音を出すのさえ憚るように咳きこんだ。口内に慣れた鉄錆臭さが広がる。
 投げ出され、上を向いた右手の指先に夜の色が凝っている。どうやら気絶していたようだ。なんてこと。
 ぼくは一ミリも動かず、即座に状況把握を始めた。室内に人の気配は無し。部屋の外にも気配は無し。残り香のような気配も無し。
 どうやら随分前からぼくは放置されていたらしい。助かった。思わず小さく息を吐く。意識の無いところを襲われたら、流石に死んでしまう。

 (痛…)

 声帯を震わせないように気を付けて、ぼくは痛む体を起こす。体中が軋むよう。ぱらぱらと頭部から零れ落ちた黒い欠片は、多分乾いた血液だろう。夜色に紛れて見えないけれど。
 折れてないかなあと気を遣いながら手足を動かして確かめる。鈍く痛むけど、多分折れてはいない。痣には、なっているだろうけど。
 立ち上がりかけて、足の裏に小さな痛み。体を曲げて皮膚を刺した欠片を拾い上げる。背中がひどく痛んで倒れそうになったが、倒れれば階下に音が響く。片手をついて我慢したが、掌にも何かの欠片が食い込んだ。

 (プラス、チック…?)

 手触りからすると、プラスチックの破片だ。どうしてこんなもの、と考えて思い出す。
 そういえば今日は、掃除機で殴られたんだっけ。
 あなたは誰あなたは誰私の息子はどこをどこにやったのよと泣きながら、掃除機を振り下ろしたおかあさん。ごめん、ごめんねおかあさん。ぼくまた背が伸びたんだ。ごめんなさい。背なんか伸びなければいいのに。

 分厚い夏の闇をかき分けて、ぼくはそっと部屋を出る。
 窓から見えた月は満月に近く、それが傾いているから時刻は深夜なのだろう。戸締りをしなければならない。おかあさんはお父さんを待つようになってから、絶対に扉の鍵をかけようとしない。お父さんがいつ帰ってきても良いように。

 (けどねぇおかあさん、ぼくは知ってるんだ)

 おかあさんはどこにいるだろう。今日も玄関に座っているだろうか。だったら少し面倒だ。おかあさんが寝るまで待たなければ、鍵は閉められない。
 それに夏とはいえ冷えるから、どうにかしておかあさんに布団をかけなければいけない。おかあさんは細い人だけど、ぼくではまだベッドまで運んであげることができない。
 足音を忍ばせて一階へ降りる。途中、いくつかの部屋を通りすぎた。お父さんの書斎、お父さんとおかあさんの部屋、ぼくのための子供部屋。もう随分と使っていない。ぼくの背が伸びた時から。

 一階は、夜の底のように静まりかえっていた。時計の進む音だけが規則的に鼓膜を引っ掻く。
 進むな。未来なんか。
 あの頃から、一番しあわせな頃から早足で遠ざかろうとする時計。大嫌いだ。時の神様がいるのなら、そいつは意地悪のひねくれ者に違いない。
 おかあさんが必死で留めおこうとしているしあわせ、それを過去に押しやろうとするなんて。

 ぼくは息を殺し、一階の戸締りを確認していく。これは大事な作業だ。この家は、おかあさんが守るしあわせで満ちている。ぼくの役目は、家の防御を固め必要なら攻撃することだ。外の誰かがぼくらを壊さないように。
 そ、と玄関を確認する。おかあさんはいない。
 よかった、今日は眠りに行ったんだ。
 後ろから襲われないように気を張り詰めながら(一度、油断していて背後から首を絞められたことがある)、ぼくは玄関の施錠をする。カチリ、カチリ。
 金属的な音がして鍵が閉まる。ぼくはこの音が嫌いだ。お父さんを閉め出す音。帰ってきても、お父さんは扉を開けられないから。

 (でも知ってる。ぼくは、知ってる)

 ぼくは玄関を離れ、最後にリビングの扉を開ける。細く細く、気配すら殺し、絶対に見つからないように。
 煌々と明かりのついた室内に一瞬目がくらんだけれど、やがて明順応した視界をフルに使って状況確認。ソファの肘置きから零れる髪を確認し、ぼくはそっと扉を開ける。
 部屋に入る瞬間が一番怖い。死角から殴られたら、蹴られたら、避けるのは難しいからだ。
 全身をセンサーのようにして、ぼくは安全を確認する。ソファに近寄ると規則的な寝息が聞こえ、ぼくはようやく警戒レベルを落とす。

 おかあさんは、涙の跡を残したまま眠りこんでいた。ぼくは近くの部屋からブランケットを持ってくる。
 眠りが深いのを確認してかけてやると、意識が浮上したのかおかあさんは小さく呻く。
 思わず距離を取ったけど、おかあさんは目覚めなかった。ほっと息を吐くぼくの耳に、微かな呟きが流れ込む。

