筋肉をほぐすように軽く両肩を回し、手すりにひっかけてあった棒を手に取る。 快い緊張を含んだ息を軽く吐き、とん、とん! 足場を蹴って、政宗の体は宙を舞う。指先から爪先まで神経が行き届き、均整を保った体はしなやかに空を切り、スポットライトの交錯する暗闇の中、彼は鮮やかに、彼の体を吊る振り子から別の振り子へと飛び移った。わあ! 歓声が弾ける。 ゆらり、ゆらり、固唾を呑む音と見開かれた視線を全身に浴びる。政宗は再び振り子から手を離した。くるり! 燕が滑空するように、彼は伸びやかな体を回転させ、その放物線が重力に捕らわれる前に、タイミングを合わせて向かってきた佐助の手を掴んだ。政宗は息つく間もなく体をしならせ、後ろ向きに跳ぶ。目に見えない位置でアーチを描いていた振り子を、彼は両脚でもって捕まえた。 天幕の中に広がる中空に、政宗は美事な軌跡を描く。 星のようなライトの煌めき、宇宙のような暗闇、遥か足元に居並ぶ観客の目、その間こそが、政宗の舞台だ。 夢の終わった舞台というのはしけたものだ。暗闇でめかしこんでいないサーカスほど安っぽいものはない。 団員たちは次の観客を一瞬の夢に誘い込むため技を磨くか、道具のメンテナンスをして時を過ごす。 政宗は、舞台用の煌びやかな衣装ではなくて、練習用のレオタードに着替えて、空中ブランコの綱の点検をしていた。隣では、佐助がぶつくさ給料的な文句を言いながら同じ作業をしている。彼らは、空中を我が物顔で支配するサーカスのスタアたちだが、地味な作業を厭いはしない。それが自身の安全に直結することをよくわきまえている。特に彼らは命綱をつけないから、綱が切れれば、イカロスのようにまっさかさまだ。体操選手が落下するのとはわけが違う。遥かな空中から地面に叩きつけられれば、彼らの命は粉々に砕けるだろう。 点検も終わりに近づき、新技の練習をしようか、眠りに就こうかを話し合っていると、アスレチックアーティストの慶次が悲鳴じみた声をあげた。一瞬無視してやろうかと思ったが、次の瞬間落下音が聞こえたので、肩を竦めて足を向ける。筋を違えでもしたらことだ。 アーチェリーの元就が興味なさげに道具の点検をしている横には、入り組んだ形の鉄棒がある。大柄な慶次には些か狭苦しいそれは、政宗や佐助を中心とした若手たちが次の新技として考案しているものだった。幾人ものアーティストが、まるで空中ブランコが何列も続いているように、鉄棒の列を駆け抜けようというものだ。それに参加するのは、政宗たちに代表される空中での離れ業に慣れた面々と、素質を認められた数人。大柄な慶次や元親は、素養があれど体格の問題で除外されたので、自主的にコーチの役に就いている。 「幸村、頼むから飛び移るときは目を開けてくれよ! 対向のアーティストと衝突しちまう!」 「うう……も、申し訳ない……」 そして素質を認められたうちの一人が、猛獣使いの幸村だった。 そういうことか、と政宗は唸り、佐助は苦笑いを零した。 「旦那、高いところ苦手だもんねぇ」 「だからって目を閉じたままperformanceするわけにはいかねえだろう。こいつだけならまだしも、全員のperformanceが破綻するぜ」 幸村は、彼が可愛がっている虎はもちろんのこと、象やライオンの背で飛び跳ねることはものともしない。けれども何故か、相手が金属の棒にかわった瞬間、彼は目を開けていられなくなる。 それでいて、技自体は完璧だ。流石素養を認められただけのことはある。 「でも、いくら動きは完璧でも、これじゃコンビネーション技はできないな……幸村、やっぱり出るのやめる?」 「否っ!! なんとしてでも、この幸村、己の弱点を克服してみせる!」 なんのこれしき! と天幕の骨目掛けて叫ぶ幸村に、政宗は軽い口笛を吹いた。幸村の雄叫びに呼応して、天幕の向こうで虎が吠える、ライオンが吠える、熊が吠える、象が吠える。元就から「やかましい!」と叱責が飛んだ。 「いいねえ、その意気だ! ただ、これはオレじゃ手に余るな……どうだい、独眼竜。ちょっと後輩を手助けしてやってくれないかい」 「Ah? なんでオレが。猿にやらせりゃいいだろう」 「それでもいいんだけど、佐助じゃ高所恐怖症の気持ちはわからないんじゃないかい?」 「ま、確かに俺様は、鉄棒やブランコを怖がったことはないからね。