右手には気の抜けたサイダー、左手にはうまくもない煙草。右肩から下げた鞄のせいでジーンズが蒸れて暑かった。 (まあ、連日最高気温更新中の今夏だ、鞄で蒸れたなんて今更か) 俺は苦く笑って、完璧な青さを湛える夏空へと紫煙を吐き出す。 煙はすぐに青に紛れてしまい、そのか細い軌跡を探すことも困難だ。それを表現するならどんな色の絵の具を、と反射で考え、一瞬後に気づいて歯噛みする。何を未練がましい。 苛立ちのままに煙草を踏み消し、そりゃ未練がましくて当然か、と苦く笑った。 小さい頃から、絵を描くのが好きだった。バットもボールもユニフォームもスパイクも、俺にとっては遊び道具ではなくて題材だった。 野球信者の父親は大袈裟に嘆いたし、文化系の母親さえさりげなく外で遊ぶことを促したが、俺は汗まみれになるより絵の具まみれになる方が楽しかったのだからしょうがない。 そんなだから、進路を決めるに当たり美大を希望したのは当然の成り行きというものだろう。 ひたすら絵ばかり描いている俺に両親もとうとう諦めがついたのか、俺はとある美大へと進学した。 けれども、 (世の中そんなに甘くない、ってか) 俺程度の才能なんて、見渡せばそこら辺に転がっているのだ。入学半年でそれを思い知らされた俺は、なんだかもう嫌になってしまい、夏休みになるや下宿先を飛びだした。 実家にも帰らず、知らない電車に飛び乗った。 冷静に考えれば、一昔前のホームドラマでもあるまいし何を寒いことをと身震いした。遠くへ行きたいなんて、日曜朝の旅番組で十分だ。 余談だが、後に俺はこういうお寒いことをする生き物こそが大学生という人種なのだという事実を知る。大学生は日本で一番暇な人種だ。ちなみにそれを教えてくれた先輩は衝動的にバックパッカーとしてアフリカに殴り込みをかけたことがあるらしい。曰く、だってアメリカもアジアもヨーロッパもバックパッカー一杯いるだろ。なるほど変な人だとは思っていたが筋金入りか。 「けど、“遠く”の範囲が860円じゃなあ…」 飛び乗った電車の切符は、俺の男の器を表しているようだった。せめて1000円出そうぜ1時間前の俺。 どうにもならないどうでもいいことを考えて、俺はもう一度煙を吐いた。たった1時間で随分と鄙びた夏の景色に煙が溶ける。 「暑…」 汗の染みたシャツを煽いで涼をとる。木蔭にいるはずなのにサウナのようだ。 なんだ、田舎の夏ってこんなに暑いのか。 これじゃ都会と変わらない。コンクリートの照り返しはないが、視覚的にも聴覚的にも暑さを訴えられている。 ―――目に沁みるようなターコイズブルー、強烈に白い日光にやられてへたばっているグラスグリーン、いっそ暴力的ですらある輝くひまわりの海。その右隣には稲穂をつけはじめた水田がさざめき、左隣は好き勝手としか思えない配置で並んだ夏野菜。畑を守るように立つカカシの中にマネキンが首のみでまざっていたり、鳥除けのCDが光っていたりしてぎくりとする。そしてまるで洪水のような、蝉、蝉、蝉の爆音! 俺の鼓膜を破壊しようとしているのか、それとも新手の宗教の暗示のような蝉の声には辟易するが、かといって日差しの下に出てなるものか。駅からここへ歩くだけで俺のHPは残量0だ。 ああ全く、こんな日に出歩くなんて正気の沙汰じゃない。考えなおせ1時間前の俺。1時間後のお前はぬるい砂糖水と化したサイダーを手に、生死の境を彷徨っている。 そう俺は自他共に認めるインドア派。友達だってろくろくいない、彼女なんてもっての外だ。もし仮に彼女がいたとして、誰が外になど出るものか。