まどろみは勢いよく鳴り出したベルに破られた。
 布団から手だけがのそのそ出てきて、しばらく虚空を漂ったのち新しい一日の始まりをけたたましく宣言する目覚ましを探り当てる。ボタンを押す。頭に響く金属音でがなりたてていた目覚まし時計は不服そうに黙った。
 「ぅ……」もぞもぞ動いた布団の中から、眠そうな目と乱れた黒髪が顔を出す。7時32分。ぼんやり文字盤を見つめた瞳を重たげな瞼が覆い隠そうとして、「せって え とれんたどぅえ……(7じ32ふん……)うううっ」幼児のように覚束ないイタリア語の呟きと、何かを振り払うような掛声と共には布団を跳ね上げた。さよなら俺の天国。
 意を決して飛び起きたは一度名残惜しそうに敷布団の表面を撫で、ベッドから降りる。足の裏に触れた床の冷たさに早くも後悔して、すぐにスリッパを履いた。大分寒気は緩んできたがそれはコートを脱げる陽気というだけで、朝晩の床はまだ心地よさよりも冷たさの方が形容としてはふさわしい。
 六畳一間フローリング、バストイレ別のアパート。部屋唯一の窓を覆うカーテンを開けると、生まれたての朝日が眠気を燻ぶらせる体を洗った。

 「んーっ! Buongiorno, domenica!(おはよう、日曜日!)」

 一度大きく伸びをして、流れるようにストレッチ。目覚めたばかりで硬い体を解きほぐし、冷たい水で顔を洗う。花の匂いのする石鹸。それは、イタリアでサーカスにいた頃ダンサーのお姉さま方がくれた石鹸で、日本に帰ってからは政宗がくれるようになった。ビザの関係で日本に一時帰国した時、何がどうなったのか結局しばらく日本で暮らすことになって以来、政宗を始めこのアパートの管理人の信玄、その甥っ子の幸村、ご近所の佐助などが何かと世話を焼いてくれるのだ。
 さっぱりしたはラジオをつける。チューナーをいじってニュース番組に合わせた。おはようございます朝のニュースです。日本語の教材みたいな声が淡々と昨日の出来事と今日の予定を読み上げるのを聞きながら、は朝食の準備を始める。洗い棚でひっくり返っているマキネッタを取り上げる。マキネッタはエスプレッソを作る道具で、カフェイン中毒のは蚤の市で買ったこの年代物のマキネッタを大事にしている。一人用に丁度いいサイズなので、美味しいエスプレッソができるのだ。
 天気予報を聞きながら、ボイラーに水を張ってバスケットにコーヒーの粉を入れる。粉の量を慎重に見極めるの耳に気象予報士が天気を囁く。今日は一日中晴れで、春風が気持ちの良い休日になるでしょう。降水率は0%。花粉飛散量はやや多め。(お出かけ日和だ)嬉しくなって思わず粉を多めに入れた。
 ボイラーとバスケットの準備が終わり、サーバーを取りつけて火にかける。それと同時並行で進めていたのがフォームドミルクの準備で、70℃ほどに温めたミルクをクリーマーに注ぐ。エスプレッソの完成を待つ間にフォームドミルクを作る。コーヒーの芳しい匂いが広がった。
 お気に入りのカップにエスプレッソを、その4倍ほどのフォームドミルクたっぷり注いで、仕上げに表面を軽くいじる。ハートとリーフを描いたラテアート。
 棚からスーパーで買ったショートブレッドを取り出して、おまけにオレンジとヨーグルトを付け合わせる。テーブルに並べた朝食は普段より少し豪華だ。いいじゃん今日くらい。はうきうきとカプチーノをすすった。ラジオはいつの間にか歌番組に変わっている。きらきら差し込む春の朝日に、コーヒーの香りに乗るOlivia Newton-John。まるで映画のワンシーンみたいに整っている。

