その記事を見つけた時、は「ぐにょおう」と奇声を発してべしゃりと潰れた。 否、正しくは膝をついただけのだが、その背中に子泣きジジイの如く圧し掛かる疲労とか疲労とか疲労とかのせいで実に無様ながっくりっぷりであったので、傍目にはその煤けた姿は潰れたとしか形容できない。 はどんよりと恨めしげな視線を上げた。受け止めるは、ポストに突っ込まれていた地方情報誌である。 曜日的に突っ込まれたのは昨日の夕方。ちゅんちゅん雀の鳴く声を聞きながら、バイトから帰ってきたばかりのはどよーんと爽やかな朝にふさわしくない影を背負う。 「よりにもよって夕勤の日かよ…」 着替えもせず(そんな気力は無い)ソファに寝転んで、鞄から引っ張り出した手帳を開く。一縷の望みに縋ったところで、繁忙期な上人手不足な職場のシフトはしっかりばっちり克明にボールペンで書きこまれている。 目当ての日の前後もがっつりバイトが入っていて、は嫌そうに手帳を閉じた。時給に釣られて連勤入れたのがまずかった。毎日バイトの予定が入っているというのは精神的にかなりきつい。しかも遅番ばかりだから、近頃は昼夜逆転生活だ。常の陽気さはどこへやら、やたら疲れて何かをする気力もわかない。 休暇ってほんと大事だなーと改めて思い知る。洗濯物もしたいがそれ以上に命の洗濯をしたい。カムバックめくるめくルージュの夜と(自主規制) 「…仕方ねーか…仕事だもんな……」 そう呟いて、目を閉じる。忙しさは本当凶器だ。心がかっさかさのぴっしぴしで潤いというものがたりない。気のせいかお肌の調子も悪い気がする。全く日本人はよくこんなものに耐えられるものだ。エコノミックアニマル=揶揄は見当違い、気をつけろその動物はグラディエーターだ。この過酷な環境に耐える彼らはエイリアンよりも自販機の裏側に潜む×××よりも平穏な生活を脅かす。もしも彼らが天下を取ったら導入されるであろうカレンダー、月火火水木金金なんてそれどんな地獄。 黒縁メガネのグラディエーターとブラインドタッチのエイリアンが仲良く机を並べて仕事する映像に魘されながら夢の世界へ紐なしバンジーを敢行したの手元から、地方情報誌がはらりと落ちる。床に散らばった情報誌、折り曲げられたイベントページにはライトアップされた桜の写真。春の宵を歩きませんか。時間は21時まで。バイト帰りに寄ったとて、確実に桜は闇に沈んでいる。の手帳はバイトがぎっしり詰め込まれ、花見の予定も特にない。来る新緑の季節をクラウン業で満喫するには、今はバイトで稼がなくてはならないのだ。 遠く、しかし確かに聞こえる不思議な音が鼓膜を波状攻撃する。うぃぃぃぶぃぃぃと響くそれは虫の羽音ではありえない機械的な音声で、未だ睡魔に囚われた脳がそれの正体をぼんやり考えるが答えは出ない。何の音だろう。綿雲で作ったベッドのような快適さが思考をゆるゆる絡め取る。ああ考えるのも面倒くさい。今はまだ眠っていたい。だって睡眠は天国だ。アモーレ睡眠、ビバ睡眠。ベッドでなくともこんなに快適な寝心地が保証されるだなんて嘘みたいだ、テレビが桜の開花を声高に宣言した後も思い出したように寒い日があるというのに、ソファに倒れこんだだけのは寒さを覚えることも無い。これも睡魔の為せる業か。もし悪魔と契約するなら睡魔と契約しよう。 うぃぃぃぶぃぃぃうぃぃぃ。 ああうるせぇなあ、はもぞもぞと身じろぎする。奇妙な音は相変わらずの波状攻撃。 俺と睡魔のランデブーを邪魔するとはいい度胸だ。覚えてやがれとむにゃむにゃ呟いたの目には、無粋な闖入者がレンガを背景にサーチライトで照らされているのが見えている。闖入者はムンクの叫びのような、思いっきり上下に引き延ばしたあんぱ●マングミのような顔をしていて、UFOに乗って逃亡を図る。うぃぃぃぶぃぃぃ、なるほどあの音はUFOの飛行音か。 「逃がすか、M78星雲まで天の川を蜂の巣にしてやる!」 やたら物騒な宣言と共に飛び起きた。自分の口走ったセリフで目が覚めた。やばいやばい、ウルトラなヒーローを射殺したら日本中のちびっ子及び大きいお友達を敵に回すところだった。 は大きく息を吐く。夢って本当飛躍が凄い。そう思ったところで、おかしなことに気がついた。 「……ベッド?」 彼がその身を横たえていたのはソファではなくベッドであった。服こそ変わってなかったが、きちんと上着を脱がせて布団までかけてある。 は首をひねる前に眉を寄せた。一体誰がこんなこと。