クーラーの効いた室内で、彼女をモデルに絵を描くことこそ俺の至福、 (だからこんなとこまでデートなんて気が知れねぇ!) 俺はありとあらゆる負の感情を込めて、黄色の波打ち際を右往左往する男の背中を睨みつけた。 モデルばりの長身、ショップスタッフみたいな服装。ちらりと見えた右目は眼帯に覆われていたが、それを補って余りある(いやむしろ引き立てる)美形だ。 くそ暑いのにおしゃれなんぞしやがって、半分呪詛と化した八当たりを口の中で呟いた。 その男は彼女と楽しい楽しいゲーム中らしい。らしいというのは、一度彼女らしき人物が見たからだ。ひまわりの海から顔だけ突き出すようにして、男の死角から彼を窺っていた少女は楽しそうににやにや笑い、男がそちらを振りむく直前にひまわりの中に消えた。背の高いひまわりは、彼女にとって絶好の隠れ場所だろう。いちゃつきやがって、ケッ! 眼帯男がいらいらとあっちへ行ったりこっちへ来たりして少女を探している。何か叫んでいるが俺のところまでは聞こえない。 そして何度目かの呼びかけの後、ひまわり畑の一部ががさがさ派手に揺れた。 眼帯男は即座に突撃をかける。しかし俺は見た。少女は眼帯男を嘲笑うかのように彼の背後から忍びでてきた。あのひまわりの揺れはフェイントだったらしい。 ひまわり少女が一声かけて、眼帯男が振り返る。遠くてよく見えなかったが、多分彼は目を見開いた。 直後信じられないものを見たかのように震える指で彼女を指差し、何かを早口でまくしたてる。 「Unbelivab……! 信じ…ねぇ、アンタ……に着て…?!」 「……! …いだろ……つ姉ちゃん……借り……! ……合う?」 「No way! ………おかしい……か?!」 聞きとれた会話の断片から、ひまわり少女が非常にかわいいことはよくわかった。死ね、眼帯男。 自分のためにおしゃれしてくれた彼女に暴言など、男の風上にも置けん! 俺は失格彼氏に殺意を抱きながら、ひまわり少女を鑑賞する。ルックスは中の上、もしかしたら上の下くらいだが、くるくる変わる快活な表情が彼女を魅力的に見せている。胸は無いが脚線美は秀逸だ。腕もいい。エスニックブルーのタンクトップに白の膝丈デニムスカート。彼女の雰囲気によく似合っていた。 きっとひまわり少女は、薄情男のために箪笥をひっかきまわし姉妹に相談し、悩み抜いて選んだのだろう。 そう思うほど、彼女の服装は彼女自身の魅力を最大限に引き出していたのだ。 見てみろ、旺盛な生命力を誇示するひまわりのカナリアイエロー、彼女の背を超えて幾重にも重なるビリジアン、その上に広がるターコイズブルーとオフホワイト、それとは趣の異なるたった一人のためのエスニックブルーとミルキーホワイト、 (あ、) 視線をそこに釘付けたまま、俺はもどかしく鞄を漁る。最初に手に触れた感触、性懲りも無く持ってきていたスケッチブック。 絵の具の染みで汚れた筆箱から6B鉛筆を引っ張りだし、黒く塗りつぶされたり無残に破られたページをめくる。めくる。めくる、真っ白な紙。 これから逃げてきたはずなのに、気がついたら詰め込んでいた。今はそれに感謝する。 ただもう本能のように、鉛筆の先が白い画面の上を走る。黄色、青、白。食らいつくように描く。 じっと見ていた。鮮やかな色彩の中で、少女の白いスカートが眩しかった。まるで彼女の本質を象徴するようで、それをこの白紙の上に掬いとりたかった。微妙な陰影を持ち、けれどもとても鮮やかなそれ。 蝉の声すら聞こえないほど、夢中で手を動かす俺の視線の先で、眼帯男とひまわり少女は何か会話をしているようだった。男の表情は見えないが、少女の表情はよく見える。