったら一服して、そのあと昼寝でもするかな。自堕落な一日を計画しつつ、小さな公園の前を通りかかる。暖かい日だったので、公園からは子供のはしゃぐ声が響いてくる。舌っ足らずの歓声と軽い足音。春なのだ。政宗は長閑さに息を吐く。
 その頬を、衝撃が襲った。

 「!?」

 油断していたところに勢いのついた拳を叩きこまれた政宗は思わずよろけ、バランスを崩して無様に転ぶ。反射的に頭は庇ったが、パステルブルーの空に放り出された脚が見えた。スローモーション。こんなところまで春はスローテンポをもたらすらしい。
 何が起こったのかわからず、仰向けのまま瞬きを二回。いつのまにか子供の声が止んでいて、政宗はそれを不思議に思った。
 ざり、アスファルトと砂利が擦れる音。視界に数分前頭を占めた道化師が顔を出す。

 「……Hi」
 「Ciao」

 異なる言語の挨拶は間抜けに二人の間に漂った。心なしかの声音が不穏な色を帯びている。
 は相変わらずユニセックスな見た目にユニセックスな服を着ていた。一癖ある装飾が好きな彼らしく、着こなしの難しそうなアイテムをひどく自然に取り入れている。そのあたりのセンスは一目置いていたりするのだが、季節を意識したであろう柔らかな印象の服飾も今は台無しだ。何せの顔からは今までにないほど常の賑やかさが消え失せ、不機嫌さがにじみ出ている。
 どうやら彼が自分を殴り飛ばしたらしい、と理解すると当然だが怒りを覚えた。

 「何しやがる」
 「自分の胸に聞いてみやがれ」

 立ち上がった政宗ととではかなり20センチ近く身長差があるが、睨み上げるは少しもたじろがない。いつも何かしら笑みを含んでいるいたずら小僧の目は、珍しく険しい光を宿している。空といい足元といい柔らかな春色に溢れているというのに、だけが柔らかさの欠片もない。彼が発散する空気は間違いようもなく怒りを含んでいて、それが染みたように午睡の心地よさを纏っていた公園に緊張感が満ちていく。子供の声が聞こえた。歓声でなく泣き声。母親たちが慌てて我が子を手元に抱く。

 「Ha! 心当たりなんざねぇな」
 「………ホントに?」
 「Of course!」
 「Vaffanculo!(馬鹿野郎!)」
 「あ゛?!」

 苦々しく吐き捨てられたイタリア語はと付き合ううちに覚えた単語の一つで、政宗は思い切り眉間に皺を寄せた。いきなり殴り飛ばされて、謝罪どころか罵られるなんてどんな理不尽だ。
 しかし、迫力のない女顔を思い切り歪ませたの目元がひくひく痙攣しているのを見つけて握りしめた拳に待ったがかかる。はせわしなく瞬きしながら政宗を睨みつけていたが、大きな舌打ちを鳴らして背を向けた。線の細い背中だ。動きに合わせてなびいた髪の毛が、首筋の細さを見せつける。
 考える前に手を伸ばした。掴んだ肩は少年の危うさを際立たせたように細い。肩は大きく跳ねて、はすぐに政宗の手を振り払おうとしたが許さず正面を向かせる。毛先が武骨な掌を掠めた。

 「……何泣いてんだ」
 「泣いてねぇ!」

 確かに零れてはいなかった。感情をストレートに表すくせに妙なところで自制心が強いの頬は乾いたままだ。けれども眼のふちはアイシャドウをつけたように光っているし、随分潤った瞳をしている。鼻だって赤い。滅多に彼は泣かないから、泣く一歩手前の今を泣き顔にカテゴライズしたって問題はないはずだ。

 「離せ、この大馬鹿野郎」
 「お前が荒れてる理由を教えたら離してやる」
 「荒れてねぇ」
 「荒れてんじゃねぇか」
 「荒れてないから離せってば」
 「荒れてねぇんなら何で俺を殴った? Ah?」

 遊びを中断した子供たちはいつの間にかいなくなっていた。不穏な空気を読んだ母親たちが連れ帰ったのだろうか、砂場にはスコップやら消防車のおもちゃやらが置き去りにされている。
 子供がいなくなった公園で、拗ねた子供のような表情を浮かべたはいらいらと頭を動かした。決して政宗を見ようとしない。
 泣きそうな顔をしているくせに意地を張るは見慣れた彼とは別人のようだ。
 普段から子供っぽい男だが、その子供っぽさとは何か違うものを感じる。拗ねた顔は子供そのものなのに。

 「ジゴロジトクだ」
 「………自業自得?」
 「どうでもいいだろ!」

 イタリア暮らしの長いは、時々妙な日本語を口走る。
 そういえばさっきもそんなことを言っていたと、怒り心頭のが吐き捨てた言葉をもう一度検証した。自分の胸に聞いてみろ? 思考に沈んだ政宗に肩を掴まれたまま、は段々と居心地の悪そうな表情を浮かべていく。こうなったら実力行使でと不穏な考えが浮かび、鳩尾に狙いを定めたところで「あ、」政宗が声を上げた。

 「Perhaps…何か、約束してたか」
 「Dannare, vaffanculo!(地獄に堕ちろ、馬鹿野郎!)」





 日曜午後2時17分

 政宗がダラダラしてる間、は昼食も食べず4時間くらい待ってたという話。
 律儀者でもたまには忘れることもあるよ!
 080313 J