 「ええっと、10時に待ち合せだったよな」

 ショートブレッドを飲み込みながらウエストポーチを引き寄せ、手帳を取り出して予定を確認。今日の日付は青いマルで囲まれていて、「政宗と約束! 10時に**公園」と書きこまれている。倹約生活を送るが珍しく映画に興味を引かれているのを見つけた政宗が誘ってくれたのだ。その映画は今日封切りで、約束を取り付けたのは一ヶ月前。といっても案外政宗は律儀だから、すっぽかされることはあるまい。は今日を楽しみにしていた。普段なら二度寝する休日、無理矢理早朝に起床したのは遅刻しないためだった。政宗は意外と時間にうるさい。
 オレンジを放り込んだヨーグルトを平らげ、時計に視線を走らせる。8時15分。
 時計の針を指で回したらすぐに10時になるだろうかと思う。思ってその思考の阿呆らしさに気付いて眉を寄せた。
 何を馬鹿なことを。思考を流し込むようにカプチーノの残りを流し込む。
 「うしっ。ゴチソーサマ!」教えられた通りに手を合わせ、食器を片づける。歯を磨けば、残すところは着替えだけ。服は前日の晩に決めてあったので、ラジオの音楽に合わせてリズムを取りながら着る。春を意識したコーディネート。古着ばかりだがその方が一癖あって面白い。

 「どーかな。……似合ってる、よなぁ?」

 鏡の前で一回転。別に女物を着ているわけではないのだがどうしても性別不詳になってしまうので、そのあたりはもう諦めている。
 時計を見ると9時6分。あと54分。秒針の進みがやけに遅い。あれ遅れてるんじゃないか、そう思って腕時計を見ても時刻は変わらない。
 手持ち無沙汰になってしまい、何かすることはないかと部屋を見回す。何もない。こんなことなら昨日の晩に全部準備をしてしまうんじゃなかった。
 ちゃんと寝癖を直した髪が乱れてしまうのが気になって、ベッドに腰かけても寝ころべない。いやむしろ寝てしまって遅刻するかもしれないからどっちにしろ寝ころべない。もっとも眠気などとうにどこかへ行ってしまったが。

 「映画見てー、それからどうしよっか……」

 がさがさ映画のチラシを取り出し、見るともなしに眺めながら呟く。終わるのは丁度昼頃だから、昼飯でも食べに行こうか。飯食ったら解散? それじゃつまらない、何か面白いことは無いかな。
 普段なら次々浮かんでくるアイデアがとんと思い浮かばない。視線は頻繁に時計に向かい、5分も進んでいないことに溜息一つ。
 気に入りのデニムパンツの、折り返した裾にプリントされた柄をなぞってみる。イラストレーターのポートレイトのような絵は複雑で、時間潰しには丁度よく思えたが、集中力なんて欠片もなかった。早々に諦めて視線を泳がせる。9時29分。まだ30分もある。
 は部屋をうろうろしだした。ラジオを切る。水道の栓はしっかり止めた。コンロもちゃんと切ってある。電気も消してあるし、窓の鍵も閉めてある。部屋の鍵は財布の中で、ああそういえば財布にはいくら入れたっけ?
 無駄な動きを繰り返し、何度も時計を確認し、ようやく40分になった時点で我慢しきれず部屋を出た。冬のように澄み切っても、夏のように重くもない、春の朝の風が柔らかく頬を撫でる。
 もどかしく鍵をかけて歩き出すと、脚は軽やかにアスファルトを蹴った。いくらもせずに公園につき、幼い子供たちが遊びまわる園内を見回した。まだ政宗は来ていない。
 はベンチに腰かけた。上を見上げる。パステルブルーの綺麗な空。その空を突くように時計のモニュメントが立っている。9時53分。

 「はやく」

 早く10時になればいい。ぽつりと呟いた声は子供たちの歓声に溶けた。
 公園の入り口を見ながら、ラジオで流れていた曲を口ずさむ。歌い終わる頃には、きっと政宗が来るだろう。





 日曜午前9時53分

 もどかしさが出てればいいと思い ま  す(恥)
 080313 J