彼女はずっと笑顔を浮かべていた。 何枚目かの絵、ひまわり少女の顔アップを描こうとしていた俺は、その時小さな引っ掛かりを覚えた。 一瞬後には気のせいかと思いなおしたが、その瞬間物凄い勢いで眼帯男がこちらを向く。確実に合った凶眼に射すくめられて息が詰まった。 「テメェ…!」 眼帯男が鋭く叫び、獲物に襲いかかる肉食獣のような速さで俺との距離を詰める。お前実は陸上の選手かと疑う俺はインドア派、逃げるなんて選択肢は浮かばず、気がつけば犬歯を剥きだしにした彼に掴みあげられていた。 「What are you doing?!」 地を這うような低音で、しかも英語で言われたものだから、一瞬で何が何だかわからなくなった。 怖い、怖い、ひょっとしたらこの眼帯男はヤンキーとか筋モンとかいう奴で、俺が彼女に手を出そうとしてるとか勘違いしてて、俺はきっと有り金奪われた挙句コンクリート詰めで魚の餌にされるんだ…! 俺は震えて答えどころではなかった。美形なだけに余計恐ろしい眼帯男に竦んでいると、ふいに近くから歓声があがった。 「Un bel quadro!(きれいな絵!)うわあ、見ろよマサムネ、この絵お前がモデルだ!」 「Shut up! 気持ち悪ィな、アンタストーカーか?」 いつの間にか近くに来ていたひまわり少女がぱらぱらとスケッチブックをめくっては能天気な声を上げている。 彼女にそのうちの1枚を見せられた眼帯男(マサムネ、というらしい)は相変わらず敵意を込めた目で見てきたが、その疑惑は的外れな上絶対に遠慮願いたいので必死で首をぶんぶん振る。 「マサムネ、離してあげなよ。その人pittore(画家)でしょ?」 「肖像権ってもんがあるんだよ」 「そりゃあるけど、そんなに目イルカ立てるもん?」 「……イルカじゃねぇ。クジラだ」 「あれ、そうだっけ…? ………ねえ、なんで顔なのにクジラなの?」 「俺が知るか」 ひまわり少女が喋るたびに眼帯男のとげとげしい空気が消えていく。俺は愛の力を噛みしめ、祈ったこともない神に感謝した。 「で、アンタは結局何なんだ」 「ただの通りすがりの美大生るぅえす!」 先ほどより幾分かマシになったとはいえ、気の弱い人間なら睨まれただけで気絶しそうな形相で凄まれ、俺は可能な限りの早口で答える。噛んだ。……情けないとか言わないでほしい。俺が一番わかってるから。 「すんません、ほんとすんません、あのでもなんかすげーいい画だなって思ったら描かずにはいられなくなったっていうかすんません謝りますもうしませんっ」 「え、もうしないの?!」 残念そうな声をあげたのはひまわり少女だ。そう言ってくれて嬉しいけど、あんたの彼氏が怖いんですよ…! 暴力彼氏は俺を掴みあげたまま器用に片眉を吊り上げる。その嫌そうな表情さえ格好いいのだから神様はとことん不公平だ。端整な男は人類の敵だと固く信じている。 「、アンタ描いてほしいのか? こんなうさんくせぇ野郎に」 「別に構わないけど。Pittoreだってば」 マジですか! 多分その時、俺の目は発光していただろう。漫画みたいだけど、キュピーンってな具合に。 眼帯男から解放されるや、俺はスケッチブックと鉛筆をスタンバイした。鼻息荒く準備万端な俺に二人は一瞬たじろいだが、ひまわり彼女の方がにかっと笑って眼帯男の手を取りポーズを取った。といっても広がるひまわりと夏空をバックに二人並んで立っただけだが、色彩的にも配置的にもこれ以上の場所は無いと思う。かえって妙なポーズを取られる方が、彼らの間にある雰囲気を壊すようでいただけない。 (ナイス、ひまわり少女!) ぐっと親指を立て、俺は鉛筆を構える。さあどこから描こうか、ひまわり少女の笑顔と眼帯男のむかつくほど整った顔、彼らの間にある雰囲気、その本質を求めて俺は画家の目になっていく。鮮やかで美しい世界に魂ごと絡めとられていくような、その混沌とした世界から何か形のないものを掬いだしていくような感覚。 ああでも、と研ぎ澄まされた感覚が首を傾げた。 何かがおかしいと思った。それが何かはわからないし、無視してしまえるほど些細な異和感。けれども薄い膜のような何かがどこかに存在する。 その時ふいに眼帯男が片手をあげ、その大きな手をひまわり少女の頭に置いた。 ひまわり少女は驚いた顔をして眼帯男を見上げたが、眼帯男は明後日の方向を向いたまま目線を合わそうとしない。俯瞰するに、彼の熱い視線の先にはピンク頭の生首マネキンが棒にぶっさされているのだが、多分彼にはそんな物体気になるまい。認識しているかどうかさえ怪しい。 恨めしげな生首と熱烈な見つめ合いを続ける眼帯男を彼女は穴があくほど見つめていたが、やがて何かが溶け崩れたかのようにふわりと笑った。 (これだ!) 俺はその瞬間天啓を受けた。かつてない速度で鉛筆が走る。 これだ、俺が描きたかったもの。この二人の間にあるもの。 線を引く一瞬すら惜しむように俺は見て、描いて、見て、―――― 「Benissimo……!(すごい……!)これ、ホントに絵…?!」 「Hm……まあまあじゃねぇか」 素直な賞賛を受けて(眼帯男のは多少ひねくれていたが)俺は意味も無く水彩用の筆を回してみる。今彼らが見ているのは、鞄の底にしまわれていた携帯用の水彩顔料で着色した絵だ。 我ながらなかなかいい絵になったと思う。久しぶりに技巧を気にせず、おもむくままに全集中力を結集して描きあげたので心地よい疲労感が目のあたりに凝っていた。 「良かったらそれ、差し上げます」 「いいの?! Grazie! Grazie mille!」 「こら握りこむな、皺んなるぞ?! Thanks, you are so cool.」 「え、えぇー…サンキュゥベリーマッチ」 しまったユアウェルカムか。 下手な英語で会話させられるという羞恥プレイを経て、俺の最高傑作は彼らの手に渡った。ああ、気持ちがいい。 二人が何事か会話する前で、俺は充実感に浸った。 (俺は、こうやって絵が描きたかったんだよなぁ) 周りの評価ばかり気にして、それを忘れていた気がする。 無心で、ただひたすら楽しみながら描いた絵は、大事なものを取り戻させてくれた。 絵を描くという、純粋にただそれだけの幸せを噛みしめる。目の前にひまわり、夏空、恋人たち。なんて素晴らしい。 早速次の絵が描きたくなって、俺はスケッチブックをめくる。 帰路、新しいのを買いたそうと考えた。世界は、美しいもので満ちている。 ゴッホの白 (「pittoreって凄いねぇ。見透かされるかと思った」) (「アンタはサービス精神旺盛すぎだ。視線一つで引き攣るくせに、モデルなんざcrazyだぜ」) (「ちぇーいやかましい、この絵のどこが引き攣ってるっていうんだよ!」) (「う、そ、それは……な絵だと思う、けど、よ」) (「……? Mi scusi(ごめん)聞こえない。どんな絵?」) (「………ッ、ニヤニヤしてんじゃねぇよ!」) (「あいたっ! ホントに聞こえなかったんだってば!」) |
茶会ネタよりお題:スカート は見透かされるのが嫌いです 秘密は絶対に隠しておきたいタイプ ……そして、誤解されたままの二人。いいんだか悪いんだか笑 080810 J |