 「あなた…………」

 ふ、と体の力が抜けた。おかあさん。
 新しい涙を一筋流したおかあさんの寝顔を、ぼくは呆けたように見つめる。嬉しくて、泣きそうだ。
 おかあさんをあいしてる。おかあさんはあいしてる。お父さんを、ぼくを。


 ぼくは知ってる。
 お父さんが、もう二度と帰ってこないことを。おかあさんが、ぼくたちをあいしてることを。
 ぼくが、しあわせだということを。


 あいしてる、おかあさん。ぼくは、あなたの子供でとてもしあわせ。
 声に出さないように呟いて、ぼくはリビングの明かりを消した。今日はどこで寝よう。おかあさんに見つからない場所を探さなくちゃ。寝起きを刺されたらたまらないから。

 二人ぼっちの、静寂が生々しい夜だった。










 夜に溶けたかのように散漫な思考が焦げ付いている。
 ああ、近くに人がいるんだな。成長するうちになんとなく身についたその感覚は、俺を幾度も助けてくれた。逆手に構えられた包丁からも、裏路地から伸びた腕からも、振りかぶられた刀からも。もちろん、全てをかわせたわけではないけれど。

 (こんな大きなお城だもんな。近くに人がいない方が、おかしいか)

 瞼の裏に覚えた見取り図を思い描く。この部屋の近くには確か小十郎の部屋と成実の部屋があったはずだ。どこにどんなトラップがあるかもわかるので、俺はこの迷路のような城を案内なしで歩くことができる。これって凄くない? だって政宗でさえ、未だにトラップにかかることがあるんだから。
 その光景が脳裏をよぎり、思い出し笑いを一つ。するとそれを見咎めたのか、啄ばむようだった口付けが急に深いものへと変わる。

 「ぶむっ」

 色気もへったくれもない声を出し、その瞬間相手の舌が動きを止めた隙をついて主導権を奪う。この俺をキスで圧倒できると思うな。意図的に身につけたスキルはとても便利だ。
 呼吸さえ奪うように舌を絡め、わざと粘性の音を立ててやる。ちゅく、と耳朶を叩いた水音は思ったより卑猥に広がった。
 主導権を奪い返そうと攻め立ててくる舌をいなし、からかうように歯列をなぞる。こいつもそれなりに鳴らした女たらしだ、息継ぎの心配なんかしなくていい。むしろこのままギネス記録に挑戦してみようかな。
 俺は、こんなふうに馬鹿な事を考える余裕まであった。けれどもこのキスをしかけた政宗はそれどころではないらしく、秀麗な顔にくっきり縦じわが刻まれている。
 美形なだけに、間近で見ると迫力だ。だが惜しかったな若人よ、さくらんぼを三つ編みできるようになってから出直してこい。



 まるで果たし合いのようなキスが終わると、お互いの口の端から銀の糸が滴った。
 あれ、しまった。唾液まで零すつもりはなかったのにな。少し慌てて懐紙を探ったが、見つける前に硬い指がそれを拭った。
 その指は、当たり前だが政宗のものだ。釣り込まれるように視線を合わせれば、仏頂面が飛び込んでくる。

 「折角のキスのあとだってのに、なんて顔してんのー。君傷つくー」
 「勝手に傷つけ」
 「むー? ねえマサムネ、なに拗ねてんのさ」
 「拗ねてねぇ!」

 拗ねてるよ見事に。
 政宗の気持ちもわからないでもない。自分が仕掛けたキスでやりこめられたら、誰だって傷つくだろう。ざまあみろ。
 にやにやしていたら叩かれた。脳が揺れる。

 「った…! 手加減しろよ、お前自分の筋肉わかってんの?!」
 「おーそりゃsorry, そこまでヒヨワとは思わなかった」
 「ヒヨコだと?! あのキスをヒヨッコと言うか!」
 「Don’t say more!(それ以上言うんじゃねーよ!)」

 先ほどより強く叩かれて悲鳴をあげる。痛いなあ!
 頭を抱えて唸っていたら、そっぽを向いた政宗が忌々しく舌打ちした。なんだかやたら悔しそうな表情で。
 ああひょっとして、

 「ムードぶち壊し?」
 「アンタが言うな!」
 「Mi scusi! ごめんねー?」
 「反省ってもんがねぇ! ったく……」

 ぶちぶち言いながら、政宗は俺に背を向け、途中で放り出していた書類に向かう。
 今から仕事するんだろうか。
 だったら俺邪魔かなぁなんて考えていたら、政宗は書類やら硯やらを片づけはじめた。
 こいつは案外几帳面なので、文机はいつも整理整頓されている。俺とは大違いだ。俺は散らかすのが楽しくて、文机なんか見る影も無い。
 片づけろ? 嫌だよ、だって散らかってる方が嬉しいもん。すぐにこの城を出て行かなくてもいい、って言われてるみたいで。