最初っからサーカスの子だったわけだし」 「だろ? でも政宗は最初……」 「A――ll right, all right! それ以上言うんじゃねえ」 過去を知られている輩ほど厄介なものはない。政宗は含み笑いを始めた慶次と佐助に呪詛を吐いておいて、幸村に向き直った。 政宗が指導してくれるらしいと感づいた幸村は、よく躾けられた犬のように背筋を伸ばして挨拶する。 「オレが直々にcoachingしてやるんだ、死んでも上達してもらうぜ」 「政宗殿に教えていただけるとは恐縮でござる! 不肖真田源二郎幸村、よろしくご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたす!」 まさかこれほどとは思わなかった、と政宗は天を仰いだ。各自の練習やら点検やらを終えたアーティストたちは三々五々散っていき、幸村の練習を見物していた慶次と佐助も、明日に備えて部屋に戻った。最小限の灯だけが残った天幕の中は寒々しく、舞台セットや小道具大道具の山がうらぶれた影に沈んでいる。 その中を、きしり、きしりと鉄棒のしなる音、幸村の呼吸音。 そして時たま、短い悲鳴と落下音。 「あ゛ー、ったく!」 汗だくでしょげかえる幸村に歩み寄りながら右の頭を掻く。政宗は左の頭を掻かない。指で、眼帯の紐をひっかける恐れがあるからだ。 見下ろした幸村は、己の不甲斐無さと政宗への申し訳なさで一回り小さく見えた。スポットライトを浴びて、猛獣を意のままに操っている時は、はちきれんばかりの笑顔を浮かべているというのに。 政宗は小さく舌打ちをした。五感の鋭い幸村はその音を容易に拾い、びくりと肩を震わせる。その額に手を置いて、やや強引に上向かせた。 「鉄棒はもういい。着替えて、天幕の入り口に来な。靴を忘れるんじゃねえぞ」 「は…」 匙を投げられたのか、と幸村の眉が悲しそうに寄る。政宗は幸村に背を向けて、「オレが戻ってくるまでに来なかったら二度とadviseをしてやらねぇからな、you see?」それはつまり、まだ面倒を見てくれるということか。しかしそれにしても、サーカスを出てどこへ行くというのだろう。 希望と疑問を浮かべた幸村は、慌てて政宗を追い越して、自身に割り当てられた更衣室に走り込んだ。 汗を流すのもそこそこに着替えを済ませる。髪を濡らしたまま入り口に突っ立っていると、いくらもしないうちに外出着の政宗がやってきた。幸村に気付いて、手に持ったスポーツドリンクを放る。 「てめえのことだから、水分補給なんざしてねえだろう」 「し、失念してござった…」 「あと髪だ。風邪引かれたら迷惑だ、さっさと拭いてこい」 「は、はいっ!」 Go home! とばかりに指さされた先に向かって走る。その辺にあったタオルで乱暴に髪を拭き終え、スポーツドリンクを煽りながら戻ってくると、政宗は一瞥を残して背中を向けた。ついてきな、と掛けられた言葉に素直に従う。 サーカスの天幕は、それなりの広さを持った市民公園に張られている。とりまく木々の向こう側にはきらびやかなネオンがあった。空の端はうっすらと明るい。既に夜半を回っているはずだが、その明るさが夜明けのものか、人工のルミネセンスかは判別がつかなかった。大都市は昼も夜も人で溢れている。 政宗は何かを探すように、緩く頭を振った。片目の彼の視界は狭い。幸村は、政宗が何を探しているのか問えば良かったのだろうが、公園の青白い電燈に浮き上がる背中に声をかけられないでいた。 布越しでもわかる、厳しく鍛えられ、均整のとれた体。猛獣相手の演技をすることが多い幸村と比べ、政宗や佐助のような空中アーティストたちは細身で、体の隅々まで神経が把握されているので、動作一つが流れるように滑らかだ。 幸村は、サーカスに所属する以上、ダンスの練習は怠っていない。それでも、政宗の動作は、いっそ見惚れるほどに完成されていた。優雅であるとすら言っていい。 「Hey,何を呆けてやがるんだ」 「………!」 半身振り向いた政宗は、今正気付いたと言った態の幸村に一瞥をくれて手招きした。目的のものを見つけたらしい。近寄るにつれ、暗闇の中からそれがぼんやりと姿を現す。 「……ブランコ、で、ござるか?」 「Yes」 政宗は、さも当然のようにさあ乗れよ、と指さした。柵に凭れた彼の足元に、電車を模したプラスチック玩具が転がっている。子供が置き忘れたのだろう。幸村は眉を寄せた。いくらなんでもこれは酷い。