自慢じゃないが自分は中々警戒心が強い方だ。誰かが触れるどころか同じ室内に入ってきただけで目が覚める自信がある。それなのにソファからベッドに運ばれて上着まで脱がされても気付かないとは、なんという不覚。行動から察するに敵意はあるまいが、存在に気付かなかった、その一事で恐怖を呼び起こすには十分だった。 息を殺し気配を殺し、はそろそろとベッドを下りる。 寝室において、ベッドの他には唯一の家具であるチェストからジャグナイフを引っ張り出し、逆手に構えて視線一筋分だけ静かにドアを開けた。 うぃぃぃぶぃぃぃふんふんふん。 ずっと聞こえていたUFO飛行音(仮)の音が大きくなり、何だかやたらと機嫌のいい鼻歌が漏れ聞こえる。 それが誰の声かを察したは思わずドアを蹴り開け、手首のスナップを利かせてナイフを投げた。腹立たしいことにナイフの風切音に気付いた的は瞬時に身を引き、ナイフは天井から吊るされたてるてる坊主の顔面をぶっ刺して振り子の如く揺れる。 うぃぃぃぶぃぃぃぃと、掃除機の音だけが部屋に響いた。 「……っ、テメェ何しやがる!」 「うるせぇ、お前こそ何してんだよ!」 マトリックスな政宗の非難に怒鳴り返す。マトリックスな政宗は全体重をかけた脚をぷるぷるふるわせ、その絶妙なカックン具合だとか腰骨に負担がかかっていそうな体勢だとかがの欲望を刺激する。ああ今すぐ足払いをかけたい。もしくは腹の上に腰かけたい。 不穏な空気を察したのかマトリックスな政宗は、ええい言いにくいマサムネックスは反動を利用してマサムネックスから普通の政宗の状態に戻った。こういうと変身ヒーローみたいだが、もちろん彼は全身タイツでもなければ仮面も付けていない。髪の毛一本にいたるまで米沢産純政宗100%である。 「大体どうやって部屋に入ったんだよ」 不法侵入か? のもっともな疑問に対し、政宗はハァ? とばかりに眉を寄せて苛立たしいことこの上ない顔を作った。人を小馬鹿にした表情がこれほど似合うとは。よっしゃ松永や佐助と同じ括りに入れても問題ねぇな。本人が聞いたら締め上げる勢いで拒否しそうなことを問答無用で決定する。 そんなこととは知らぬ政宗は、ポケットからやたら可愛らしいキーホルダー付きの鍵をかざして見せた。ちゃらり、鎖の先に取り付けられたピノキオが政宗の指の上を滑る。 「テメェが寄越したんだろ」 最近忙しいから掃除頼むとか押しつけやがって。 この俺をパシるとは覚悟できてんだろうなと言う割に、家政婦としての仕事は満点だった。綺麗に掃除機をかけられた床、窓の向こうで気持ちよさそうに揺れる洗濯物。 あれそんなこと言ったっけ、と思い返すだが、元々記憶力の乏しい頭は事実を記録してはいなかった。バツが悪そうにMi scusiと謝るだったが、ちらりと時計を見上げて悲鳴一閃。 顔を洗うのもそこそこに財布やら手帳やらをかき集め適当な鞄に放り込み、慌ただしく玄関に向かうを壁に寄り掛かった政宗が眉を寄せて見送る。 「随分busyな生活してんじゃねえか。休むことも必要だぜ?」 「Ho capito(わかってる)! 今日は早番なんだ、10時には終わるから、それからゆっくり休むさ!」 言い捨てては玄関を蹴った。鼻をついた春の匂いに桜の海を想像する。桜が見たい。ゆっくり見たい。しかしは湧きあがった衝動を抑えつけて、通い慣れた道を走った。 バイトを終えた帰り道はひっそりしている。 昼間は春の気配で浮き立つようだというのに、夜は未だ冬を抜けきらず人通りも少ない。ぽつぽつと忘れ物のように灯る街灯を辿る家路は何とも言えず寂しいものだ。 途中渡る橋から土手を見れば、夜目にも満開とわかる桜の影。あいにく街灯の光はその姿を浮き上がらせるには弱々しく、薄紅色の花弁も特濃のコピーのように灰色にしか見えない。 諦めていたが少し悲しい。いくらイタリアナイズされていようとそこは日本人、あるいは美しいものを愛するスローフードの国イタリアにどっぷり首までつかったからこそ余計、桜の季節を思う存分堪能できないというのは――― どうしようもないループに陥っていたは、ふと人の気配を感じて顔を上げた。 街灯の下に誰かいる。 こんな時間に一体誰だ。口裂け女か。露出狂か。 前者ならイタリア男の意地にかけて投げキスをかました直後全力で逃げるが、後者ならば容赦は要らない。二度と(社会的な)朝日を拝めぬように嗤って縛って吊るしてやる。