 「It’s time you went to bed.(寝る時間だ)」

 そうこうしているうちに政宗のお片付けは終わり、日本語を喋ればいいのに英語で就寝の宣言をした。実は時々こいつ時制間違えているのだが、今回はちゃんと仮定法を使いこなしているので80点と採点する。残り20点は発音の問題だ。かっこつけてる間はまだまだ甘い。

 促されるように立ちあがった。まだ、言葉に艶っぽい意味は無い。
 ―――政宗が期待していることは知っている。でも、正直寝るのはまだ無理だと思う。
 政宗はいい奴だよ、でも俺はまだ、こいつと寝れない。
 カマトトぶってるわけじゃない。だってこの体は、政宗が思う何倍もの夜を越えてきた。男を受け入れる事さえ知っている。決してきれいなわけじゃない。
 組み敷かれた時どんな対応をすれば一番傷つかずに済むかよく知ってしまっているから、俺は逆に政宗を傷つけるだろう。そんなのは嫌だ。政宗に怯えながら、政宗を傷つけて抱かれたくはない。

 (ねえマサムネ、お前、きっと俺を抱くんだろうね)

 こういう関係になってから、いつかその日が訪れるだろうとは思っている。
 けれど、まだ嫌だ。
 他の誰かとそうなるくらい躊躇わないが、政宗と寝たら、俺たちの間にある全部が壊れる。俺のせいで。
 ごめん政宗。俺は、まだお前に抱かれるのが怖い。今までに培った反射が染みついたこの体、きっと触れる肌をお前のものと認識しないこの体、お前に怯え嫌ってしまうだろう俺は、お前の気持ちを受け止める事が出来ない。
 受け入れたいのに。好きなのに。

 (俺、は、まだこのままでいたいよ)

 恋人のような、友達のような距離を保ったまま。
 抱き合うより、馬鹿な話で笑い合っている方がいい。

 立ち上がった俺は軽く笑って障子に手をかける。うまく笑えているといい。
 政宗はこうすれば追ってこない。僅かな意思表示でも聡い奴だ。

 「じゃあ、また明日。Buonanotte,(おやすみ)マサムネ」
 「おう」

 ごめんね。本当にごめんね。
 でも俺楽しいんだ。嬉しいんだ。おかあさんと過ごしていた夜とは違う、こんな風にお前と夜を数えることができるのが。
 キスでむきになったり、軽口叩いたりして笑い合えるのが、本当に幸せだと思うんだ。ごめん、俺はこれだけでいいんだ。
 これだけで、泣きたいくらいの幸せを感じるんだよ。

 「Wait a minute,(ちょっと待て)
 「んー? んっ」

 半分体を廊下に出して振り返ると、狙いすましたように唇を塞がれた。柔らかい熱。歯が当たらなかったらもっと良かった。
 鼓膜を政宗の息遣いが震わせる。近くの部屋にいるだろう人の気配も今は感じられず、ただ重なり合った感触だけに意識が吸い寄せられる。
 顔が火照っていくのがわかった。



 随分長いこと口づけていたように思ったが、多分時間にしたら数秒だろう。
 触れていただけの熱が離れていき、ほんの少しの寂しさを感じながら目を開く。やっぱりというか、至近距離に政宗が。
 ああ駄目だ。恥ずかしくて顔見れない。

 「………そ、その」
 「は、はひっ」
 「ah―、なんだ、えー、g, good night, have the nice dream」
 「ん、ん……anche tu(お前も)」

 The じゃなくてa だよとか思ったが、そんなの言える余裕もなかった。
 何照れてんの俺、もっと色んなことやってるくせに。別れ際のキスとか、俺だって色んな人にしたことあるのに。されたこともいっぱいあるのに。
 不意打ちだ。



 あたふたと部屋に帰り、両手で頬を挟んで座り込む。
 あー、冷たくて気持ちいい。

 (明日、どんな顔して会ったらいいんだろ)

 ディープキスで仁義なき戦いを繰り広げたりするくせに、触れるだけのキスでこんな。
 心が浮き立って仕方ないけど悩みは尽きない。
 誰かの気配も感じないほど、静かにざわめく夜だった。





 あなたと過ごす夜のこと

 (しあわせだった)
            (このままがいいんだ)



    (好きなんだ)


 茶会では襲い受けだと言われたので調子に乗ってみた笑
 戦国でちょっとだけ未来設定、でもこんな関係になるかは未定
 080810 J