文字は書き手の人となりを表すのだという。
 ならば手紙は書き手の死体だ。手紙は書き手のかけらでできている。

 海を越えて運ばれてきた幼馴染は、懐に使い古した硯を抱えていた。なんとかという僧が彫ったといういわれがあるらしいが弥三郎は覚えていない。松寿丸もその点に関しては特に執着していないようだったが、彼はその古い、四隅に墨の塊やら筆の毛やらがこびりついた、いわれの元となった彫刻の模様すら擦り切れた硯に、至極真剣な面持ちで水を垂らすのだった。
 彼は墨を磨るのが、格段に上手かった。日常的に行うものであるから、弥三郎とて墨くらい磨るが、松寿丸と違いよく墨汁を零したり、硯と墨がかちあってカチリと不穏な音を立てることもしょっちゅうだった。その点、松寿丸の手にかかれば、墨は絹の上を滑るように滑らかな動きをするのだった。しゅ、しゅ、と、規則的な音がするのを、弥三郎は行儀悪く寝転びながら、ちびた墨で指先を汚しもしない松寿丸の左耳を眺めた。顎に続く線が、心なし大人びたようだ。もっと、ずっと幼い頃、彼らが初めて出会った時は、松寿丸は野猿のように日に焼けていて、山里育ちのせいか海が珍しかったのだろう、手習いがあるからと嫌がる弥三郎を引き摺って海へと駆けていたのだけれど、再会した彼は遊ぼうなどとは口の端にも上せなかった。暇があれば書き物やら、読書やらをしている。

 近頃ようよう、潮風に興奮を見出すようになってきた弥三郎は、また彼を海へ引き摺って行くであろうと思われた幼馴染の変容に肩透かしを食らった気分で、組んだ腕に額を乗せた。同じ海を身の裡に抱えて、やっと同じ青色を謳歌できると思っていたのに、松寿丸は薄情にも海鳴りを打ち捨ててしまったのだった。文房四宝と貴ばれたところで、硯は所詮石、石化した古代魚の痕跡のような文字は、朝の洗われたような空を吹く風と砂利道を駆けるまだ柔らかな足の裏に敵うものではないだろうと弥三郎は思う。

 「松寿丸、まだ終わらないのか」
 「終わるはずがない」

 松寿丸はにべもなかった。随分、声が低くなったと思う。もう随分遠い昔の事に思える、彼が弥三郎を引きずりまわしていた頃は、彼は全身で発したような高い歓声を響かせていたというのに。

 「何を書いてるんだ。写経なら、夜にでも心静かにすればいい」
 「六韜」

 短く答えて、松寿丸は慎重に筆を動かした。彼は細胞を敷き詰めるように、文字で空白を埋め尽くす。
 なんだ、そんなものなら、と弥三郎は体を起こした。小袖が少し突っ張る。むかしは細く頼りなかった弥三郎の骨は、今が成長期と見えて、日を浴びた若草のように纏わる肉や筋を押し伸ばしている。小袖を着続けるのも、そろそろ頃合かもしれない。陽の下、海の上に楽しみを見出すことができたから、次に着物を仕立てる時は動きやすい男物を注文してみようと思う。

 「あげるよ、それ」
 「……なに」
 「ぼくはもう読んだし、読みたくなったら、六韜だからすぐ買える」

 六韜は、武家には必須の兵法書だ。当然需要も高いから、それなりの値を出せば簡単に買える。
 これでもう書写する必要はないねと、弥三郎は松寿丸の手を引いた。体勢を崩した松寿丸の膝が文机に当たり、墨汁を撒いて硯が落ちる。濃い、古代の生き物の死んだ時間を凝縮したような墨のにおい。
 拾おうとする松寿丸を弥三郎が制した。

 「良い。小姓が掃除する」

 それよりも、松寿丸がこちらを向くことが重要だ。松寿丸は、その鮮やかで限られた時間を、化石のにおいではなく潮のにおいに包まれるべきだと思った。
 松寿丸は苦いものを堪えるように眉を寄せた。弥三郎の記憶にはない顔だ。彼の父の死後、政情が落ち着くまでと長曾我部家に預けられた松寿丸は、弥三郎の心臓を炙るような表情を手に入れていた。彼がそんな表情を見せるたび、彼の身の裡の海が干上がっていくのが見えるようだった。あるいは、彼の満面を彩っていた、魚の腹のような虹色が色褪せていくような。代わりに彼は、亡父から譲り受けた硯に引きずられるような、硬質な暗闇を覗かせるようになったのだった。弥三郎はわざと力を込めて彼の手を引く。松寿丸の雰囲気に苦痛が走った。知らない表情が消えたことに、弥三郎は満足する。松寿丸は硯などに囚われてはいけない。弥三郎と共に、ずっとずっと泳いでいるのだ。
 けれども松寿丸は、もう一方の手で弥三郎の手を叩き、両手の自由を得ると、板床に転がった硯を拾い上げた。指の間から、いつか彼が屠るものの血のように墨汁が滴る。

 「松寿丸。ぼくたちは、まだ終えなくてもいいはずだ」

 柔肉と骨の硬さを混在させた掌は、まだ、軍略ではなく虫を採ることが可能だと思っている。
 弥三郎も、松寿丸も、まだ掌に鰭を、足に尾を持っている。わざわざ今から、己でそれを削ぐことはない。いずれ、それらは瑞々しさを失い、枯れ落ちてしまうのだから。
 そういうと松寿丸は、海の底の底に沈んだ魚の骨が、遥かな陽光を透かして輝く水面に憧れるような顔をした。

 「われも、お前も、とうに終わりの始まりに立っている。気付かないのか」

 彼がかつて自在に泳いだ海を思ったのか、遠くない未来に綴る骨のにおいのする文字を思ったのかは、定かではない。





 標本少年(硯)




 化石標本
 岐路の季節
 100805 J