幸村はもうブランコで遊ぶ歳ではない。ブランコ乗りを職業とする政宗とて、こんな、ただの遊具のブランコでは何の練習もできまいに。第一幸村の取り組むべき課題はブランコではなく鉄棒だ。 無言の抗議と、一度師と仰いだからには従うべきかという葛藤を感じ取った政宗は、面倒くさそうに幸村の手を引いた。 「四の五の言ってねぇで座れ!」 「うおっ」 無理矢理座らされたブランコの座高は低く、成長した手足が大きく余った。座りが悪い。何故こんなことを、と鎖を握り締めた手に力が入る。と、その手に一回り大きな、皮の厚い手が重なった。 ぎょっとする幸村の耳元で政宗が命令する。 「いいか真田、オレが合図するまで目ぇ瞑ってろよ」 「な、なななななはは」 「Ah? ……ああ、Ha,何妙なこと妄想してやがる。これはSpecial lessonだ。黙ってオレに従いな。Dramaticなmagicをかけてやる」 Welcome to the fantastic dream! 政宗は急に鎖を引き、鍛えられた両腕で幸村の背を強く押した。地面に擦らないよう、反射的に足を伸ばした幸村に、「絶対目ェ開けんなよ!」と声が飛ぶ。 目を瞑ったまま、足の曲げ伸ばしをするのは大層な努力が必要だった。タイミングがずれれば爪先が地面を擦り、政宗の理不尽な怒声が続く。なんだこれは。遊びなのか練習なのか判然としない。練習にしても一体何の練習だ。 規則的な振り子運動の結果、段々と足の曲げ伸ばしのタイミングも合ってくる。最初のうちは政宗の手が幸村の背を押していたが、幸村は段々と自分でブランコを扱ぐようになった。まだ目を開ける許可は下りない。ブランコが鳴る。自身の体重を重しにして、幸村の体はより大きなアーチを描く。盲目のまま扱いでいると、このまま一回転してしまいそうな心地がした。少しの恐怖と興奮。政宗が住んでいる世界を覗いている。 「OK, open your eyes!」 政宗の声に勢いよく目を開ける。丁度、ブランコは振り子運動の頂点に達していた。瞼の裏の暗闇に慣れた目が、一瞬視界に火花を散らす。 そして、伸ばした足元に、空。 思わず息を呑んだ。それは一瞬の光景で、振り子の法則に従ったブランコは幸村を頂点から引き戻し、また一方の頂点へとつれていく。だがすぐに、幸村は同じ高さに達した。今度は、頂点で足を伸ばしてみる。 足元に空。朧に発光する低い空、少ないけれども銀砂をまぶしたように輝く星々、満月に少し足りない傾いた月、深い暗色の空に刷かれたような色の雲。 「なんと、美しい……まるで、空を踏んで歩いているようだ」 独白した幸村に応えるように、またはそこにある詩を詠むように、政宗は語った。 「東にラスアルゲチ、西にオリオン。南にアンタレス、北にカシオペヤ、ミルキーウェイにはデネブ、ベガ、アルタイル。遥か宇宙の底まで続く空に銀盆のような月、街が放つルミネセンス。足を動かして見ろ、真田。お前は今、宇宙の真ん中にいる」 幸村は夢中でブランコを扱いだ。頂点に達するたび、足を動かしたり、頭を下げて視界を夜空で満たしては歓声を上げている。 目は、食い入るように見開かれていた。 オレも久々にやるかな、と政宗が隣のブランコを引き寄せる。長身の体を折りたたむようにして扱ぎ出した。常の政宗には洗練された修飾語ばかりがついているが、彼が遊具に親しむ姿には妙な愛嬌がある。 「政宗殿! 貴殿は、この光景に魅入られてブランコ乗りになられたのか!?」 「Of course! サーカスは夢、全てはメタファー。天幕の中には宇宙があるのさ。宇宙をこの手にできると知って、どうしてそれから目を背けられる?」 この宇宙を見つけたかつての政宗は、それから命綱一本とてない暗闇の中を自在に闊歩できるようになった。 彼は、サーカスのきらびやかな闇の中に浮かぶ星を、惑星を知っているのだ。 幸村は、東の端から色を薄めていく夜をもう一度見つめた。踏み出した足が宇宙を歩む。 星間遊歩道 「やったねえ、旦那! 目を開けられるようになったんだ!」 「大したもんだねぇ、独眼竜。どんな魔法を使ったの?」 「Magicianはタネを明かさねえもんだ、you see?」 「一晩かけて手取り足取り教えていただいたのだ!」 「「「…………」」」 |
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