思う存分「見られる」がいいわ太陽の下で。 悪魔の計略を胸に秘め、亀甲縛りの結び方を思い浮かべたは鞄の中で縄を握る。なんでそんなモンと聞くなかれ。クラウンの鞄はドラ●もんのポケットだ。職務質問には注意しなければならない。 しかし、近づくにつれの計略は霧散する。そこに立っていたのは口裂け女でもなく露出狂でもなくましてや警察でもメリーさんでも宇宙人でもなかった。 「マサムネ? お前こんなとこで何してんの?」 政宗が待ち人風情で佇んでいた。畜生絵になる男め滅べと内心どころか小声で呟いたを見るや、モデル立ちしていた政宗はこれが俺のスポットライトと言わんばかりに街灯の光に全身を浸す。安っぽい蛍光灯の光なのにやけに格好いいのはやっぱり元が良いからか。その身に纏う雰囲気一つで主役の座を手にしてしまう北島マヤの同類は、決して嫌味ではない、しかし洗練された流れるような仕草でその手をに向けてまっすぐにのばす。 「follow me. 願いを叶えてやるぜ、Cinderella」 呆気にとられたの手を取り(「ちょ、誰がシンデレラだ!」と我に返ったが騒いだがどこ吹く風だ)、強引に小道へと誘う。街灯が途絶え、視界を覆う闇にの身が強張る。いくら政宗といえど、植え付けられた恐怖は簡単に拭えはしない。その手が政宗のものであることすら霞み、自分を引きずる強い力に本能的な恐怖を覚える。 が本気で抵抗を企てたその時、「この辺か」と呟いて政宗はその歩みを止めた。水の匂いが濃い。吹き抜ける甘い風に、そこが川べりの桜並木であることを知る。 暗闇に沈んだ桜の下で、怒りと恐怖を混ぜ合せたの細い呼吸音が水音に紛れる。 一声も上げない彼の心情を察しているのかいないのか、政宗は「よく見てろ」と機嫌よく言う。悪戯の気配が滲んだ声だ。 「さあ――――It’s show time!」 流暢な宣言と共に光が弾けた。 思わず目を閉じたその瞼の裏が、赤く白く激しく燃える。暴走する棹体細胞と錘体細胞を宥めてそろそろと瞼をあげたは、そこに夢の世界を見た。 淡く、桜が夜闇に浮かび上がる。 黒々とした影を木肌に滴らせ、それとは反対に白々と光を受けた花弁。薄い青を透かし、ほんのりと淡い色を見せる。 楚々としているのに艶やかな花の間から漏れる光は赤く白く黄色く青い。息を呑んだの隣で政宗が頭を抱えた。「Oh my…! 誰だクリスマスのLEDライト持ち出した奴!」「すんません筆頭ぉぉ!」「こっちの方がクールかと思ってぇぇ!」 苦虫を噛み潰し、政宗は「悪ィな。だが、こっちの方が」何か言いかけて言葉を切った。一つっきりの目が見開かれ、すぐに視線は逸らされる。ガシガシと頭を掻き、落ち着きなく視線をさまよわせたが、数えて5秒後に政宗は腹を括った。 唇を吊り上げて、沈黙するの前に跪く。まるで童話の王子様がお姫様にするように。唯一童話と違うところは、かっこつけてんじゃねぇと蹴られる心配があるかどうかだが、幸いなことに今回ばかりはその心配もなさそうだ。 呆けたように抵抗の無い右手を取って、王子様はお姫様に問いかけた。 「Shall we dance?」 答えは拳で返ってきた。 顔正面は回避したが避けきれず頬に右ストレートを食らう羽目になった政宗だが、直後温かな重みが肩にかかる。服が濡れていく感触に鼓動が跳ねあがる。必死で「人人人人ビビデバビデブー」ともごもご唱え、おずおず伸ばした手で幼子にするように背中を撫でた。後頭部から回された手に頬を引っ張られた。 「ばっかじゃねえの」 ダンスはいかがじゃなくてお気に召しましたかだろ、肩口からくぐもった声が悪態を吐く。 ここまできても意地っ張りなに口をついた文句は、頬を抓られているせいもあって間抜けな感じに音が抜けた。無言での手を叩き落とす。 ぶち壊された空気をひしひしと感じる。頑張れ政宗、ここでヘタれたら伊達男ではない。かなり今更な鼓舞と桜の向こうで待機する舎弟たちの熱い視線に自らを奮い立たせ、できるだけクールにキメてやる、 「だが、嬉しいだろ?」 アンタのためだけの夜桜だ。 散らかった部屋で眠るのそばに落ちていた、彼が諦めた希望を政宗が叶えた。 はぱっと顔を上げる。全開の笑顔を浮かべ、賑やかに明滅する桜の影で固唾をのんで見守っている政宗の舎弟たちにも届くように大声で、 「Grazie mille! お前ら、大好きだ!」 桜光路 |
(……お前『ら』、かよ) 政宗心の声(笑 090404 J |